第11話 始まりとの決別

 いつだって普通の夢だ。

 どんな覚悟を持っても、どんだけ苦労して寝に入っても、いつも同じ。

 唐突に始まって、そしてすぐに気づく。

 ・・・・・・・これは、夢だと。




 目が開く。全身の感覚もくっきり戻って、自分は座っていると自覚できる。

 空気を吸って、いつもと違う心をなだめる。緊張で固まった体を弛緩させる。大丈夫、上手くやってみせる。

「・・・・・・・でさー、昨日怪我したんだよねー」

「うわ、まじじゃん!いたそー」

「流石馬鹿だな」

「怪我はしょうがないだろ!」

 僕の机に腰かけて、そう主張する男子学生。手に痛々しい包帯を巻いている男子は、大貫だ。中学の頃の友達。

 その大貫が、こっちに話題を振る。

「高峰―、こいつら全然いたわってくれないよー」

「・・・・・・・流石大貫だな」

「高峰―」

 少し素っ気なく、でも不自然なく話を合わせる。この頃は普通に笑って過ごしてたから、少し違和感があるかもしれない。今の僕は、愛想でも笑えないから。

「しばらく部活やれないの?それ」

「まあそーだなぁ」

 そんな話が自分の席周りで始まる中、僕の隣に座る女子が、小声で話しかけてくる。

「青葉、ぼーっとしてるけど、大丈夫?」

「え・・・・・・大丈夫」

「そう?」

「うん、ありがと」

 隣の席の女子は、七草。僕にとって一番付き合いの長い人。小学三年生からずっと同じクラスの、謎の縁の友人だ。

 大丈夫、大体同じ進み方だ。意識が覚醒して、大貫に話しかけられて、七草に軽く心配される。毎回微妙な違いはあるけど、大筋は変わらない。

 問題ない。全て知っている。十分すぎるくらい予習はした。

 ここにいるときは眠気は感じない。だから全てはっきり体験して、全て記憶している。こんなの出る問題の分かっているテストのようなものだ。

 ・・・・・・・問題は、ない。

 そしてすぐに、朝のホームルームが始まった。




 一限は、音楽だ。

 音楽室に移動して授業を受ける。

 音楽室との距離もあって、ホームールーム後はすぐに動かないと行けない。だから抜け出す暇がなかった。

 音楽の先生も厳しい人だ。わざわざここで抜け出すこともない。




 二限。

 数学のこの時間は抜け出せなかった。音楽室から戻るときに谷川に捕まってしまったから。

 でももう動かないといけない。時間がない。どれほどあるかも分からないのだから。

「・・・・・・・・・」

 ・・・・・・・動け、ない。

 手が震える。視界が揺れる。頭の中が熱くなる。

 なんで、動かない。行き止まりの日常で、何をしても後に残ることはない。周りなんて気にする必要はない。

 それに、紅葉にあそこまでしてもらった。動けない理由がないだろ、青葉!

「・・・・・・・・・・・」

 なんで・・・・・・・・・なんで!?

「・・・・・・・なんで、だよ!」

 机に伏せて唇を噛む。

 もう、ダメか。足が動かない、腰が上がらない。空気も上手く吸えなくなってきて、目にも涙が-・・・・・・・。

 ・・・・・・・僕だけじゃ、何も・・・・・・・。

「・・・・・・・?・・・・・・・・・!!」

 驚きとともに、席を思いっきり立った。椅子が後ろに飛んで、派手に倒れてしまう。

 みんながこっちを見てる。そんなのどうでもいい。

 温もりを感じた。頭に、温かさを感じた。

 すぐに分かった。分からないはずがない。

 紅葉だ。紅葉が、頭を撫でてくれてる。その感触が、伝わってくる。

 ・・・・・・・・・やっぱ、紅葉さんはすごいな。

 恐怖と躊躇いはなくならない。でももう、震えと迷いは吹っ飛んだ。そもそも迷ってる暇なんてない。

 ・・・・・・・時間に余裕がない。

「い、いきなりどうした?高峰」

 通路に差し掛かっていた先生が、動揺した様子で立ち止まる。おそらく寝てた僕を説教しに来ていたのだろう。

 だがそんなことはどうでもいい。

「すみませんトイレに!」

 先生を置き去りにして、教室のドアに向かう。止められる前に、すぐにっ!

