FAUCET

 亡くなった叔父から譲り受けた屋敷は、大層な田舎にあった。

 F氏はスーツケースに寄りかかるようにして嘆息した。

 広いだけでがらんどうな建物は昼間であってもどこか薄暗く、冷たい湿気を感じさせた。

 スーツケースひとつだけの荷物を脇にして、F氏はこれからの生活を想像し、そしてまあどうにかなるかと開き直った。


 F氏の叔父は資産家というほどでは無かったが、遺産はそれなりにあった。そのうちのひとつがこの不動産だ。遺言で必ず残すように厳命され、親戚一同は屋敷を残すことに決めた。さりとて、最も近い親戚でも泊まりがけの距離に建つ屋敷である。住み、日常的に管理する人間が必要だった。

 白羽の矢が立ったのがF氏であった。

 定職につかず呑気に暮らしていたF氏は、親戚一同から凄まれ脅されるようにしてこの地に引っ越してきたのであった。


「カネはあるけどなあ」


 管理が仕事のようなもので、住んでいるだけでカネは入ってくる。F氏が親戚を口八丁手八丁で丸め込んだからだ。

 隣家まで車を走らせる距離という辺鄙さがたいへん煩わしく思われたが、口うるさい親も都会の喧騒もないことは利点に思われた。   

 もちろんF氏は運転免許を持っているし、中古の軽自動車がF氏に支給されているから足回りは困らない。自炊が面倒だと嘆くF氏の元には、飲み物や種々のレトルト食品が送られてくる手筈になっている。

 どこまでもF氏は甘やかされていたと言えた。


 F氏は緩慢な動きで荷解きを済ませた。役所への手続きは母親が代行している。父親は少し前に亡くなっていた。

 インターネットは開通していた。電灯の紐を引いて白熱灯を照らし、パソコンの電源を入れる。漫然とウェブサイトを追ったあと、空腹感を覚えたので食事を始める。慣れない手つきで包丁を操り、ガスコンロに火をつける。F氏は自助できる能力に乏しかったが、全く生活力がない訳でもなかった。


「明日は少し周りを見てみるか」


 どうせ一日中退屈している。

 布団を敷き、広いわりに真っ暗な十六畳間の真ん中で眠った。外から聞こえる虫の声が耳にうるさかった。


 翌日は清々しいほどの晴天だった。


 いつもより早く目が覚めたF氏は、昨晩決意した通り、辺りを散策することにした。


 歩いて回れる範囲にあるのは、背の高い雑草の生い茂った原野。放置されて久しい空き地にしか見えない。

 あくびをしながらぶらぶらと歩き回っていると、崩れかけた小屋が見つかった。

 焦茶色の柱がF氏の胸の高さから真っ二つに割れており、屋根がそこに向けて傾斜して崩落している。何も嵌っていない窓から中を覗けば、これまた雑草が全てを覆い隠さんほどに生い茂っていた。

 ぐるりと小屋を回り見て、F氏は小屋の古さにそぐわないほど光沢のある蛇口を見つけた。

 金属は白色だと理科の教科書は言っていたが、その蛇口は教科書以上に金属のお手本のような質感だった。朽木のモノリスに据え付けられていた。


 F氏は場違いなそれに歩み寄った。あまりにも不自然にそこにあった。


(そういえば水筒持ってくんの忘れたな)


 出かけるにあたって水筒を用意していたにもかかわらず、そのボトルを家に忘れてしまったのだ。


(しくじったな。どこに置いたっけか)


 そう思いながら何の気なしにバルブを回してみる。

 すると、蛇口から薄い茶色の液体が流れ出してきた。


「んおっ?」


 回しても何も出てこないと、なんなら固くて回せないとすら思っていた。F氏は目を見張った。


「何これ? 錆びてんのかよ?」


 F氏は蛇口を閉めてその場を後にした。

 家に帰って水筒を確認すると、中身が中途半端に減っていた。


「あれ? いっぱいになるまで入れたよな」


 麦茶を沸かしたやかんから直接注いだ際、量を間違えて溢れさせてしまったのだ。


「おかしいな」


 そう呟くも、それきりF氏はそのことを忘れてしまった。


 一ヶ月後、F氏は改めて蛇口を発見した。


「ああ、そういえばこんなところにあったな」


 小屋も蛇口も、F氏の記憶からすっかり抜け落ちていた。

 ひと月も経てば記憶はすっかり下がり、過ごしやすい季節となっていた。吹く風はすっかり秋風で、一枚羽織ってくればよかったとF氏は後悔した。


(確か、錆びてたんだよな)


 F氏は蛇口に近付いた。

 見た目は新品そのもので、廃屋にあるには違和感が拭いきれない代物だった。


「綺麗な水くらい流れそうなもんだけどな」


 そう呟きながらF氏は蛇口を捻ってみた。すると、透明感のある無色の水が流れ始めた。


「あれ? 錆びてなかったっけ」


 記憶との相違。F氏は首を捻った。


 流れる水の勢いは弱くもなく強すぎもない。恐る恐る指先につけると、心地よい程度の冷たい感触。喉の渇きと好奇心が、その水に口をつけさせた。


「おいしい」


 F氏は茫然として呟いた。

 まるで山林の奥の清流から汲んできたような、澄み通った身体に染み渡る水だ。

 このような水がどうしてひとりでに出るのか、F氏はしげしげと蛇口を観察した。


 何の変哲もない蛇口だ。

 F氏は遠くから眺めてみたり、焦点が合わなくなるくらい近付いてみたり、叩いたり蹴ったりしてみた。


「ああっ! おじさん何やってんだよ!?」


 F氏は驚き数センチは飛び上がった。

 麦わら帽子。半袖のTシャツに短パンという、典型的な子どもがF氏を指差していた。


「壊れちゃったらどうすんだよ!」


 どうやら、F氏が蛇口に暴行を加えているのを咎めたらしかった。


「これ、コーラが出るんだぜ!」


 F氏の目の前で、少年は蛇口のバルブを回してみせた。透明感のある黒い液体が噴出する。勢い余って手に飛び散ったそれを舐めれば、確かにコーラの甘さだった。口の中を刺激するような炭酸までが残っていた。


