INNOCENCE

 通勤電車に揺られている中、I氏は突然手首を掴まれた。


「この人、痴漢よ!!」


 おとなしそうな印象の女性が声を張り上げた。唇が震えている。勇気を奮い出して叫んだ、そんな様子であった。


 身に覚えのないことだった。そのためI氏は混乱し、「ち、違う! 私じゃない! 誤解だ!」と顔を赤らめて掴まれた腕を振り解いた。振り抜いた腕は誰かの身体に当たった。


「なあおっさん、一旦駅で降りようか」


 周りの乗客に詰め寄られる。

 特に隣に立っていた学ランの体格の良い学生は、憎悪を目に滾らせてI氏を睨んでいた。ちらほらと混じる女性客の蔑みにも勝るとも劣らなかった。


 間もなく、電車は駅に滑り込んだ。

 ごった返す乗降口が今は嘘のように、I氏等が降車しやすいようスペースが開けていた。


「痴漢?」

「サイテー」


 ヒソヒソ声が車両中に伝播してひとつのざわめきとなりI氏を責め立てていた。


 駅員に突き出されたI氏は、鸚鵡のように同じ言葉を繰り返し、自らの無罪を訴えた。


「やっていません」


 否定すればするほど、I氏に向けられる疑惑は濃くなっていった。


 どうして。


 状況ははっきりしていた。

 けれども、I氏には訳が分からなかった。滝のように流れ出る汗を拭う余裕もなかった。


 当然、会社には間に合わなかった。


 駆けつけた警察官に連れられ、最寄りの警察署に連れて行かれた。

 何もかもなすがままだった。


 鸚鵡のように自分の冤罪を訴え続けるI氏の言葉を、警察は最初から信用していないようだった。

 時に強く、時に弱く。硬軟織り交ぜながらも警察は一貫して罪を認めるようI氏に迫った。


 それでもなおI氏は無実を訴えたが、その声は次第に弱々しくなっていった。


 会社に遅刻してしまう。


 家に帰れない。妻と二人の子ども──娘と息子だ──に会えなくなってしまう。


 否定し続けるI氏は、やがて正常な思考ができなくなっていた。


 事が発生してから何時間も経っている。I氏は異様な昂奮に支配されていた。

 太陽は既に西の空に移動していた。


 ついにI氏の口から「やっていません」の言葉が聞こえなくなった。

 翻って「私がやりました」という言葉が紡がれるまで、そう時間はかからなかった。


 勾留されているI氏に面会した彼の妻は、険しい顔で「子どもたちと、実家に帰らせていただきます」と言った。かつてI氏が聴いたどの言葉よりも重く冷たい声だった。


「本当はやってないんだ」


 I氏の声は弱々しく、また俯き加減で、彼の妻と目を合わせることは無かった。


「信じてくれ」


 おずおずと顔を上げるI氏は、妻の視線に射竦められた。

 返事はなく、ただ黙って彼の妻は席を立った。


 釈放されたI氏は、ガラ空きになった家に残されていた離婚届を認めた。判は押してあった。


 からくも職場に復帰したI氏だったが、既に事の顛末は広まっていて、身の置き所は無かった。


 表立って嫌う者、表面上は当たり障り無く裏でこき下ろす者。

 反応の傾向は、年齢や性別によるものでは無かったが、誰も彼もがI氏の人格を否定していた。


 勾留中から担当してくれる弁護士のみが、唯一I氏の味方だった。


「実際、極度の緊張の中で、やってもいない罪を認める人は多いんです」


 まだ若い弁護士は、そう言って身を乗り出した。


「これは名誉の問題です。戦いましょう」


 ひと回りは年下な弁護士の熱意に、I氏の心は動かされた。I氏の目は少しずつ光を取り戻していった。


 家を売り、まとまった金銭をI氏は自分の過去の落とし前のためだけに捧げた。


 しかし数ヶ月後、弁護士はとても申し訳なさげな表情でいた。


「力及ばず、申し訳ありません」


 主張は却られていた。


「も、もう……チャンスは無いんですか? まだやれるんじゃ──」


 弁護士が横に首を振るのを見て、I氏の言葉は尻すぼみになった。


「もういいでしょう」


 判決を受け入れて、示談で手を打った方が実利がある。

 そう説明する若い弁護士の乾いた表情。

 本当に数ヶ月前に「名誉のために戦おう」と言ってくれたのかとI氏に疑問を抱かれるには充分だった。


 この頃、I氏は会社を退職していた。

 離婚はとうの昔に成立していた。




 I氏は街をフラフラと彷徨っていた。

 人混みの中、流されるまま。I氏はあてもなく、人の出入りでごった返すデパートに入った。


「あ、あの時の痴漢っ」


 人で溢れているはずなのに、その声だけはどんな騒めきにも負けないほど凛と響いた。


 I氏を痴漢と訴え、裁判で争い、示談で金銭を支払った女性だった。痴漢を告発した時には控えめな印象の彼女はいま、眼光鋭く自信に満ち満ちた気の強そうな女性へと変わっていた。


 女性グループで買い物でもしていたのだろう。彼女の周りには同じくらいの歳に見える女性等がいて、各々が大小様々な紙袋を提げていた。


 やはり驚きと軽蔑が広がっていく。

「I氏は痴漢」。情報が瞬く間に伝播する。


 好奇・嫌悪。

 周りの視線に晒されて、I氏は心の中で叫び声をあげた。


 踵を返し、I氏はデパートを飛び出した。

 擦り切れたトレンチコートの裾が閃いた。


 以来、I氏の行方は知れない。

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