残雪融解

水月虎白

残雪融解

「この世界ってさ、球体らしいよ」

「なんでお前がそんなこと知ってるんだよ」

「知らないよ、そんなの。『らしい』って言ったじゃん。確証はないの。けど、どこかで聞いた気がするんだよね」

 ふぅん、と興味があるのかないのか分からない相槌を返す彼に、私は少しむっとして質問をぶつける。

「じゃあさ、サクラって知ってる?」

そう問いかけた私の言葉に、彼は首を横にひねることで返事にした。

「ハル、ってところにあるらしいんだけどさ、とっても綺麗なものらしいんだ」

 少し喋り過ぎた。マシンガンのように言葉を撃ちまくった口を冷却しなければ。私は持っていたリンゴジュースにストローを刺す。プス、という小気味いい音が鳴った瞬間に私はプラスチックに口をつける。口の中に甘酸っぱい液体が流れ込んだ。

「聞いたこともないし見たこともないね。何なの、それ」

 ジュースと共に言葉を飲み込んだあとでじわじわと笑いが込み上げてきた。ニヤニヤしている私を見て彼は怪訝そうな表情を浮かべる。それもそうだ。普通に考えれば変なことは言っていない。それでも私は可笑しかったのだ。彼の「見る」という言葉が。

「いやいや、私だって最近知ったばっかで見たことないのにさ、君が見たことあるわけないじゃん」

 そういうと彼は目を丸くした。一拍置いて彼の笑い声があたりに響いた。

「確かに。それもそうだ。俺たちはこの景色しか見たことないもんな」

そういって彼はその場に倒れこむ。普通なら頭でも打って怪我を負うところだが、そんな心配はない。地面に積もる雪がクッションとなり、へこむ。寝転んだ彼の形を形成した。

「大規模な気候変動、だっけか」

 私と長話をしていたせいだろう、鼻の頭が赤くなっている。彼はしんしんと降り積もる雪を見ながら言葉を紡ぐ。

「難儀なもんだよなあ。俺らが生まれる前にこの世界の気候が変わって、雪しか降らなくなっちまった。お前の言うハルってやつもサクラってやつも、きっとこんな風になる前には存在したんだろうなぁ」 

 だけどさ、と彼は続ける。むくりと起き上がった彼は、背面を白く染めたままだった。雪を払い落とすこともせず、私に向き直る。

「そんなのどうでもよくないか? この世界だっていい世界だろ。俺たち二人がさ、世界で一番、雪を綺麗に見ることが出来ていると思わないか?」

今まで相槌だけだったのに質問を返してくれた。そのことに喜びながら、私は思考を巡らせる。

「……うん。言われてみればそうかもね。うまく表現できないけど、『一番綺麗な雪の状態』ってものを象っているような、そんな感じがする」

「だろ? 常に雪が降り続けているから、踏み荒らした跡なんてすぐに消えてなくなる。ずっと処女雪だ。天気も気温も変わりゃしない。雪華とはよく言ったもんだな。目を凝らせば結晶まで見える。挙句、常に光が反射して雪が光り輝くときたもんだ。こんな世界そうそうないぜ?」

 少し興奮気味に話す彼を見て、私は愛おしさを感じながらも、どこか引っ掛かりを感じていた。確かに、この世界は美しい。どこかで知りえた言葉を借りれば、ゲンソウテキ、なんていうのだろう。だけど、だけど、だけど。私は「サクラ」を、「ハル」を知りたい。その欲求を満たしたいのだ。

「あはは、君は雪が大好きなんだね」

 欲求に抗うことが出来なくなった私は、どこか適当な相槌を返す。

「ああ。雪も大好きさ。だけど……」

 私はかなり驚いた。そして珍しいな、と思う。いつでも何でもはっきり言う彼が言い淀むところなんて十数年の付き合いで初めて見たからだ。きっと言い淀むほどに言いづらいことなのだ。なら自分から先に伝えてしまおう。そう判断した私は、ちょうど自分も伝えようとしていた事を言葉にする決意を固めた。

「ねえ、聞いて」

 そういうと彼は口を閉じる。彼の言葉を奪ってしまったかなと少し後悔しつつも言葉は止めない。

「私ね、『サクラ』とか、『ハル』ってものを見てみたい。触れたい。言葉じゃなく、この目で、鼻で、耳で、肌で。この世界ももちろん好きだけどさ、それよりももっと美しいものなんじゃないかな」




 私はそう言った。刹那――時間が止まる。文字通り。降り続いていた雪は空中で静止し、薄く白に染まった空気もそのままだ。まるで写真に収められたかのようだった。ふと彼の方を見ると、彼も何が起こったのか瞬時には理解できていない様子だった。二人して呆然としていると、空が割れた。比喩ではなく、本当に。その亀裂はだんだんと広がり、まるで落雷のように上から下へと落ちてくる。いや、伸びてくるという表現が正しいのかもしれない。亀裂は一瞬にして世界に広がり、足元の白銀にも伸びる。光を反射した状態で固まっている雪が粉々に割れていく様は、ガラス細工を叩き割った時を彷彿とさせた。

 意識が混濁する。世界の終焉なのだと、感覚で理解する。なぜ急に? 私のせい? 私が……『ハル』を見たいと願ったから? 『サクラ』を見たいと願ったから? 