 ・・・・・・・あ。

 ドアに手をかけたところで、動きが止まってしまう。正直止まりたくなかったけど、止まらなきゃいけなかった。

 ・・・・・・・そもそも、母さんはどこで・・・・・・・。

 知っている。だから、今の僕じゃ行けない。仕方ないことだ、始まりが朝のホームルーム前なのだから。

 どうすれば・・・・・・・っ!!

 思いついて、思いっきり顔を向ける。すぐに動いて、本人の元へ。

「谷川っ!」

「へあ!?・・・・・・・へ?」

 騒がしくなった教室では起きかけていた谷川が、肩を跳ね上がらせる。起きかけにいきなり名前呼ばれて、すごまれれば当然の反応だ。

 だけど今は、心も時間もあまり余裕がない。

「谷川、お金、貸してくれ!」

 席のそばまで行って、顔を近づけて頼み込んだ。周囲、特に先生の目を気にして。

 谷川は今日お金を持っている。さっき、音楽室から戻ってくる途中に聞いた。

 まだ関係の短い谷川に頼むことではないけど、ここで引くわけにも行かなかった。

「へ?お、お金?なんでいきなり、つーか今、授業中じゃ、」

「・・・・・・・頼む」

 混乱している谷川に、だが説明している暇はない。

 だから、ただ一言。普通なら軽く一蹴されて終わる言葉だけど、なぜだかこれだけでいいと思った。

「・・・・・・・ほら」

「・・・・・・・っ!え?」

 その希望的観測に答えるかのように、財布が飛んでくる。

「ただ事じゃないんだろ?終わったら全部聞かせろよ!」

「っ!!・・・・・・・ごめん」

 関係は短いけど、距離の詰め方が早く、気前のいい谷川だ。一度家に戻るよりもこっちの方が勝算があると思って、頼んでみた。

 でも。いざ本当に期待に応えてくれると、少し泣きそうになる。

 ・・・・・・・きっと、この話をすることはできないから。

 だから振り返らずに、走り始めた。先生を避けて、扉を思いっきり開けて、誰にも止められないように。

 足が恐怖に、囚われないように。

「青葉?」

「!」

 階段を降りて正面、名前を呼ばれた。僕を名前で呼ぶ人は少ない、すぐに誰か分かる。保健室にでも行っていたらしい。

 一瞬足の速度が鈍る。でもすぐに、また足の回転を上げて、前に進む。少し顔を下げて、目線が絡まないように。

 ・・・・・・・そして、すれ違った。

 何も言わずに。何も言われずに。でも、そのあと背中に。

「青葉、じゃあね!」

 と一声かけられ、でも反応できずに、そのまま外へと走り続けた。




 学校の正門を通って、そのまま道を走り続ける。ジャージ姿、靴は上履きのまま、片手に谷川の財布を持って。

 お金を求めたのは必要だったから。電車を使わなければ、この時間じゃ到底間に合わない。

 学校からおよそ5分の位置にある駅に向かって走り抜け、着いたら財布の中にあったICカードでホームへ。すぐにホームに入ってきた電車に乗って、一息つく。

 母さんが死んだ場所。聞いていない、いや正確には、伝えられたが耳に入らなかった情報。明確には分からないが、大体は検討がつく。

 4駅ほど乗って、いの一番にホームに降りる。ここからは走ってすぐだ。

 あまり来たことはないけど、うろ覚えで分かる。人通りがまだ少なくて走りやすいのが救いだった。

 駅から出て、左右を確認してまた走り出す。カフェと薬局、ファストフードのお店を横切って、長い信号を渡り、たこ焼き屋の反対側に行けば、目的地だ。

 大きなショッピングモール。確かここが母さんの死んだところで、

 ・・・・・・・父さんが死んだところでもある。

 こんな変哲もないところ。事は突然起こるものだ。

 ショッピングの帰り。複数の車が行き交う駐車場で、子どもを助けて父さんが倒れた。血を流して、倒れていた。

 母さんもパニック状態だった上に、柚華の目を伏せさせるので必死だった。精一杯だったから、僕の方は気を遣えなかった。だからきっと、誰よりも理解できた。

 父さんはなぜ死んだのか。それは、当然のような必然の死だからだ。

 父さんはなぜ倒れているのか。それは、彼が子どもを助けたからだ。

 父さんはなぜ、僕たちを置いて逝ったのか。それは・・・・・・・。

 ショッピングモールの階段を駆け上がる。息が上がって、脚がもつれて、谷川の財布はもう手に残っていない。

 それでも、全力で身体を動かす。

 身体全身が悲鳴をあげている。それでも、休みたいという危険信号を全部無視して、肩で息する。

 そしてついに、屋上。駐車場に辿り着いた。

 少し躊躇って、でもすぐに早足で自動ドアの外、青空の元へと出る。

 一周見渡して、肩を上下させながら、ゆっくり前に歩き始める。いないかもしれない、そんな不安も、たった一声でなくなった。

「青葉」

 それを聞いて、固まった。

 だって僕には、僕にとっては、重い話だ。振り返る首が動かなくて、屋上には僕の息を吐く音だけが残る。

 ・・・・・・・怖い。怖い怖い怖い怖い!

