第67話・鬼棲

 その日は来た。かつて僕を締め出したなんの変哲もない扉は目の前にあった。だけど、今の僕はあの時の僕ではない。扉の奥で夢に描いた一人でも生きれる大人、それでいながら誰かに愛される人間。それは、今の僕だ。


「行こうか……」


「うん……」


 その瞬間から、まるでカゲミツさんは仮面をかぶったようだった。笑顔の仮面、それはとても柔らかな表情をした仮面で、さっきまでの鋭い眼つきはどこかへ消えていた。


 僕も、そして満さんも仮面をかぶった。心地のいい家族ごっこを捨てて、今三人はただの友人になった。


 インターフォンの電子音が鳴り響く。


 奥から足音が聞こえて、扉が開かれた。


「凛……。凛!」


 扉を開けた母は一目散に僕を抱きしめた。気持ち悪い、この抱擁は嘘の塊だ。


 自分で塩を浴びせておきながらよくこんなことができるものだ。


「離れてください……」


 自分でもびっくりするような、底冷えするような声が口から出た。


「え?」


「彼は、離れてくださいと言いました」


 満さんの声も大概だ。その声だけで、人を殺せそうにすら思える。


「はい、離れてくださいね。自己紹介させていただきます。私、日暮正直です。こちらの凛くんとは友人でして、訳あって付き添っているのですよ」


 カゲミツさんはそう言いながら僕の母に詰め寄って、母を引き剥がしてくれた。


 正直助かった。演技までして、僕から何かを巻き上げようとしているこの人が僕は怖い。


「凛の友人!? 大変! おもてなししなくちゃ!」


 もう、なんというか最悪だ。その口を閉じて欲しい。僕でも分かる、これは欲望に染まった欺瞞の匂いだ。くさい……言葉が全部嘘くさい。


「なんで、満さんのところまで来たんですか?」


 僕はもう、一刻も早く帰りたかった。もうちょっと冷酷な話したかをしてくれれば、ここまで嫌悪せずに居られただろう。もうちょっと、欲望をむき出しにしてくれれば、まだ人間として見ることができただろう。


 だけど、これが人間とは思えない。怪物だ。欲望のためになんでもできる、僕たちとは別の生物だ。


「その話は中でしましょ! ここじゃ、なんでだからね! ね!? ほら、お友達さんも、ぜひ!」


 そう言って、母は家の中へと僕たちを案内しようとする。


 足が……進まない。ここは僕の実家なのに鬼の棲家に見えるのだ。


 いきなり、僕の手を誰かの手が握った。優しく、そして、暖かく。


 握られた手を辿ってみると、その先には満さんが居た。


「大丈夫」


 ただ一言、なんの根拠も説得力もないはずの言葉に、僕は安心してしまったのだ。


「リン君、俺もついてるから!」


 その声の主はカゲミツさんだった。つい、三日前に知り合ったばかりなのに、彼のことを僕は何故か信頼している。


 当然といえば当然かも知れない。だって、涼に似ているのだ。行動が、表情が、声の出し方が。


 涼は変態だ。変態だけど、僕のことをちゃんと兄弟として扱ってくれた。僕の部屋に忍び込んで、駄菓子パーティをしてくれた。僕に無償の愛をくれた。


 そんな涼と似ているのだ。疑いようもない。


「うん!」


 決意が固まる。


 震えが止まる。


 一歩を踏み出せた。


 玄関には、写真があった。両親と、涼の写真。僕は、当然いなかった。


 向かっていくの先は、僕の部屋のある方向。せんべい布団と机、部屋にはそれしかなかった。


 一歩一歩近づくたびに、僕の部屋だった場所へ僕たちを案内している可能性が上がる。


 それは、ここにもう僕の居場所がない証拠。


 やっぱり、もう愛されてなんていない。まだ、半年も経たないのに、僕の部屋はもうどこにもないのだ。


 涼の部屋は、僕が追い出された時も、涼の部屋のままだったというのに。


 でも、おかしい。父がいない。


 それが、母が僕を探した原因だった……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る