「コーラ?」


 F氏は沈黙した。自分が回した時は水が流れた。それがいまはコーラをその口から注いでいる。その仕組みがわからなかった。


「コーラ、ね……」


 F氏は混乱し、思案げな表情を浮かべて沈黙した。

 少年がF氏の裾を引いた。


「おっさん。教えてやるよ! この蛇口、一日三回までなんだぜ!」

「おっ、おっ、そっ、そうっ、なんだ」


 久しく他人と話したことの無かったF氏の言葉はどもっていた。


「そう。この水道は俺たちだけの秘密な。約束だぞ?」


 言うや否や少年はどこかに行ってしまった。


 翌日から、F氏は考えた。

 コーラが飲めると言って少年はバルブを回し、コーラを得た。水が飲みたいと呻いて自分はバルブを回し、水を得た。


「試してみるか」


 コーラを飲みたい。

 そう思ってF氏はバルブを回してみた。

 コーラが流れ出てきた。


「言葉にする必要はないんだな」


 検証のようでなんとなく楽しかった。


「でもコーラなんかじゃシケてるよな」


 F氏はもうひとつ実験をしてみることにした。


「ビールが飲みてえなぁ」


 我ながら棒読みだと思いながらバルブを捻ってみた。

 途端、ビールサーバーのごとく注がれるビール。


「なんだこれ、すごいな」


 魔法の蛇口だ。

 F氏は興奮した。どうやら望んだものは何でも注がれるらしい。


「これはすげえな」


 バルブを閉め直してF氏は考えた。


 高々コーラや水くらいでウキウキしているのはバカらしい。

 何を望めば良いのか、F氏は寝食も忘れるほどに考えた。


「結局カネになるものだな」


 石油を望んでみたが、真っ黒な液体が出てくるだけで活用方法が分からなかった。精製が必要だ。F氏には専門知識も設備も欠けていた。

 純金を望んだところ、液体の状態の金がドロドロと流れ出てきた。それは、トレイの上で固まって、一枚の板となった。その時は興奮したが、冷静になってみるとこれをカネに変換する方法が分からないし、どこかに売ろうにも入手方法も怪しまれるかもしれない。財産になるからと、取り敢えず金庫の中に保管するにとどめた。


「完全万能栄養流動食、なんてもんで貯金は増える一方だけども」


 朝飲めば、一日中寝るまで腹を空かせることもなく過ごすことができる。

 地球上にあるわけがないものすら出てくる蛇口。

 まるで不可能はないように思われた。


 仕送りには飲み物を多く要求した。

 母親は二つ返事でそれを引き受けた。母は子どもに甘かった。F氏もまた母が大好きであった。


 そんな生活が続いたある日、携帯電話が騒がしく鳴った。

 F氏に電話をかけてくる人間などほとんどいない。親とですらメールが主で、突然電話をしてくることはない。


 緩慢な動作で電話をとった。


「……はい」

「Fさんですか? 警察です。お母様が……」


 交通事故。

 昏睡状態。


 言葉が一人歩きして頭の中を駆け回っていく。


 F氏は蒼白になった。

 ふらふらと実家に帰ってくる。誰も迎えてくれない、誰も帰ってこない建売の一軒家。寒々としたリビング。食洗機に残ったままの食器。洗濯物。丁寧に片付けられた自室。

 F氏は慟哭した。枯れ果てるまで声を出して泣いた。


 F氏は抜け殻のようになって田舎にある自宅に戻ってきた。

 家の処分はまた考えよう。誰かが住むか? 賃貸に出すのもいいな。親戚はとっくに亡くなった人の処遇を俎上に上げているように、F氏そっちのけで会合していた。


 もう一度会いたい。


 アルバムをめくる。母親の写真はほとんどなく、一番新しいものでも、十年前の写真のようだった。写真立ての中の母親は、F氏がここ数年見た覚えのないような笑顔だった。

 考えてみればここ数年、F氏は母親の笑顔のタネにはならなかった。いるのが当たり前になっていて、甘えるのも当然のようだった。


 お母さん。


 母親を強く想いながら、F氏は惰性的に生活を繰り返した。

 起きる。歯を磨き顔を洗う。漫然と動画を垂れ流し、眠たくなったら寝る。

 お腹が空いた。喉が渇いた。買い置きの食料は減っていく。

 まもなく、精も魂も擦り切れた。身体に入れるべきものが何もかも尽きて、F氏はまた、魔法の蛇口を求めた。


 蛇口は相変わらず新品のような金属光沢を放っていた。ステンレス様の筒。その上に取り付けられたバルブ。回していく時もF氏は母親のことを想っていた。


 グチャ、と肌色の液体が溢れるように流れて落ちた。所々に赤や黒っぽい何かやその他の色が混ざっている。鉄臭いにおいがのぼってくる。


「うっ、うっ……」


 F氏はふらふらとした足取りで後ずさりした。腰が抜け、尻餅をつく。

 F氏の目の前で、蛇口から注がれきったそれは、溶けて地面に広がった状態で固まった。押し潰した粘土のようで、およそ人の形をとってなどいなかった。


「……うっ、うおぉぉぉっっ!!」


 F氏は虚空に向かって吼えた。

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