第45話 分かち合うのは強者の特権なんですよ

 暗い、暗い、泥のような夢を見た。

 あのスフィンクスの「夜のリドル」で見せられた、私の過去。

 あんなに輝いていた故郷の仲間たちが、ドロドロに溶けていく光景。



『ねえメディナ。お金、持ってない?』



 エリサの声がする。

 かつては太陽の下で笑っていた彼女の顔は、今は厚化粧で塗り固められ、安っぽい香水の匂いが鼻をつく。



 狭いアパートの一室。

 床には男物の下着と、吸い殻の山。

 テーブルの上には、煌びやかなホストの名刺と、得体の知れない薬の包み紙が散乱している。



『ごめんねえ、昨日ちょっとお店で使いすぎちゃってさ』

『ツケが溜まってるのよ。払わないと……あいつらに何されるか』



 震える手で、彼女たちは怪しげな粉末を水で流し込む。

 瞳孔が開いた目は、虚空を見つめて笑っている。



『ねえ、あんただけズルイわよね』



 別の声がする。

 かつて一緒に剣を振るった仲間が、今は露出の激しい衣装を身に纏い、知らない男の膝の上で媚びた声を上げている。



『私たちはこんなに惨めな思いをして、体売って稼いでるのに』

『あんただけ、安全な場所で、綺麗なまま』

『ねえ、私たちのライセンス、更新しといてくれた? あんたの稼ぎ、ちゃんと人数分で割っといてよ』



 彼女たちは、私に寄生することで「冒険者」という肩書きにしがみついている。

 その実態は、もう人間としての尊厳すら切り売りした抜け殻だ。



『やめてよ……みんな、戻ろうよ』



 私の声は届かない。



『戻る? どこに? あの貧乏な村に?』

『バカ言わないでよ。私たちはこれからなのよ』

『一発逆転するの。いい男捕まえて、成り上がるの』



 ギラギラとした欲望と、底なしの絶望。

 故郷に……あの農村にいた頃は、みんなあんなに優しい子達だったのに。


 変わろうとして、彼女たちは壊れた。

 夢を見て、彼女たちは腐った。


 何かを得ようとすると、何かを失う。

 何かを追い求めると、何かを奪われる。


 人間は――――弱い生き物だから。



『変わろうとするから、壊れるんだ』



 スフィンクスの声が響く。

 視界が切り替わる。



 今度は、マサキ先輩の後ろ姿が見える。

 輝く装備に身を包み、遥か高い場所へ――S級の玉座へと階段を登っていく先輩。



 私は必死に手を伸ばす。

 でも、届かない。

 先輩の隣には、私ではない誰かが立っている。

 強くて、美しくて、汚れを知らない誰かが。



『置いていかないで』



 叫ぼうとした声は、喉に張り付いて出ない。



『弱者は、置いていかれる』

『変われないお前は、また一人になる』

『吸い尽くされて、捨てられるだけだ』



 暗闇の中で、エリサたちの嘲笑とスフィンクスの予言が混ざり合う。



『だから――止めるしかないのよ』



――――



 ハッ、と意識が浮上する。



「……着いたな」



 マサキ先輩の声が聞こえた。

 現実だ。

 目の前には、スフィンクスの部屋の巨大な石扉がある。



「この奥だ。リポップしていなければ、すぐに証拠を探して帰れる」



