メイク・ユー・フリー
川谷パルテノン
楽園
甘子の目的は無論それだった。所謂ボーイズラブというものにこうも惹かれるとは自分でも意外だったが好きなものは仕方がない。ところが年齢的なこともあって入手しにくいこと。またその趣味を家族にはひた隠しにしていることから甘子は楽園を知りつつももう一歩で花畑を前にして指を咥えていた。そんな折、近所のビデオ店の乱心を弟が食卓で話しだした。父はカタブツで変な空気になり、しょぼくれていた弟が部屋に戻った瞬間、甘子は詳しく聞かせろと目を血走らせた。甘子は神の存在をその日ほど信じたことはない。高鳴る気持ちに包まれるも弟の不審者を見るような目にハッとなり慌てて自室に戻った甘子は鏡に映った自分を眺めた。
「セーフ」
平常心を取り戻し、次の土曜日には必ずそのビデオ店を攻めるどと心に誓った。今日がその土曜日である。甘子はフルフェイスの中が霧で包まれるほど呼吸を荒げていた。落ち着け、まだだ、慌てるな、購入して、部屋に戻って、鍵を掛ければ楽園はそこに生る!
「いらっしゃい」
無愛想ながら反射的に繰り出されるオヤジの歓迎など甘子の耳には届かない。一目散に店奥へと向かう甘子はさながらダイソンに吸い込まれる塵埃。
オヤジはオヤジでいらっしゃいなどと言いながら突如侵入してきたフルフェイスの女を五度見した。強盗かもしれない。そんな不安があった。強盗(仮)はBL本コーナーへと早歩きで向かった。今や店の中で最も資産価値の高いBL本である。その総額に比べれば土地のほうが安いかもしれんなどと思うくらいにはオヤジの生命線であった。この強盗(仮)……目が利く!
甘子は吟味する。どれもこれもが輝いて見える。願わくばビニール全部ひん剥いてやりたいと思った。小遣いを貯めてきた。いつか通販に手を出そうと貯めた世界で一番愛のある貯金だ。無駄には出来ない。甘子は興奮してきた。鼓動が聞いたこともない勢いで脈を打つ。擬音化するとバグォンバグォンという感じだ。もっと凄いかもしれない。外国にはその名を発音してはならない神様がいると聞く。今この瞬間自身の心臓に起きている鳴りがまさにそれだ。
オヤジはずっと不審者をマークしていた。とはいえ他に客もいない。BLコーナーの前で頭部を上下させながら、時折オシッコを我慢しているのか足踏みを始める謎のフルフェイス女を通報すべきかあぐねいていた。オヤジは女をずっと見ていた。ずっと見ていたから見逃さなかった。フルフェイスの隙間からワシャワシャと毛髪が伸び始めたのを。
甘子はもう興奮を止められないと思った。興奮を止められないとどうなるかを十分理解しているつもりだったが、このビデオ屋のこのBLコーナーはちょっと自分の想像を超える刺激の強さだった。それは幸せなことだったが同時に不幸でもあった。甘子のフルフェイスは内側からの膨張によってミシミシと音を立てていた。
オヤジは最早目の前で何が起こっているのか理解出来ず、今度は自分がオシッコを我慢する羽目になった。フルフェイスから下はつい数分前まで華奢な女性の体つきであったのに、今は筋骨隆々にしてドス黒い体躯と成り果てている。凡そ人間とは思えぬ体毛。熊か何かのそれだった。オヤジに出来ることは警察を呼ぶことだけだった。
甘子はもう狼だった。比喩ではない。狼だったのだ。自分がライカンスロープだと気づいたのは十才の頃だった。好きだった男児をビビり散らかした哀しき狼少女。事態は夢オチとして処理されるも甘子はこの体質を万人に秘匿してきた。興奮すれば狼になる。満月云々関係なし。だから甘子は興奮をやめた。しかしながら年頃の少女には酷な運命であった。クラスメイトからはあまりの情動のなさに「鉄の女」と呼ばれ心が泣いていた。孤独の世界で彼女はBLに出会った。それだけは許してほしい。世界はこんなにも辛いのだから!
「おおおおおじさぁん! コレ これください!」
「ヒッ ヒヤッ いのいのちだけは!」
「そんな話はしてなぃい! これくださいッッ!」
早く会計を済ませて部屋に帰りたい甘子だった。この姿になってしまった以上三秒で帰れるのだ。だから早くしてくれオヤジ! そんな祈りも虚しく駆けつけた警官二人が言う。何をしている、手を上げて大人しくしろ、と。甘子は思った。私はただ自分の趣味を楽しみたいだけじゃないか、それすらこの世界は許さないというのか? 大人しく? 私はまだ十代の子供だ。BL本を買いにきただけの! 子供だ!
「これくださいイイイイ!」
「う、うわあああ」
ダァン……
「馬鹿野郎! 発砲する奴があるか!」
「ででも俺だって怖くて……」
「れく さぃ」
「生きているのか?」
「これ くださぃ」
「大丈夫か?」
「これくれええええ!」
甘子は近づいた警官二人を薙ぎ払い気絶させるとそのまま山の方へと飛び去ってしまった。一部始終を見ていたオヤジはわけも分からず憔悴しながらレジの前にキッチリと置かれた代金を目にする。クシャクシャの紙幣に触れてみると何故だか涙が溢れて止まらないのだった。
メイク・ユー・フリー 川谷パルテノン @pefnk
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