HALCYON
小さな町だった。
旅の途中でふらりと立ち寄った海沿いの町。水際まで崖が切り立っており、引き潮の時間帯に崖を見下ろすと岩礁が迫っているのが見えた。
この地形ではとても船は停留させられないだろう。
天気は非常に穏やかで、波ひとつない海原だった。船の航行条件としては理想的だろうに。
崖をなんとか降りれそうなところもあった。下を覗くと、二、三人が海釣りに興じていた。
ざっと町を散策し、宿に戻る。民宿で、聞けば昔の地主の家を改装したものらしい。少し広めの邸宅で、崖の上にあるおかげで一階からでも海を一望することができる。軒先に、夏でもないのに風鈴が下げられているのが少し奇異だった。
おかえりなさい。夕食できてますよ。
予約がないにもかかわらず快く泊めてくれた主人にそう告げられ、初めて夕方になっていることに気付いた。日が高くて時刻に気が付かなかった。
先に風呂を貰ってから食事処に上がる。
私のほかには男性がひとり滞在しているだけのようで、どこか人を拒絶するような雰囲気を漂わせていたその男性客は、私と同じ刻に食卓についたにもかかわらず、私と一切口をきこうとしなかった。そればかりか、急き立てられるように食事を終えると、目も合わせずに部屋へ戻ってしまった。ややあって、釣り道具を持って玄関に向かうのが戸襖の向こうに見えた
ゆっくり食事を終えた私は、片付けにやってきた主人とそのまま世間話を始めた。
町は見て来られましたか?
ええ、まあ。
何もない町でしょう。
そうですね、とも言い難く、曖昧な返事になった。
海が近くてびっくりしました。
そうですね。岩ばかりで、せいぜい岸壁で釣りをするくらいが関の山です。
釣りですか。
ええ、実は隠れた名所でしてね。昼も夜も釣りをする人で賑わっています。
そしてふと、主人は外を見やった。閉められた窓の外で、風鈴がビクともしない。
今日みたいな天気の日は、夜釣りはやめたほうがいいんですけどね。
え、そうなんですか。
ええ。今日みたいに朝から凪いでいる日はね。
凪いでいる日。
私はおうむ返しに繰り返した。
風がないほうが、釣りしやすそうに思うんですけど。
釣りなんて、小学生くらいの時に釣り堀に連れて行ってもらったのが最後だ。ろくに経験もないが、イメージで言う。
やっぱり、波が少しくらいあったほうがいいってことですか。
私の疑問に、主人は「うーん」と難しい顔つきになった。言葉を探しているようだ。私をのぞき込む目が、まるで試すような、見透かすような目であった。
釣り自体は、そうですね。凪いでいたほうがいいんでしょうけどね。
主人は曖昧な口調で言った。
ちょっとした迷信がありましてね。この辺のもんは風のない日を気にしとるんですわ。
風がない日。
私は再び窓のほうを見た。季節外れの風鈴が吊り下げられている。
風鈴は、じゃあ風を測るための物ですか。
いえいえ、あれは孫娘がくれたものなので飾っているだけですよ。
笑って否定された。当てが外れたのを少し悔しく思っていると、でもね、と主人は続けた。
でもね、あれのおかげで今日は風があるかどうか、音でも分かるってもんです。
私と主人は顔を見合わせて、微笑を交わしあった。
それで、迷信っていうのは。
お茶のお代わりを頂戴しながら、私は話題を蒸し返した。
聞きたいですか?