 先輩は、私の迷いになんて気づかない。

 真っ直ぐに、希望だけを見ている。

 その眩しさが、今の私には痛かった。



「……はい」



 私は、震える手でスライムのポーチを抱きしめた。

 中には、先輩のすべての武器が入っている。

 そして、私の決意も。



 ごめんなさい、先輩。



 私は、心の中で謝罪した。

 扉が開く。

 広大な砂漠の空間が、私たちを飲み込んだ。



 *



 部屋の中は、静まり返っていた。

 中央の玉座に、スフィンクスの姿はない。



「よし、空っぽだ! リポップしてない!」



 先輩が安堵の声を上げる。



「これなら探索できる。転移門のログか、魔石の残骸か……

 必ず何かが残っているはずだ。手分けして探そう」



 先輩は振り返らずに、部屋の奥へ歩き出そうとする。

 その無防備な背中。

 私を信じ切っている、無垢な背中。



 私は、入り口の扉を背にして立った。

 そして、静かに告げた。



「……ありませんよ、証拠なんて」


「え?」



 先輩が足を止める。



「どうした? 早く探さないと……」


「何もないんです。最初から」



 私は顔を上げた。

 先輩が、怪訝そうに振り返る。



「メディナ? 何を言って――」


「ライセンスに細工をしたのは、私です」



 私の口から、真実が滑り落ちる。

 一度言ってしまえば、もう止まらなかった。



「エリサさんたちじゃありません。

 私が……私のスライムで、やりました」



 時が止まったようだった。

 先輩は、ポカンと口を開けて私を見ている。

 言葉の意味を、理解できていないようだった。



「……は? 嘘だろ?」



 乾いた笑いが漏れる。



「冗談だよな? 脅されてるのか?

 それとも、混乱してるのか?」


「正常です。今までで一番、冷静かもしれません」



 私は、スライムを展開した。



 ドロリ。

 足元から溢れ出した二体のスライム――『スラちゃん』と『リンちゃん』が、私の攻撃の意思に呼応して鎌首をもたげる。

 攻撃色に染まったその姿を見て、先輩の顔色が変わった。



「メディナ……!」


「先輩には、ここで諦めてもらいます」


「なっ……!」



 先輩が腰の刀に手をかける。

 その反応速度は、さすがD級上位……いや、C級水準でも中位以上かもしれない。

 だけど――



「遅いッス」



 ヒュン!



 私が指を弾くと同時、スライムの一部が弾丸のように射出された。

 先輩の足元に着弾し、瞬時に硬化して足を拘束する。



「ぐっ!?」


「動かないでください」



 私は、涙が溢れてくるのを止められなかった。

 視界が歪む。

 大好きな先輩を、こんな風に傷つけたくない。

 でも、こうするしかないんだ。



「どうしてだ……!

 俺たちは仲間だろ!? なんでこんなことを!」


「仲間だからです!」



 私は叫んだ。



「仲間だから……ずっと一緒にいたいから!

 先輩がC級になったら、また変わってしまう!

 遠くへ行ってしまう!」


「はあ!? 何を言って……」


「あの人たちみたいに!

