第40話・物理的限界

 Ryuさんの家は近くて行きやすい、なんたってふた駅先だ。今日は僕一人で来ている。だって、満さんはきっと退屈してしまうから。


 満さんは僕が見えなくなるまでずっと心配していた。僕、実年齢は満さんより多分年上なんだけどなぁ……。


 そんなわけで、たどり着いたRyuさんの家。あるいは、立花さんの家。どうしても、脳内で二人に分離してしまう。だって、態度があまりに違って同一人物と思えないから。


「い、いらっしゃい……。は、入って……」


 相変わらずどもり気味な立花さん。でも、彼女はこんな態度の時も音楽のスペシャリストなのは間違いない。


「お邪魔しまーす」


 僕はそう言って、立花さんの家に入った。


 一階の防音室、その中央に鎮座するグランドピアノ、それが今日の僕の目的。


「ま、まず……」


 防音室に入って腰を落ち着けると、立花さんは僕の手をいきなり掴んだ。


「なんですか?」


 別に振り払う理由もない。でも、立花さんは僕になにか伝えたがっている気がする。


「え、えと……。お、男の人の家に一人で行っちゃダメだよ……。お、襲われちゃう」


 頭の中で合点が行った。僕は確かにこれを振りほどけない。立花さんは多分僕に危機感を覚えて欲しかったのだろう。でも……。


「男の人ですか?」


 だって、僕だって男だし、男の人が僕を捕まえて何がしたいんだろう。


「り、リン君は女の子みたいだから……。こ、興奮しちゃう居るから……。で、でも定国さんは、だ、大丈夫。で、でも一応注意しときたかった……」


 少し遅れて、僕の頭は水蒸気爆発を起こした。男同士で、そんな、そんな……。


 ありえないと思う反面、嫌な目線は感じたことがある。それは、つい最近、ゴシックロリータを着るようになってからだ。


 舐め回すような、絡みつくような目線。それはたいてい、男の人からだ。


「はい、絶対行きません!」


 だから、危機感を与えてくれた立花さんに今は感謝をしたい。


「う、うん。そ、それで……お、音楽だよね? な、何をしたいの?」


「ピアノです!」


 僕は即答した。ピアノを練習して、視聴者たちをびっくりさせたいのだ。


 ギターやヴァイオリンほどは練習できないと思うけど、それでも半年もあればきっと。


「い、いいけど、む、難しいと思うよ……り、リン君はてが、ちちち、ちっちゃいから」


 そう言いながら、立花さんはピアノの蓋を開けた。


 みんなして、僕の手がちっちゃいっていうのだ。もうちょっと遠慮してくれてもいいじゃないか。そりゃ、僕の手は小さいよ。手だけじゃなくて、体も小さい。


「むぅ……」


 だから、僕はちょっと怒っている。立花さんにじゃない、このちっちゃいの全方位攻撃にだ。


「と、とりあえず……え、えっと、く、狂ってる調律ないか確認してね」


 立花さんは、クランクとフェルトでできたドアストッパーのようなものをちゃぶ台に置いて、一つ一つヘルツで僕に教えながら全部の音を弾いた。一音だけ、少しずれてる音があった。D#6、かなり高いレの#の音だ。1244.5ヘルツと言っていたけど、1244.3ヘルツの弦が一本混じってた。僕は違和感を覚えて、何回も弾いてもらううちに、ようやく気づくことができた。


 全て調律が終わると立花さんが言った。


「す、すごいね、り、リン君。こ、こんな狂い、わ、私なら見逃しちゃう。ま、毎月来ておくれよ。ちょ、調律して欲しいからさぁ」


 でも、わずか0.3ヘルツのズレだ。それ以外は完璧に調律されている。それを考えると、多分立花さんの音感もすごく鋭い。


「ぜ、全然ですよ!」


 その後、ちょっと押し問答があった。お互いにお互いを褒め合って、そんなことになってしまったのだ。


 そして、ピアノのレッスンが始まる。課題曲は、MalumDivaのピアノパート。どこを押せばどの音が出るかは、さっき弾いてくれたからわかる。だから、いきなり弾き始めた。


 でも、手が届かない。


「は、ははは。む、難しいだろ? そ、その手だと。と、届かないと思うよ」


 それで、僕は実感した。本当にピアノは無理だ。もう少し手が大きくないといけない。せめて一オクターブの端から端まで手が届くくらいじゃないと……。


「はい、僕には無理みたいです」


 僕は、そう言ってがっくりとうなだれるのだった。


「き、気にすることないさ! そ、それより、ギターの基礎知識やろう!」


 そういえば、お塩さんから散々言われていた。ギターの基礎知識を習得しろと。


「はい!」


 だから、僕のギターは次のステージに立てるのかもしれないと思った。


「ま、まず、リン君に役立ちそうな知識から!」


 そう言って、クラシックギターを手にとった立花さんは、ギターの音とは思えない優しい音を出した。


「え!?」


 そんな音を出したことのない僕は驚いた。


「は、ハーモニクス。ちょ、調律の時にも使ったりするけど、え、演奏にも使ったりするよ」


「どうやったんですか?」


 僕はもう興味津々で、立花さんに食ってかかる勢いになってしまう。


「え、えっと。や、優しく抑えて、げ、弦を弾くと同時に、ゆ、指を離すんだよ」


 そう言いながら、立花さんは僕にフォークギターを渡す。きっとどっちのギターでもできるんだろう。じゃないと、教える意味がない。満さんの家にあるのは、フォークギターだ。


 僕は立花さんの言う通りにしてみる。ポーンともピーンともつかない柔らかい音が響いた。


「すごい! で、できました!」


 興奮した、この音を使う方法がどんどん頭の中で浮かんでいく。


「ご、5,7,12,19フレッドででできるから。い、いろいろやってみてね」


 そのあとも、ギターをたくさん教わった。僕の知らないものはいっぱいあった。そもそも、アルペジオすら、僕のやっているものは独特なものだった。


 スリーフィンガー親指、人差し指、中指の三本で演奏する奏法。明るめの曲調に適するタッピングハーモニクスフレッドを叩くことで、ハーモニクスの音を得るトレモロ細かい音価で同音を反復させながら保ち続けること。僕の知らない奏法はたくさんあった。

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