 死んでしまった母親の声。死人と会うのが、怖いわけじゃない。

 奇跡的な話だ。言いたいことを言う機会だ。

 だけど・・・・・・・。

 ・・・・・・・間に合って欲しくなかった。

 間に合いたくなかった。学校をサボって、全力で走って、それでも間に合わないで欲しかった。読み間違えて、ここにいないで欲しかった。

 それはきっと、僕が一番恐れていたことだ。こうなると分かっていて、無意識に目を逸らし続けた理由だ。

 ・・・・・・・否が応でも、確定させたくなかった事実だ。

 ・・・・・・・すなわち。

 ・・・・・・・母さんを、助けられるという事実。

 なおも固まる僕に、母さんは何も言ってこない。心の整理が着くまで待ってくれてるのか、それとも単純に言葉が見つからないだけか。

 ・・・・・・・この結末にしかならないことは、わかっていたはずだ。

 結局のところ、間に合わなければ解決しない。もし今日遅れても、また明日、もっと早く動く羽目になったはずだ。

 ・・・・・・・全く。こんな結末、流行らないよ。

 意を決して、声の方向へ振り向く。

 目線の向こうには、母さんがいた。そして何故か、すぐに気づく。

 あれはきっと、『本物』の母さんだ。

「・・・・・・・どこに、いくの?」

 恐る恐る問う。そこで気づく。

 本物だと気づいたのは、僕がここに現れても驚かなかったからだと。

 母さんは何も言わない。

「・・・・・・・どうして、いったの?」

 再度問う。震えそうな声を抑えてそこで気づく。

 自分自身が、冷静すぎることに。

 また、母さんは何も言わない。困ったように微笑むだけ。

 やっぱ、母さんだと思った。都合が悪くなるとすぐそうするところ、母さんだ。

 別に、答えが聞きたいわけじゃない。そのくらい、聞かなくたって分かってるから。

 ・・・・・・・ただ、聞かずにはいられなかった。

 母さんの反応を見て、僕は初めて、父さんを呪った。

「・・・・・・・父さん・・・・・・・どうして、僕たちを置いていったんだよ・・・・・・・っ!!」

 無意味で誰にも届かない、悲痛な思いが、小さく漏れていた。

 父さんはなぜ、僕たちを置いて逝ったのか。それは、僕たちを信じたからだ。

 自分がいなくてもやって行けると、僕と母さんと柚で、3人でも暮らして行けると信じたから、あのとき子どもを助けに身を出せた。

 だが、それは間違っていた。

 母さんには父さんが必要だった。僕だって一人じゃ何一つできなかった。柚に助けられてきた。

 父さんは間違えたんだ。僕達を過大評価し過ぎたんだ。誰かも分からない子どもを、助けるべきじゃなかった。

「お父さんは、ね?」

 何も答えなかった母さんが、口を開く。久しく聞いていない、懐かしい声。これからも聞くことはない、優しい声。

「青葉や柚に、誇れる父親でいたかったの」

 その言葉を聞いて、握る手が強くなった。

 確かにそうだ。父さんはかっこよくて、きっとカッコつけてた。そんな父さんの選んだ選択を、僕が否定してどうする。

 でも、そうではなく。

 握られた拳は、怒りだ。

 そう、断定する母さんに、いたたまれないほどの怒りが湧いた。

 胸に触れて意識する。理性を強く保て、感情に鍵を掛けろ、と。

