第138話 親友の声

 ハヤシダの槍の一閃によりレントの追尾を逃れたニーニャが、そのままハデスへと迫る。


「利用されたか……だが、近づけさせはせぬッ!」


 ハデスの周りの冥力が鋭い棘の柱を辺りに作り出し、ニーニャを阻む。しかし、


「『黒い帯ブラック・ベルト』!」


 その上に道を作るように、杖の戦士シンクの魔力の帯がいくつもたなびいた。


「使えッ!」


 ニーニャが地面を蹴り、その幾本もの帯の上を飛び跳ねて冥力の棘をかわす。距離にして数メートルまで、ハデスとニーニャの距離は縮まる。


「獲った!」

「フン、甘いッ!」


 ニーニャが手を伸ばした先で、ハデスの片手に冥力の槍、もう片方に盾が作られる。


「あまりオレをナメるなよ……!」


 ハデスはその槍を躊躇なく、正面から飛びかかってくるニーニャへと突き刺した。そして、後ろを振り返りざま、背後に迫っていた【別のニーニャ】をもまた、盾で弾き飛ばす。


「正面に自身を装った身代わりを用意し、その隙を突いて背後から奇襲……見え透いた策だ」


 転がっていくニーニャを一瞥いちべつし、ハデスが鼻を鳴らす。


「やるならばもっと身代わりを庇うなりした方がよかったな。これほどまでに防御を棄てた無謀な突撃、罠だと思うのが当然──」

「そう、それは……よかったわ」

「っ⁉」


 ガシリ、と。ハデスの両肩がその正面から鷲掴みにされる。


「なっ」

「おあいにく様、本物は……こっち」

 

 ハデスが身代わりの分身だと思った、その槍にひと突きにされた方のニーニャが、不敵な笑みを浮かべていた。


「やっと、捕まえた……!」

「き、貴様……なぜっ⁉︎」

「アンタが考えそうなことくらい、アタシが分からないとでも……?」

「ぐっ……! いや、だとしても普通、自ら槍に胴体を串刺しにされにくるかっ⁉︎」

「当然っ! レイアを救うためなら、アタシは……!」


 ニーニャはハデスの胸ぐらを掴み上げる。


「起きろ、レイアッ!」

「やめろ、放せっ! はなっ……ガッ⁉︎」


 ハデスが頭を抱え始める。ニーニャは苦しそうに息を吐きながらも、フッと笑った。


「アンタは、決してアタシを傷つけようとはしなかった……でもそれは、アンタの意志じゃない……」

「クソッ、あ、頭がぁッ!」


 ハデスの手にあった冥力で形成された槍が、盾が霧散していく。


「アタシたちを傷つけなかったのはレイアの意志よ。レイアの本能が、アンタを妨げていた! アンタがアタシたちを傷つけようものなら、レイアは、アンタを引きずり下ろしに現れる!」

「やめろっ……! 名前を、呼ぶな……!」

「何度だって、呼んでやる……! アンタは引っ込んでろ!」

「ぐはッ⁉︎」


 ガツンと、ニーニャがその額をハデスの額へと思いっきりぶつけた。


「レイア、レイア、レイアッ! 起きなさい! いつまで寝てる気っ⁉︎」

「や、め……ろッ!」

「勝手にひとりで消えようとしてんじゃないわよ! レイア、アンタがアタシをなんて呼んだか覚えていないッ⁉︎」

「ころ、殺すッ!」


 ハデスの手に、僅かばかりの冥力で作られた赤いナイフが握られる。しかし、ニーニャはそんなもの気にも留めない。


「レイア、アンタはアタシのこと……親友って呼んだわよね。忘れちゃいないわよ。その親友を……ひとり残していくつもりっ⁉︎」

「死ねッ、ニーニャ!」

「ハデスッ! アンタは勝手にレイアの体で喋ってんじゃないわよ!」

「ッ! オレの、名を……!」


 ピタリと、ナイフを突き出しかけていたハデスの動きが止まった。それはパラパラと小さな粉となり渦巻いて、ニーニャへと流れ込もうとする。


「ク、クハハッ! バカめっ! オレの名を口にした男がどうなったかを忘れたかっ!」

「どうにかできるもんなら、やってみなさいよ!」

「言われずともッ!」


 ハデスが指を鳴らす。隠の戦士オトナシはそれで弾け飛んだハズだった。しかし、


「……なん、だと……⁉︎」

「……ふっ」


 まるで異変の起こらなかったニーニャは、勝ち誇ったように笑みを浮かべた。


「レイアッ! 帰ってきなさい、レイアッ!」

「グッ……やめろ、呼ぶな! その名を呼ぶな……!」

「レイア、親友なんでしょうアタシたち! 一度言ったからには責任持ちなさい、あと100年は取り下げさせてやらないんだからッ!」

「クソ、鎖を、引っ張るな……出て……くるなァァァッ‼︎」


 ニーニャの言葉に、ハデスは頭を抱えてうずくまった。




 ※




 この真っ暗な世界で、私はいったいどれだけの刻を過ごしたのだろう。


 100年? 10年? 1年? 1ヶ月? 1日? 1分?