 彼はどこだろう。薄れゆく意識の中で必死に彼を探す。耳鳴りがする。五感はもう、目だけしかまともに機能していなかった。見つけた。彼はこっちに何かを訴えている。耳鳴りが酷い。聞きたいのに聞けないもどかしさを感じながらも、必死に目で彼の口元を見る。読唇術で彼の言葉を読み取ることに意識を集中する。母音が分かる。言葉が分かる。――読み取れた。かろうじて機能していた視界は、涙によって機能不全に陥ってしまったようだ。

 はい。すべて私のせいでした。この世界が崩壊したのは、私が『ハル』を願ったからなんです。『サクラ』を見たがったからなんです。彼はこの世界で私といることを願っていたのに。私は今まで「彼と一生ここにいられたら」と願っていたのに。いつの間にか彼よりも自分の欲を優先してしまいました。この世界は彼と私、二人がお互いと共にこの世界にいたいと思うことで保たれていた世界だったんだ。愚かにも私はそれに気づくことが出来ませんでした。彼は私が殺しました。私も私が殺しました。もし、彼があの時言い淀まなかったら。私が彼の話を優先して聞こうとしたら。何より――私が欲望を口にしなかったら。私は自分の心に巣食う蛇に勝てなかったのです。ついに視界もなくなりました。残っているのは蛇に奪われたこの心だけです。私はもう死にますが、死ぬまで謝り続けます。許されるとは思っていません。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……





 ゴトリ、と鈍い音がした。男はその方向に首を動かす。

「うわ、最悪」

 そう男は一人ごちり、床に落ちた球体を見る。世間一般にスノードームと呼ばれるそれは、先ほどの衝撃で割れてしまったようだった。

「お気に入りだったのにな」

 思わずため息が漏れる。雑貨屋で見かけたスノードーム。銀世界の中に佇む男女を模したそれに、一瞬にして魅了されたのを覚えている。冬の一番いいところを切り取ったようなその球体は、いまや見るも無残な状態だ。手袋をはめて破片を集める。外の日差しを受けて破片がキラキラと輝いた。破片を集めながら枚数を数える。特に意味はない。いち、に、さん……十より先は覚えていない。それほどまでに細かく割れてしまったようだ。せめて真っ二つなら修復もできただろうが、ここまで砕けるともう修復は不可能だ。スノードームの世界はもう二度と元に戻ることはない。覆水盆に返らず。いや、覆スノードーム元に戻らずといったところか。

 カラカラとした音を立てて、ごみ箱に吸い込まれていく破片。ごみ箱を一瞥することもなく、男は窓を開ける。ポケットから煙草を取り出して加えた。一瞬の金属音の後に煙草の先から煙が出始めた。顔を外に出した男は思わずうわ、と声を出す。驚きのあまり加えっぱなしの煙草が重力に従って落ちていった。見慣れた景色を想像していたであろう男は、新しい窓からのぞく新しい景色に驚いたのだ。

「そういえば開花予想は今日だったか……」

 眼前に見える枯れた木々と遠目に見える山。それが彼の想像していたものであったはずだ。しかし今やその景色は色鮮やかなピンク色へと変貌していた。男はきっと、自分が良い立地の場所に住んでいることを自覚したに違いない。満開のそれは、男に春が来たことを告げる。一歩引いて見ると、それは一枚の絵のようだった。窓枠が額縁に見えるほどに外は美しかった。

「綺麗だ……」

 そう男がつぶやくと、それに答えるかのように風がびゅう、と吹いた。つられて花弁が舞った。はらりはらりと舞いながら部屋に侵入した。男は伸ばしかけた手を引っ込め、花弁を見守る。まるで目的地が決まっているかのように舞い続ける。ひら、ひら、ひら。花弁はごみ箱に吸い込まれていった。

 ふ、と息を吐き、男はもう一度胸ポケットに手を伸ばす。今度は落とさない。そんな気持ちと共にもう一本煙草を取り出した。再び窓から顔を出し、煙を吐き出す。吐き出した煙の他にもう一つ、煙が出ていた。その煙はまるで春の山の後ろから出ているようだった。煙の出どころは分かっている。下を見る。先ほど落とした煙草がちょうど燃え尽きるところだった。地面はアスファルトしか見えない。

路肩の残雪もすでに溶けきっていた。


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