「・・・・・・・じゃあ、どうして母さんは、誇れる母親を辞めたの・・・・・・?」

 躊躇いながらも、言葉にした。多分この躊躇いは、母さんのためではなく、自分のためのものだ。

 なんでそこまで、父さんのこと分かってるのに、あんなことをしたのか。僕たちに誇れる、父さんに誇れる母親にならなかったのか。

 大丈夫、鍵はまだ健在だ。躊躇ったおかげかも。

「・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・」

 何も言わない母さんを、こちらも無言で待つ。脇目も振らずに、身体も感情も動かさずに、見つめる。

 しばらくして、母さんはようやく口を開く。

「・・・・・・・私は・・・・・・・弱いから・・・・・・・」

「・・・・・・・っ!」

 言葉に出ない驚き。それは母さんの見せた表情だった。

 暗い表情。不安に満ちた、影の落ちた顔。口元が薄く笑っていても、誤魔化せるわけのない、大きな闇。

 だが。その表情に驚いたんじゃない。

 その表情を見たことがなかった自分に、驚いたんだ。

 思い返してみれば、そうだ。これまでに母さんが僕たちに暗い表情をしたことがあったか。不安の表情も、疲れた表情も、見せたことがあったか。

 あるのは一度だけ。

 ・・・・・・・父さんだったものに向き合った、あのときの『絶望』だけだ。

「お父さんがいなきゃ、駄目だった・・・・・・・」

 明確に諦めたような顔で笑う母さんを前に、僕の鍵は外れてしまった。外されてしまった。

 この鍵は、感情を抑えるものじゃない。元々、ぶっ壊すこと前提で掛けた鍵だ。行動が行き過ぎないように、無意識に自制がかかるように、意識したものだ。

 でも、壊す前に、外れてしまった。

 謝ってきたら壊すつもりだった。容易に怒れた。

 けど、それはなく。目の前にいるには、ただただ見たことのない母さんで。怒っていいはずなのに、怒りが発露しなかった。

「なん、で・・・・・・・抱え込まなくても、なんで、話して・・・・・・・ッ」

 途中で自分の言葉に自覚し、口を手で覆う。

『なんで、話してくれなかったのか』

 今の青葉なら言える。一人で抱え込むなんて、不毛だと。

 でも、今の青葉だからこそ言えることだ。青葉だって最初は一人でどうにかしようと足掻いてた。できるだけ周りに迷惑かけまいと、自分の力を過信してた。

 ・・・・・・・さすが親子だと思う。

 こんなこと、話せない。ましてや子供になんかに、不安だなんて絶対に言えない。唯一それができるのが、父さんだった。

「・・・・・・・青葉」

 動揺して動けない僕に、母さんがゆっくり近づいてくる。それについつい身構える。

「・・・・・・・お母さん、知ってるよ」

 ゆっくり言葉を紡ぎながら、確実に距離を詰められる。

 何を言えばいいか分からない。怒るつもりだった。いや、怒らざるを得ないと思っていた。

 でも、どうしてか怒れない。

「・・・・・・・青葉が、頑張ったこと。頑張ってること」

 ピントが合わない視界に、母さんの顔が映る。

 ・・・・・・・それで、何となく分かった気がした。

 次第に身体の緊張が解ける。母さんの表情にピントが合う。リラックスとは違うけど、身体の力が抜けて、自分の表情が緩んだ気がする。