 変わって、腐って、私を捨てていくのが怖いんです!」



 悪夢がフラッシュバックする。

 先輩が私を置いて、光の中へ消えていく姿が。



「だから、ここで止まってください。

 今のままでいいじゃないですか。

 今の幸せな生活を、壊さないでください!」


「な、何を言ってるんだお前は!?」



 先輩が咆哮する。

 足元のスライムを力づくで引きちぎり、刀を抜いて突っ込んでくる。



「目を覚ませメディナ!」



 鋭い斬撃。

 手加減はしているだろうけれど、当たればタダでは済まない一撃。


 だけど、今の私には通じない。



 フッ。



 先輩の刀が、私の体をすり抜けた。

 まるで、陽炎を斬ったかのように。



「なっ……!?」


「無駄ッスよ」



 私は、先輩の背後に揺らめきながら現れる。

蜃気楼の衣ミラージュ・クロス』。

 スフィンクスが落とした、超高性能の回避装備。


 物理攻撃も、魔術攻撃も、認識さえズレていれば当たらない。

 今の私は、幻影そのものだ。



「くそっ……!」



 先輩が振り返りざまに横薙ぎを放つ。

 それもまた、私の残像を斬るだけだ。



「先輩の武器は、刀一本だけ。

 先輩の太刀筋も筋力も記憶したスラちゃんが私の動作を補正ブーストしてくれています。

 回復薬も、予備の武器も、全部私が持っています」



 私はスライムの中に手を突っ込んだ。

 取り出したのは――先輩が愛用している、戦斧。



「……ッ!?」


「皮肉ですね。

 先輩が私を守るために預けてくれた武器で、先輩を傷つけるなんて」



 私は斧を構えた。

 重い。

 でも、スライムが腕力を補助してくれるから、私でも軽々と振るえる。



「やめろ、メディナ!」



 先輩が叫ぶ。

 その目には、恐怖ではなく――悲色が浮かんでいた。



「俺を殺す気か!」


「殺しませんよ」



 私は首を振った。

 殺すわけがない。

 私は、先輩を生かすためにやっているんだから。



「ただ……足を、折るだけッス」


「……は?」


「全治一ヶ月くらいの怪我なら、ちょうどいい。

 動けなくなれば、ここから出られない。

 試験には間に合わない」


「お前……!」


「そうすれば……また来月まで、今のままでいられます。

 ミナさんの家で、美味しいご飯を食べて、私が洗濯をして……。

 あの幸せな毎日が、続くんです。

 それが一ヶ月、二ヶ月と続けばみんなわかってくれる。

 ああ、このままでいいじゃないかって」


「何を言ってるんだ、メディナ。お前は一体……!」


「それが私の、本当の望みですよ!」



 私は斧を振りかぶった。



「どうしてそうまでして今のままでいたいんだ!」



 先輩が叫ぶ。

 私の攻撃を躱しながら、必死に言葉を投げかけてくる。



「俺は嫌だ! 弱いままじゃ嫌なんだ!

 もっと変わりたい! もっと強くなりたい!

 そうじゃなきゃ、そうしなくっちゃ、俺は……!」


「強くなってどうするんスか!

 大物になって何が手に入るんですか、マサキ先輩!

 お金ですか? 地位ですか? 名誉ですか?

 それがなければ手に入らないものって何なんですか!?」



 私は叫び返す。

 喉が裂けそうだった。



「……生きるためだよ!

 弱いままじゃ生きられない。

 戦わなくちゃ、家も、食い物も、尊厳だって勝ち取れないんだ!」


「じゃあもう十分じゃないですか!」



 私は、先輩の足元に斧を叩きつけた。

 砂が爆ぜる。



「家はミナさんが契約してくれます。マサキ先輩はD級に昇格して尊厳を勝ち取りました。

 シズク先輩も喘息が治ったので、薬代を気にする必要もありません」


「……っ!」


「4人揃っていれば、毎日おいしいものも食べられます。

 掃除だって洗濯だって、スラちゃんやリンちゃんがいれば全部やってくれるじゃないですか!

 成り上がって何がほしいんですか?

 大物になれば今の2倍食べるんですか? 今の3倍服を着るんですか?」



 私は涙声で訴えた。



「いらないでしょう。

 ここから先なんて、高くするために高くしたような商品しかありませんよ。

 ブランド物も、宝石も、夜のお店も。

 それにいくら費やしたって幸せになんてなれないこと、私は知っています!」


「……自分だけ快適に生きていくんなら、それでいいんだろうさ」



 先輩の声が、低く沈んだ。

 彼は刀を構え直し、私を真っ直ぐに見据える。



「だけどそれじゃ、何も守れない。

 現状に甘んじて、に最適化してただけじゃ、何一つ。

 状況が変わった時、弱い誰かに出会った時、守ってやるために。

 大切なものを分かち合ってやれるだけの、強さが必要なんだ!」



 先輩の言葉は、熱かった。

 誰も守ってくれなかった過去を持つ彼だからこそ、言える言葉。

 自分が欲しかったものを、誰かに与えたいという純粋な願い。



「不安なのは分かる。怖いのも分かる。

 でも、俺たちは一人じゃないだろう!

 助け合って、支え合って、手に入れたものを分かち合って生きていけばきっと……」



 キラキラとした、眩しい正論。

 太陽のような希望。


 ――ああ、先輩。

 あなたはやっぱり、そっち側の人間なんですね。



「アハハっ」



 乾いた笑いが、私の口から漏れた。



「アハハハハっ! アハハハハハハハハっ!」



 哄笑が、部屋に響き渡る。

 おかしい。おかしすぎる。

 先輩の言うことは、あまりにも美しくて、残酷だ。



「弱い人達と分かち合う? 傑作ですね」



 私は、スライムの中から次の武器を取り出す。

 先輩の槍だ。

 冷たい金属の感触が、私の心を冷やしていく。



「分かち合うのは強者の特権なんですよ、マサキ先輩」



 私は、悲哀を込めて告げた。



「弱者は――奪い合うことしかできないんです……!」



 ブンッ!



 投げ放たれた槍が、先輩の太腿を掠める。

 赤い血が飛んだ。



 私はもう、止まれない。

 奪う側になるしかなかった。

 先輩の未来を奪ってでも、私のを守るために。

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