第96話・歌前儀式

「待って! 声だしは? リップロールは? チューニングは?」


 Necoroさんは練習を止めた。


「え? なにそれ?」


 当然、音楽のことはママには基本的にさっぱりだ。


「え? やるよね? リンちゃん?」


「えっと……やったことないです」


「えええええ!!??」


 そして、僕にもさっぱりである。僕の歌は合唱の練習の延長線上だ。だから、そういったプロの作法は知らないのだ。


「というわけで、音楽のプロの方にご協力をお願いしました!」


『なんだよ!? どういう状況だよ!?』


 ヘッドフォンからは、いきなりRyuさんの声が聞こえた。


 仕事が早いというか、なんというか。


 ともかく、Necoroさんに今の状況を説明してもらった。


『まじか……やってなかったのか?』


 どうやら、普通はそれをやるみたいである。歌姫と呼ばれてもう半年。なのに、僕はプロとして当然のウォーミングアップをやっていなかったらしい。


 僕は基礎の基もまだまだで、独自性とかそんなものを習得するレベルは遠いみたいだ。


「普通やるよね!?」


『あぁ、やるな! だが、チューニングはリンには必要ないかも知れない。リンは音感の怪物だ。1Hzヘルツの単位で音を把握してる』


「え!?」


『証拠、見せようか? リン、1395Hzヘルツ


 そう言われて、僕はその音を発声する。


「あー!」


 とても、意地悪な注文だと思う。夜の女王アリアの最高音が、1397Hzヘルツ。そこから2Hzヘルツずらしてきた。とても高い音域の1Hzヘルツは誤差だ。だから、その誤差のレベルを調整しなきゃいけない。


『うん、一発で出すよなぁ……』


 でも、僕の頭の中にはすぐに言われた通りの音が再生されて、声もその通り出せる。僕が音程を間違えることはない。


「嘘……」


『驚くかもしれないけど、リンにチューニングは多分必要ない。リンはちょっと音感に関してはおかしいんだよ』


 おかしいは言い過ぎだと思う。でも、確かに僕は音感にとても良く恵まれたと思っている。


「いや音感もそうだけど、音域え?」


『まぁ、音楽で必要な音は上限あたりまで出せるのがリンだ。低音はダメダメだけどな』


「あ、あはは……すっご……」


 しかし、そんなことばかりを話していると練習も進まなくなる。そこで、Ryuお兄ちゃんは、強引に話を切り替えてくれた。


『よし、じゃあリップロールやるか! リンに意図を説明すると、表情筋を柔らかくするためだな。手本を、Necoro頼む』


「うい!」


 Necoroさんはそう言うと、少し口を尖らせた。


「プルルルルルゥ!」


 唇が震えて、ブルブルという音と一緒に、Necoroさんの中ではかなり高めの部類の声を出しているのがわかった。


『じゃあ、リン。できるか?』


 真似して、唇を尖らせて、少し高めの音で。


「プルルルルルゥ!」


 できた。


「え? やったことあったの?」


「いえ、初めてです」


『まぁ、リンだしな。音に関しては全幅の信頼をおいていい。さて、チューニングか……リン、440Hzヘルツ


 きっと、その音を出せということだろう。


 440Hzヘルツは音楽における基準の音となっており、A4ないしラの音である。


「あー!」


 オーケストラなどではオーボエという楽器を用いてこの音を出す。電子音で用意しても良かっただろうけど、僕に出させるのがきっと手っ取り早かったのだ。


「あー!」


 それに、Necoroさんが声を合わせてくる。


『よし、チューニングは済んだな。声だしはまぁ、適当だ! というわけで、俺は編曲に戻る!』


 そう言って、Ryuお兄ちゃんは通話を切った。


「いろいろびっくりだわ……。でも、準備が終わったから、実際歌おっか!」


「はい!」


 歌うにしても、いろいろと準備をしたほうがいいことを今日初めて学んだ。


「あ、終わった? じゃあ、音源流すよー!」


 そう言って、ママはパソコンの画面を切り替える。


「待たせてごめんね」


 すっかり、ママを置いてきぼりにして音楽の話をしてしまい、僕はちょっと申し訳なくなった。


「気にしないの! ママも作業してたから!」


 後から知ったのだけど、この時既にママは僕たちの歌につけるイメージイラストを書いてくれていたのだ。


 同時進行で、いろいろな作業が進んでいる。一つの動画には、たくさんのプロフェッショナルたちの技術が詰め込まれていた。


「ママ、音源よろ!」


「うん!」


 ママが、再生ボタンを押す。


 そして、三秒後、前奏が流れ始めた。曲名は『トリ・トルム』雷を意味するラテン語を語源としている。


「僕らは一瞬を夢見た。輝けるなら、それで満足、消えてしまっても構うもんか! 消えてしまっても、それは僕らの本望、刻み込め深く強く!」


 Necoroさんの歌声は力強い。キラキラと輝いているみたで、それでいて力を溜め込んだ積乱雲を思わせる。


「擦れて、擦れて、零れて落ちて。何も残らないとしても……。それが、例えば、些細なことだとしても」


 だから、僕はそれに対を成すように歌う。儚く、弱く。


 自然と、そうすべきだと思った。この歌は、一瞬の雷鳴を擬人化したものだ。


「今この時を、灼き付ける為ただ、ただ!」


 Necoroさんが力を象徴し、僕がその儚さを象徴する。


 そうなるように、この歌は書かれている。


「「鳴り響け雷鳴! 大きく強く! 刻み込め熱を! 銀の一矢を突き立てろ! 今の一瞬のために生きてきたから!」」


 でも、この部分だけは二人で力を象徴する。雷の膨大なエネルギーを放出するかのように、激情に身を委ねて歌う。


 必要なのは、迫力だ。二人で、命を搾り出すように歌った。

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