 分からない。それに、考えるだけ無駄だって分かっている。


 なぜならここは冥界。地上を流れる時間とは切り離された別世界。生と死の定義すら当てはまらないこの場所で、私は1秒でも永遠でも無い空間の中を生きている。


 とっくに、私のものだった心は擦り切れて、自分自身が薄れていく。もはや自分の【名前】も思い出せはしない。


「みんな……」


 でも、大切な人たちがいた。それだけはずっと覚えていて、いまはその人たちの温もりだけが、辛うじて私の心を生かしてくれていた。


 ──レイアッ!


 声が聞こえた。私は久しぶりに上体を起こす。


「……だれ?」


 人の声が聞こえたのは、とても久しぶりな気がした。


 ──勝手にひとりで消えようとしてんじゃないわよ!


 それは誰かに向けた声だった。この暗闇の世界の中をあてもなく響いている。


 ──レイア、アンタはアタシのこと……親友って呼んだわよね。


 親友、その言葉が、どうしてか心の奥底にじんわりと沁み込んだ。それと同時に、


 ──『ハデス』。


 ゾワリ。冥界の空気が大きく波打った。


「これは、なに……?」


 赤い冥力が渦巻いて、竜巻のように上へ上へと昇っていく。まるで何かへと吸い寄せられるように。その流れに乗せられて私の体も浮かび、どんどん上へと押し上げられていく。


「……!」


 冥界の真っ暗闇の上空で、わずかに外の景色が垣間かいま視えた。ボロボロの姿の少女が、そこには立っていた。


「知ってる……私は、この子を……」


 とっさだった。私は、その少女めがけて潜り込もうと奔流する冥界中の冥力をピタリと圧し止めた。その少女を守りたいと、そう思った。


 ──レイアッ!


 そう叫ぶその少女は、私を視ていた。


 ──帰ってきなさい、レイアッ!


「っ!」


 ……思い、出した。


「ニーニャ。ニーニャさん……ニーニャさんっ!」


 少女の名前はニーニャ。私、王国の姫であるレイアに初めて対等に接してくれた女の子。初めての親友。


 ──レイア、親友なんでしょうアタシたち!


「そう、です……! そうです! ニーニャさん、あなたは私の大切な、とても大切な親友ですっ!」


 ──一度言ったからには責任持ちなさい、あと100年は取り下げさせてやらないんだからッ!


「絶対、絶対に取り下げませんっ! 100年どころか、200年……いえ、もっともっとずっと!」


 大切なことを思い出せた。そうだ、私には何物にも代えられない大切な人たちが現世にいるのだ。


「ニーニャさん、あんなにもボロボロに……」


 凄惨極まりない外の光景に、思わず目に涙が滲む。


「スペラさん、酷い傷……!」


 ギリッ、と。強く噛み締めた奥歯が鳴った。


「ハデスッ……! あなた、私の体を使って何をしてくれていますの……⁉」


 ジャラジャラジャラと、胸から伸びる鎖。私はこれでアイツと繋がっている。

 

「すぅ──」


 ひとつ深く息をする。冥力をそして私はギチギチと音を鳴らして鎖を握り、


「はぁぁぁッ!」


 思いっきり引っ張った。


「私の大切な友人たちを傷つけて……絶対に許さないッ!」


 心の底から憎しみと、しかしそれにも負けないほどの熱い闘志があふれ出してくる。私のためにあんなにもボロボロになって戦ってくれた友人たちのために、決して負けられないという強い想いが、鎖を手繰り寄せる力となった。


「──グァァァッ⁉」

「ハデスッ!」


 その姿を冥界へと見せたハデスを、私はさらに鎖で手繰り寄せる。


「レイアッ、貴様ぁッ!」

「ハデスッ、私の体を返しなさいッ!」


 完全に距離をゼロとした私たちは互いに両手を掴み合い、取っ組み合った。


「返せだとっ? ハッ! 笑わせるな! レイア、貴様が現世へと帰って何ができる⁉ 貴様らは七戦士たちに八つ裂きにされるだけだッ!」

「そんなことにはなりません……私には頼りになる仲間がいるのだからッ!」

「結局は人頼みか、力無きころの貴様に逆戻りじゃあないかッ!」

「……確かに私ごときが今の現世へと戻ったところで、大した役には立てないでしょう、それでも!」

「グッ、グォォォッ⁉」

 

 ミシリ。私はハデスの体を押しのけるべく、その手首をへし折らんばかりに力を込める。


「私の名前はレイア! このレイアを親友と呼んでくれる大切な人が、このレイアを好きだと言ってくれる大切な人がいる限り、レイアのいるべき場所はここじゃないッ!」


 今でも、外から私の名前を呼ぶ声がする。私はその声に応えなくてはいけない。いや、応えたい。


 ガシリ。私はハデスの胸ぐらを掴む。


「失せなさいハデス! あなたはお呼びじゃない!」

「ちく、しょうっ! またしても……! チクショウがァァァッ!」


 私は思いっきり、冥府の底へと向けてハデスを投げ飛ばした。

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