第199話・ Harmonics
海外旅行で絶対に忘れてはいけないのが、日本円を使えないということである。当たり前のことであるが、僕はポンドを持っていない。
よくよく考えれば、ホテル内で満さんとずっと居るというのも良くはない。満さんだって、息が詰まるだろう。その可能性を考えて、最上さんに電話した時にポンドを入手しておくべきだったのだ。
僕は自分の動揺を自覚させられながら、最上さんに両替を頼んだ。本来であれば、両替ができる場所を利用するべきだ。でも、今の満さんにかけるストレスは最小限にしたい。
思考の容量が足りない。僕にも孔明お兄ちゃんほどの頭脳があればと、悔しく思うばかりだ。
ところ変わって、ロンドン市街。僕の英語の知識は学生時代を頂点として、かなり退行している。だって、学んでいた時からもう十年も経過しているのだ。
街は、相変わらずの異世界だ。日本の多文化混在とは違い、多くの建物が同一の文化で統一されている。
混沌で生まれた僕たちにとっては、その統一感こそがファンタジーだ。おそらく、逆も然りだろう。統一された文化の中で生まれれば、日本の混沌はファンタジーに思えるかも知れない。
だが……まぁ、なんというか……。
「
僕はその時、始めて本物のナンパな人と出会った。
イギリス人と日本人は似ている部分がある。島国であり、王家がある国だからだろうか。よって、イギリス人は礼儀正しく、そしてシャイである。
ただ、シャイな人間がナンパを諦めるのは、相手の容姿が常識の範囲内の場合だ。満さんの容姿は、銀さんに及ばないものの、常識から片足を踏み外す程度には美人である。
「この人、何言ってるの?」
普段の満さんは、僕よりは英語ができる。だから、これに関してはわかってもいいかも知れない。でも、わからなかったということは英語の知識はこの満さんに共有されていない。
「
英語を話すの時は必死だ。必死に情報を咀嚼して、日本語に変換する。どうにかこうにか、ふわっとした意味を掴んで、それが正しいかを確認せねばならない。イディオムなんて使われた日には、僕はお手上げだ。
「
ナンパだとしたら、なんとなく意味が分かってしまう。
「
と、僕は少し柔らかい表現で断ってみた
「Sorry for contacting you out of the blue. You probably wondered who was messaging you!」
その意味は完全には分からないが、どうやら諦めてくれたようで、彼は踵を返した。
治安の良さとは、ナンパをされないということではないと思う。断ったとき、諦めてくれるかどうかだと思うのだ。恋愛の入口としてのナンパは肯定したい。
「お待たせしてごめん。彼はね、僕たちと遊びたかったんだ」
主に満さんとだと思う。
しかし、これまでこういうことがなかったのは最上さんが助けてくれたのだろう。
「遊んであげなくてよかったの?」
説明が難しい。
「えっと……大人の遊びをご所望だったから……」
と、とりあえずそういうことにしておいた。恋愛も大人の遊びだと思うし、嘘をついているわけではない。
「あそっか、リン君お酒飲めないんだもんね?」
その情報は、普段の満さんからこの満さんに流れているようで、そう理解してくれたのは助かった。
「うん」
だから、そういうことにしよう。
僕たちは、再び歩き出した。
「『ママ』から聞いてるんだよ!」
そして、それは唐突に始まった。
「あはは、そっか……」
僕は、それがそうだと気付かなかった。
「あれ? 『ママ』? ママ?」
そう、彼女は伝聞形式で情報を取得している。そして、自分の主人格を自分の一人称で呼んだのだ。
急に、満さんは混乱を始める。僕はまるで、地雷原を歩いているような気分になった。
「大丈夫だから!」
混乱する満さんをどう扱っていいか分からず、それだけ声をかけて携帯を取り出す。
そして、僕は博お兄ちゃんに急いで電話をした。
とってくれることを、懸命に祈った。そして、その祈りは思いのほかあっさりと通ったのだ。
『博だ……。状況は聞いた。今、何かあったか……?』
後から、そのカラクリは判明する。今の博お兄ちゃんは、医師の方を副業としていて、満さんの異変聞いたから休みを取ったのだ。
「ママが混乱して……」
秋葉家において、満さんのことを指していることが最も伝わりやすい呼称を選ぶ。
その段階で博お兄ちゃんは状況をすべて把握した。
『リンはただ、背を撫でながら大丈夫と声をかけ続けて欲しい……。普通の不安な人への対応と何も変わらない……。あと、それで普段のママに戻る可能性も低くない……』
低くない、つまり絶対どころか、高いとすら言えないのだ。
しかし、博お兄ちゃんは別人格としての扱いを避けているように思えた。
現状を対処し、情報は後からしっかり集めよう。
「ありがとう!」
『うん……。後で……』
博お兄ちゃんは、そう言い残して電話を切った。
僕は、道の端っこに移り、満さんの背を撫でながら大丈夫と声をかけ続ける。
結論から言うと、普段の満さんには戻らなかった。
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