主人は眉を寄せた。困惑の表情だった。
つまらない話ですよ。
私がそれでもというと、主人は控えめな口調で話し始めた。
この辺は、もともと風が強い土地なんです。
地図で見るとわかりやすいんですが、山脈が町の両側にあって、川が山にはさまれるように走っていて、もともとが谷の出口にあるような町なんです。
川が崖を削って、少しできた平坦なところに昔の人が住み着いたんですね。
海に面している以上、海風はある程度吹きますよね。
風は、川に沿ってもっと内陸のほうに流れていきます。
この川って言うのが少し蛇行しているんで、まるで山に三方向が囲われているようにも思えるんですね。
山に囲われるような地形で、「おろし」も吹き降りてきます。
海からも陸からも風が吹いてくる。
そんな中でも、こう、稀にですけど風の止む凪の日がある。
これを昔の人は、風が無いのは海が風を吸っているからだって考えたらしいんですわ。
どうも、海の上に得体のしれない、見えない渦潮みたいなんが発生していてですね、それがなんでも海に近づくもんは吸い込んでしまうと。上を通る船はおろか吹く風すらも飲み込むって解釈したとかで。
面白いでしょう。
確かに、ずっとこの町で暮らしていると、風が強いのが当たり前になってきて、無風の時があるとヘンな感じがするんです。
風があると、出歩いていても涼しく感じますし、よっぽどじゃない限り気温の感覚もなく過ごせる。
けど風が無いと、温度が直に体にまとわりついてくる感じがするでしょう。
ピンときませんか。
そういうことで、気持ち悪い感覚に説明を昔の人なりにつけたんでしょう。そう思っていました。
もっとも、ある程度は事実に基づいているらしいんですね。
凪の日の夜、沖合に出ていた漁船が何の前触れもなく転覆した海難事故があったそうです。もう遥か前の、まだお侍とかがいた時代の話らしいんですが。
そんな昔の話をされても困りますよね。
えっと、これはじゃあ、僕が子どもの頃の話なんですが。
酔い覚ましにと海岸の崖の上を歩いていた青年会かなんかのおっさんが、ふらふらっと海のほうに向かって崖の上から身を投げたことがあったんです。
当時はガードレールもなくて、まあ危ない道だったんですが、地元の人間ですし大丈夫だろうと。
遠目に見ていた人が言うには、どうもまっすぐ海に向かっていったようなんですね。道路を突っ切るようにして。
年寄りが凪のせいだって噂していました。
凪の夜に海に近づいたからだって。
確かに、その日は一日中凪いでいたんです。きっと、凪の時間が長いほうが引っ張る力も強いってことなんでしょう。
同じような事件はもう一遍ありました。
その時は、何人かが慌てて駆け寄って腕をつかんで、落ちそうになっているところを引き上げたそうです。
その頃にはガードレールはあったんだっけな。ちょっと忘れちゃいましたけど。
で、話を聞くと、どうも自分でもよく分からないと。
なんだかよく分からないけど吸い寄せられるみたいに歩いていったと答えたそうです。
後から聞いて、正直気味が悪かったですね。
ただの迷信だとは分かっているんですけど。
数年前、町の外で暮らしていた時期があります。
風が無い日なんて珍しくもないですからね。別に朝から吹いてなかろうと、何時でも出歩いてましたけど、この町に戻ってきたらなんだか思い出しちゃってて。
それでいまは、僕も凪の日の夜はなるべく出歩かないようにしてますね。
これで、この話は終わりです。
あんまりおもしろい話じゃなかったでしょう。たいしたオチもなくて。
いえいえ、とんでもないです。
お茶を飲み干して、湯呑を主人に手渡す。
こういう話が聞けるのも、旅の意趣ってもんですから。
私はそう言って席を立った。
ごちそうさまでした。部屋に戻ります。朝食は八時からでしたっけ。
はい。こちらにおいでください。
わかりました。それでは。
はい、おやすみなさい。
部屋に戻って寝支度を整えているとき、ふと窓の外に目が向いた。
季節外れの風鈴が吊り下がっていて微動だにしない。
私は不意に、もうひとりの宿泊客のことを思い出した。
確か彼は、釣り道具一式を持っていそいそと宿を出て行った。
凪の日に、海で、夜釣りをする。
布団を敷いて、中に潜り込む。
迷信だ、宿の主人もそう言っていた。
そうは思いながら、私は明日の朝、騒ぎになってはしないかと考えて、中々寝付けなかった。
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