GRAVITÉ
少女は貧しくて、毎日安いお駄賃で身を粉にして働いても、生活は一向に良くなりませんでした。
少女はちっとも幸せではありませんでした。
その日、少女は広々とした公園で、華美な扮装をして通りがかる人に風船を売っていました。
子どもは喜んで風船をねだります。ある親は子どもに応えて風船を買ってくれますが、大抵の場合は風船は必要とされませんでした。僅かに売れた程度ではノルマに届きません。売り上げ収入も得られず、さらに雇い主からひどく叱責されてしまいます。
少女はちっとも幸せではありませんでした。
雲の流れる秋の日でした。
広々とした公園には冷たい秋風が吹いて、少女の身体を凍えさせました。
「お姉さん、その風船ちょうだい」
小さな子どもが、コインを手にして少女に声をかけました。待望のお客様です。
「ありがとうございます」
コインを受け取り、代わりに風船を手渡ししました。
「あっ」
どちらともなく声が漏れました。
風船の紐が二人の手から離れ、空高く舞い上がってしまったのです。
少女は咄嗟にジャンプしました。既に少女の背の倍ほどまで高くにあった紐をつかんで、音もなく地面に着地しました。まるで重さがないようでした。
何事もなかったかのように少女は風船を子どもに渡しました。今度はちゃんと、子どもが紐を握ったことを確かめていました。
「お姉ちゃん、ありがとう」
破顔して、子どもは走り去っていきました。
一大事にならなくてよかったと、少女は胸を撫で下ろしました。疲れと畏れの前に、お礼の言葉は、少女の胸には響いていませんでした。
少女はちっとも幸せではありませんでした。
「君、少しお話をいいかい?」
ひとりの男性が少女に声をかけました。
「君、僕の舞台で踊ってみないかい?」
男性が差し出した名刺には、名門バレエ団の名前がありました。男性は振付師でした。
理解が追いつかなくて、少女は無言を保ちました。
それを当惑と理解して、男性は端正な顔に微笑を浮かべてみせました。
「君は理想的なんだ。小柄で華奢で、手足が割合に長くて、そして天性のバネがある!」
「えっと、あたし、仕事が……」
ようやく少女は返事をすることができました。
「仕事? ああ、その売り子のことかい?」
男性は戸惑いを露わにしました。
「ダンサーになれば、一日で今の十倍は稼ぐことができるよ。さ、遠慮することはない。雇い主はどこだい? 僕が話をつけてきてあげよう」
男性はズンズンと少女の手を引きました。少女の手から風船が離れて、空高く舞い上がっていきます。少女は泣きそうになっていました。
少女はちっとも幸せではありませんでした。
翌日から、少女は男性のバレエ団に通って、稽古をつけてもらうことになりました。
少女は悪い意味で目立っていました。
家にある中で一番マシな晴れ着でさえも、他の生徒の持っている古着の方が段違いに綺麗でした。
一度も舞踏に触れたことのない少女に、男性は基礎の基礎から手取り足取り教えました。
他の生徒は各自で基礎を習得して、その上で芽が出るよう研鑽を積んでいます。全くの例外。他の生徒にとってはおもしろくありません。
また、男性は少女に特別目をかけていました。バレエ団の派閥争いの中で、男性の代わりに少女に強くあたる大人たちも少なくありませんでした。
少女の才能は、誰もが認めていました。だからとて、少女を誰もが受け入れた訳ではありませんでした。
少女はちっとも幸せではありませんでした。
少女の一家は、少女の日雇いに家計を大きく依存していました。
未来の高給のために今が無収入になることは、受け入れ難いことでした。
「ただ踊るだけでしょう!?」
母親からは唾が吐きかけられました。
「くだらない! そんなことより今日の稼ぎはいくらだったんだい!?」
父親は多少物を知っていたので、ダンサーになるのに多くの費用と時間がかかることを知っていました。
「うちではとても支えきれないよ」
少女は黙って石の床に薄いブランケットを敷き、横になりました。
少女はちっとも幸せではありませんでした。
給金をもらえないか。
少女は男性に対してそう交渉を行いました。
「それは難しいな」
男性は腕を組みました。右足でリノリウムの床にトントンとリズムを打っています。
「むしろ君は本来お金を払う立場なんだ。いま無料で僕の指導を受けているのも、本来はおかしなことなんだ」
しかし、少女もおいそれと引き下がる訳にはいきませんでした。何しろ朝から晩まで休みなく、男性のレッスンを受講するのです。お金を稼ぐ暇を捻出できません。その間、家族を支えるのは、糊口を凌ぐにはどうすればよいのでしょう。
