第190話・Berry sweet

 シェフィールド宮殿の観光案内は無事終わり、街でのほぼ普通な観光が始まる。ようやく現実世界に帰還したような感覚だ。宮殿なんて刺激が強すぎる。


 だが、そうは言ってもここはイギリス。なぜかホームグラウンドのようになってしまった国だ。あっちこっちで僕を見てギョッとする人が居る。時には、手を合わせる人もいるのだから、もう珍道中だ。神様扱い……いや、イギリスはキリスト教の影響が強い国家だから、天使扱いだろうか……。


 途中、最上さんが追い返した人も何人か目撃する。

 時間はちょうどお昼時で、昼食をとるにはいい時間だった。そこでやってきたのは、The・blueberryというお店。席についてメニューを広げると、僕は驚いてしまうことになった。


「あれ? 日本語!?」


 そう、メニューが日本語だったのである。しかも、メニューの写真がA4用紙に直接印刷され、インクで波打っている。


「それ、最上くんが作ってくれたんだって」


 と、ママが、そのメニューが日本語である理由を教えてくれた。

 別席に座っている最上さんを見ると、少し耳が赤くなっている気がした。黙っているつもりだったのだろう。

 だが、どうしてその情報をママがもっているのか。それは、深い謎に包まれている。


 このお店の料理は、基本的にジビエがメインだ。ただ、それだけではなく、シソ・ワサビ・味噌、などといった日本人に馴染み深い調味料も使われていたりする。

 日本人にとって、イギリス料理の入門にはもってこいかも知れない。

 ただし、ひとつ問題がある。


「どうしよう、値段が書いてないよ……」


 値段が書いてあった形跡はある。上から紙を貼り、隠した状態でファイリングされているように見える。


「大丈夫だよリン君。お店のおごりだって」


 この国は、僕のファンがとても多い。それだけで、この店はただで料理を提供しても利益が勝つ可能性だってある。僕が食べた、それだけで食べに来る人はきっといるのだ。


「いいのかなぁ……」


 でも、悪い気がして僕は呟く。


「代わりに、サインを飾りたいみたい!」

「え!? どうしよう……」


 思えば、なんだかんだでしっかりとサインをデザインしていなかったのである。


「リン君、尊師のへーホー書の最後の10ページ」


 言われて、僕は尊師のへーホー書を取り出して、言われた場所を見てみた。

 そこには、僕のサインのデザイン草案がびっしりと書かれていたのである。孔明お兄ちゃんは、一体どれほど未来を見越しているのだろうか……。

 ともあれ、助かったことに変わりはない。覚え込むように、ゆっくり読んでいたのが仇になってしまったが。


 あるいは、僕が一瞬焦る姿を見せるために、ママにこの情報を教えたのかもしれない。ありえてしまうと思えるのが、孔明お兄ちゃんの怖いところである。


「問題解決だね! 好きなもの頼もう!」


 と、ママが言う。


「うん!」


 もうお金を気にする必用は、この場においてないのである。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 僕が頼んだのは、『鹿の肉、スモークした脊髄、野菜』というコースだ。完全に外見で選んでしまった。メインディッシュと思わしき皿がとても綺麗なのである。


 ママは別のもの、鯛のフィレ焼きをメインに添えた料理だった。

 鹿の肉なんて初めてで、まず見た目で驚いた。肉と言えば、日本人にとっては豚か牛、あるいは鶏。どれも加熱してタンパク質の変質が起こると、色が変わる。なのに鹿は、焼いても赤いのだ。これが紅葉肉と言われる所以なのだろうか。


 ともあれ、その肉をナイフで切り分けて、好奇心とともに口に放り込んだ。


「ッ~~!」


 瞬間的に溢れる肉汁の暴力。香りがしっかりとしているのに、味はあっさりとしている。こんなもの、いくらでも食べられそうな気がする。


「あ、パリパリ……」


 ママの食べている鯛も美味しそうだ。皮がパリパリに焼きあがっていて、それなのに身は柔らかそうに見える。

 と、見ているとママはそれを一口大に切り分けて、僕に向けて運んでくる。


「あーん」


 実際、食べてみたいとは思った。だが、その機会がこんなに早く訪れるなんて誰が思うだろうか。

 そして、それは僕にとって好きな人との関節キスであり、意識しないなんて無理なこと。


 更にはマナー違反なのではないかと思ってしまう。でも……。


「あーん」


 僕はそれを食べた。食べちゃったのである。いくらなんでも誘惑に負けすぎだ。

 味は、とても美味しい。だけど、それを越えるくらい心臓がうるさい。

 周囲の目は……。気になって確認してみると、微笑ましいような目線をこちらに向けていた。それについては、少し安心したのである。


「リン君、ママにもそっち味見させてくれる?」


 こうなることはわかっていた。

 僕は鹿肉を切り分け、フォークで刺して、ママの口元に運ぶ。


「あーん」


 問題は平静を装うことができているかどうかだ。嫌が応にも、口元に注目してしまう。好きな人の唇とは、なんと蠱惑的なのだろうか。


「あーん」


 それをママが食べ、一応の事なきを得た。日本に帰ったら、てぇてぇ不供給罪に問われるかもしれない。

 結局、食事は楽しかったが、口数は少なくなってしまったのである。

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