「・・・・・・・!」

 と、いきなり。自然な身体運びで、母さんが僕に体重を乗せてくる。容赦なく、腕を回して。

 僕はこの人に怒ろうとしてたのに。憎しみの対象なはずなのに、その『憎しみ』は何とも空気読めずだ。

 そして、耳元で力強く。

「・・・・・・・青葉。よく、やったね」

 そう、言った。

 ・・・・・・・ああ、そうか。納得した。

 ふと、思う。『ごめん』も『ありがとう』も、ありきたりすぎると。

 僕もそれを予想、というか無意識に想定してた。

 けど、母さんは、一度もそれを言わなかった。

 だから怒れなかった。正確には、怒り出すきっかけが掴めなかった。

 そうだった。この人は、空気を読まないんだ。

 ああもう。自覚するしかない。中学生の姿だからか、今僕、ほっとして笑ってることを。

 母さんが僕の頭に触れて、撫でようとしたところで、母さんの肩を押した。

「頭はダメ。紅葉さんが触ってる」

「やっぱ紅葉ちゃんには負けるか」

「当たり前だろ。母さんあんなことしたんだから」

 紅葉さんどころか、あらゆる人に負けてるよ、母さんは。

 許せるわけないんだから。僕たちを置いていった母さんを、一生。

「苦労かけたね、青葉」

「母さん、言葉避けてたの、怒られたくないから?」

「え?なんのことかなぁ?」

「・・・・・・・全く」

 白々しくとぼけて見せた母さんに、呆れ顔でため息をつく。

 でも、馬鹿らしくて、懐かしくて、笑ってしまう。

「いいや。『ごめん』も『ありがとう』も要らないや」

 謝られなくて良かった。

 ・・・・・・・許せないから。

 感謝されなくて良かった。

 ・・・・・・・母さんのために頑張ったわけじゃないから。

 きっと、許されるつもりがないから避けてたのだと思うし、僕にそれは必要ないから言わなかったのだと思う。

 だって、母さんは空気が読めないんじゃなく、読まないんだ。本来はよく気づく人で、気遣いのできる人だ。

 だからそう思う。なんたって、僕の母さんだから、僕のことを分かってくれている。

「・・・・・・・青葉は、大切な人見つけたんだね」

「うん。何よりも、大切な人」

「じゃあもう大丈夫だ!青葉はきっと幸せになるね!」

「それ、母さんが言うかなぁ」

 青葉を不幸にした張本人が何言ってるのやら。本当呆れる。けど、少しほっとする。

「お母さんが保証する。だから・・・・・・・もう行かなきゃ」

 いっそう悲しそうな声に、少し動揺する。母さんの揺れる瞳を見て、軽く唇を噛む。

 もう、時間だ。母さんがここから落ちるまでの、奇跡みたいな時間。フィクションのような、夢の中の死者との会話。長くなんて、続かない。

 結局、ここに来ても母さんは止められない。ここで母さんを止めても、現実が変わるわけじゃない。

 もし変えられると言われても、僕は変えない。変えてしまえば、紅葉さんとは出会えないから。起きたことは起きたことで、それを変えるのは間違っていて、母さんを僕は見殺しにする。

 そうするしかない。母さんが自殺したのは事実で、僕が間に合わなかったのも事実だ。人生はコンテニューできない。1度ミスったら、戻れない。それが人生だと思うし、それを変えるのは、酷く無責任だ。

