第117話・倍音操作

 テイク2が終わった。


 とにかく、リテイクが必要だと思う。今回、シズクさんはすごく成長した。アドバイスする前のシズクさんに合わせてしまった僕が今度は足を引っ張った形だ。


『うーん、シズクちゃん。ものすごい成長なんだよ! だけど、一回目の時のリンちゃんに全く太刀打ち出来てない。本当に申し訳ないんだけど、この理由が俺には確たる自分をもって歌っているからとしか言いようがない』


 ここまでで、僕が用意した言語化された歌唱テクニックはすべて出尽くした。


 その考えはすべて共通している。僕が言語化できたものは決して、間違っていなかったようだ。


「うーん、何が違うんだろう……。ぶっちゃけ、もうわかんないよぉ……」


 そう言って、シズクさんは少し落ち込んだ様子を見せた。それもその筈、シズクさんだってあれだけの表現をするのだ。自分らしさだって意識しないはずはない。


 考えられることはひとつだけ、僕が言語化出来ていない部分にその差が生まれているとしか思えない。僕は様々な可能性を考えた。


 他人より僕の優れている部分。はっきりとそう思えるのは、音感だ。僕は全ての音をHzで把握している。それは、混ざり合った音すらもだ。


 普通の人の音感と、僕の音感の決定的な差は多分そこにあるんだと思う。


 それを、言語化する。


「あの、多分なんですけど。倍音操作です」


 全ての音は、最も目立つ音と一緒にその倍の周波数の音も目立っている。その倍音の数は音の柔らかさに直結する。多ければ柔らかくふわふわとした可愛らしさが演出される。少なければ固く鋭い格好良さが演出される。


「え!? なにそれ!?」


 素直に興味を抱くシズクさん。それとは真逆に、それを否定したのが御劔さんだった。


『そんな音感はありえない! それこそHz単位で全ての音を把握するなんて人間の脳じゃ処理が追いつかないはずだ!』


 そうは言われても、僕はそれができてしまっているのだ。


 なぜそんなことができるのか、僕にはわからない。でもそれが僕が歌姫と呼ばれている理由だと思う。


「MD! 私、リン君にはそれができちゃってるかもって思うよ!」


 僕が信じてもらえず少し困ると、それを強く肯定してくれたのはシズクさんだった。


『うーん。音の怪物……それならあり得るのか?』


 怪物という僕の不穏な二つ名。それが、予想外の方向から僕を助けた。


「リン君。私のパート歌ってみてくれない? 私、真似するから!」


「でも、僕にはシズクさんのパートは低すぎます……」


「歌える範囲でいい! 倍音操作の技術、知りたいんだ!」


 真剣な瞳を、僕は見た。それに応えないのは、表現者として終わっている。


「分かりました。歌える範囲で歌ってみます!」


 僕には出せない音域が含まれる歌。歌いきれる自身なんてなかった。でも、一生懸命な人がいる。その人が、頼んできたんだ。


『やれる?』


「できる限り!」


 オケが流れ始めた。


「混沌としたこの世界、僕達だけがお姫様って。わがままいっぱい言わせて、だって好きでしょ? 僕達のこと!」


 僕の代わりに、シズクさんが僕のパートを歌う。


 僕のパートは可愛らしさが前面に押し出されていて、さほど難しいとは言えない。表現の方向性が統一されているのだ。


「ねぇいって、ほら好きって、愛してるって。だってちやほやされたいお年頃。骨抜きになって、仮想の私たちに」


 対して、今だけ僕が歌っているシズクさんのパートはいろいろな方向性を持った表現を求められる。とてもテクニカルで、それ故に魅力的なパートだった。


 それを本気で歌った。だけどおかしい、シズクさんのパートの最低音はこのパートにある。それが、僕の口から難なく飛び出したのだ。


 そこで、オケが止められた。


『余計なお世話だったかな? 今の部分、重点的にやって見て欲しくて……』


「うん、重点的にやりたい。私が歌ったのと、リン君が歌ったのじゃ完全にレベルが違う」


 正真正銘、僕の全力だったのだ。一週間で仕上げられる最高の歌を歌った。シズクさんのことを無視して。


『その前にひとつだけいい?』


「ん?」


『リン君、音出たよね?』


 そこは正直突っ込まれると思っていた。だって、僕だって完全に出ないつもりでいたのだ。


「あはは……なんか、出ました」


 後からわかるのが、これが男性ホルモン治療の影響だということ。僕は男性ホルモンの影響を知らず知らずしっかりと受けていたのだ。それは、地声に影響を与えず、低音域だけを広げてくれた。それは、僕にとって余りにも都合の良すぎる変化だった。


『ま、理由がわからないんだったらいいや。じゃあ、今度はパート分け戻してやるよ!』


 区間テイク1。シズクさんは確かに成長した。だけど、僅かなものだった。


 でも、シズクさんはわずかでも倍音操作を真似したのだ。


「えっと、何か、変わったかな?」


「変わりましたよ! 全然別物です!」


『あぁ、さっきまでと全く違う……。本当にリンちゃんは音の怪物だ。シズクをプロの領域の入口にたたせてくれた!』


 もはやそこに疑念の色はなかった。


 0を1にするのは大変なこと。だが、1にさえなってしまえばあとは話が早い。単に数が増えていくだけだ。


 倍音操作という概念をシズクさんは習得してくれた。つまり、1になったのだ。


 テイク35。それが、僕たちが『電脳姫征服中♪』を完成させるのに必要としたリテイクの数だ。


 完成した。


 でも、満たされない気持ちが残っているのはなぜなのだろう……。

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