少女は自分の窮状をたどたどしく訴えました。
「分かった。それでは僕が個人的にお金を出そう。──ほら、稽古を再開するぞ!」
彼はバレエに憑かれていました。お金のことなんかよりも、ポーズのひとつひとつを完璧にする方が、彼にとっては重要だったのです。
窓の外を風船がゆっくり舞い上がっていきました。
少女の覚えはめざましく、異例の早さで少女は舞台に立つことになりました。トウシューズに足を収めて、少女は舞台に立ちました。
まだ端役でしたが、舞台上の少女は既に主役を超えて注目を集めていました。彼女が舞台に立つと、まるで彼女だけが地球の重力から解放されたかのように軽く、その第一のポジションだけでも光が少女に集中するようでした。
才能が裏付けられて、男性は満足そうに頷いていました。
舞台から降りると、少女は全く別人のように、無口で無表情で地味な少女へと変わってしまいました。舞台での華やかさが嘘のようでした。
少女はちっとも幸せではありませんでした。
新作を上演することが決まり、少女は振付師の男性に呼ばれました。
部屋に入ると、男性以外にも劇場の支配人やバレエ団の団長、ダンス・ノーブルの男性ダンサーや
「かけなさい」
促され、少女は椅子に腰を下ろしました。
「曲は分かるね?」
再生された曲は先日の公演で少女が踊ったシーンのものでした。
「ここで踊ってみてくれ」
少女は立ち上がって踊りました。みな厳しい目でじっと少女の一挙手一投足を見つめています。
曲が終わり、少女はまた美しくプリエに戻りました。誰ともなく感嘆の声を漏らしました。
「よろしい。次の舞台では君は彼と
ダンス・ノーブルと踊ることは選ばれたダンサーにしか許されないことでした。
振付師が我が事のように喜び勇んで、ますます稽古には熱が入りました。休みなく練習は続き、少女は疲弊していました。
家への帰り道、少女はふと空を見上げました。風船が、ゆっくりと空を漂っていました。少女は足元に目を落としました。
「踊ることは楽しいだろう?」
パ・ド・ドゥは終わり、幕が降りました。少女は袖に下がっていました。鳴り止まない拍手喝采を背景に、男性は得意げな笑みを浮かべていました。男性の目は舞台上に向けられていました。
「……分かりません」
舞台袖に置いておいた、雑に鋏を入れられズタズタになったフリースをぼんやりと見ながら、少女は小さく答えました。少女の目はどこを向いていたのでしょう。
少女はちっとも幸せではありませんでした。
少女の実力は折り紙付きで、キャリアの第一歩としては理想的過ぎる展開をとっていました。
年末の公演では、とうとう主役を張ることになりました。振付師は目の色を変えて、これまで以上に厳しく時間をかけて少女に様々なパを仕込みました。
毎晩遅くまで、練習上の明かりがついていました。他の生徒たちはおもしろくありませんでした。良からぬ噂は既に広まっていました。
嫉妬は少女も感じ取っていました。向けられる期待も敵愾心も、少女の肩には重たく乗り掛かっていました。
少女はちっとも幸せではありませんでした。
やがて、終わりがやってきました。
その冬は厳寒でした。
床から上がってくる冷気と薄いブランケット。少女にはもう、着るべきまともな衣服は残されていませんでした。
レッスンの場でも身体は重く、いつもならば星から解放されたようなグラン・ジュテはドタドタとけたたましい音を立て崩れ落ちてしまいます。
身体は熱く、赤く上気した頬と吐く息がどうにも不安をかき立てられました。
「そんなことでは公演に間に合わない!」
男性は他の振付師とも一緒になって少女を仕込みますが、思うように身に入りません。群舞と共に踊り合わせても、テンポから外れていました。少女はまるで壊れたぜんまいじかけのようでした。
「こんなものはダンスではないっ!」
男性は声を荒げました。
「どうしたんだここ数日の君はっ!!」
俯くばかりで、少女は何も言いませんでした。
「今日はもう帰れっ!」
鬼気迫る男性の姿に、少女もコール・ド・バレエもそそくさと稽古場を後にしました。
熱っぽい身体で、少女は裏通りをあばら屋へ急ぎました。
脚はふらつき、身体は重く、いまにも倒れ込みそうでした。
少女はちっとも幸せではありませんでした。
少女の目の前に、風船が飛んできました。
ガスの抜けた風船は、一度高く舞い上がった後、萎んで川に落ち、沈みながら遥か海原へと流れていきました。
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