 ・・・・・・・後悔は、後悔のまま、抱えて生きていくしかない。

「母さんは、・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・青葉?」

「・・・・・・・僕は、母さんを許さない。許せない」

「・・・・・・・うん」

「・・・・・・・でも」

 上手くまとまらない言葉。でも、言わないといけないと思った。

 許せるわけがない。親がいないってだけで、どんだけ苦労した。どれだけ犠牲にした。

 ・・・・・・・どれほど、柚を悲しませた。

 許せるわけがない。僕たちをほっておいて、自分だけ父さんのところに行って、無責任で、罪深くて、無慈悲な話だ。

 でも。

 この道で、紅葉さんと出会えたから。

 結果良ければ全て良しってわけじゃないけど、失ったことで、得られた幸福もあった。紅葉さんが紅葉さんじゃなければ、こうは思えなかったけど、巡り合わせで、今の幸せな日常がある。

 だから・・・・・・・。

「・・・・・・・見ててよ」

「え?」

「見守らなくていいから、見ててよ。父さんと一緒に」

 見てて欲しいと思う。許せなくても、憎しみがあっても、そのくらいはして欲しいと、願う。

 僕と柚が、2人がいなくたって大丈夫だって知って、感心して欲しい。僕たちの知らないところで褒めて、自慢な子どもだって誇ってほしい。

 ・・・・・・・親、だから。そんなことでも、して欲しいと思った。

 ほんの少しだけ揺れる瞳で、母さんを見つめるけど、

「・・・・・・・・・エッチなところも見ちゃうけど、いいの?」

 反応が思ってたより母さんだった。

「少しは空気読んでよ」

 きっと今の僕は、かつてないほど分かりやすく半眼で呆れてると思う。

「だってお母さんに見られてたら、気になって上手くできないんじゃ、」

「もういい」

 本当に呆れて、母さんに背を向ける。呆れて怒って、でも口元はきっと笑ってる。

 うっすら背中で小声を聞き取ったけど、でも振り向かなかった。

 ・・・・・・・離れていく気配がするから。

 小さな足音がうっすら聞こえて、それもまた遠くなっていく。

 怖くはない。悲しくはない。不安じゃないし、泣くことだってない。

 別に何か思うことはない。もう一度お別れしたんだ、別にどうってこと・・・・・・・。

「ッ!母さん!!」

 なんだか、母さんが屋上の端に立ったように感じて、動いてしまった。

 ・・・・・・・ただ一つ、言いたいことがあったから。

「助けられなくてごめん!!気づいてたのにッ、分かってたのにッ!動けなくてっ・・・・・・・ごめんなさいっ!!」

 口に出ていた。これが事実。これが真実。

 柚の母親を守れなかった。守れたはずなのに。動けたはずなのに・・・・・・・。

 母さんを止められなかった。その、僕の『罪』を、謝りたかった。

 でも母さんは。気にも止めなかった。

 ただ、笑って。死人とは思えない満面の笑みで。両手を上げて。

「じゃあねー青葉ー!!」

 ・・・・・・・なんだが、僕が馬鹿みたいだ。

「母さん、1つ聞き忘れてたんだけどさー!」

「なにー?」

「天国って、どんななのー?」

「知らなーい!だって、これから行くんだものー!」

「そっか!」

「青葉、元気にねー!」

「・・・・・・・うん!」

 その返事を最期に、母さんに背を向けた。

 そこから先は、もう気配は分からなかった。

 後は夢が終わるまで気長に待とうと思ったけど、それはすぐに訪れたと予感して。

 母さんとの最期の会話、なんだあれって、軽く笑って。

 起点を話すなら、僕の物語はきっとここからだ。なんだかようやく、本当の意味で、母さんと決別できたような気がした。

 妙にすっきりした気分で、ゆっくり景色が暗転した。

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