DOLL
祖母が亡くなった。
最期は病院のベッドの上だった。もう長くないのは本人も分かっていたのだろう。穏やかな死に顔だった。
「おばあちゃん! おばあちゃん!」
まだ幼い妹が泣いていた。
祖母の遺品整理は、親族総出で行うこととなった。
祖母は物持ちが良く、箪笥や押し入れの中からは古いアルバムやら衣類やら、果ては父たちが子どもの頃遊んでいた玩具やらが発掘された。
「懐かしいわぁ」
叔母が引っ張り出してきたのは、少女の人形だった。50センチほどの頭身で、古いデザインのワンピースを着ていた。元は真っ白だったのだろう。年月の経過からは免れ得ず薄い灰色にも見える。それでも、シミひとつついていないのは、大切にされてきた証拠に思われた。
「小学生くらいまではこれで遊んでたと思うけどねぇ。まだあったのね」
軽く埃を叩いて、顔の高さまで持ち上げてしげしげと眺める。
「思い出したわ。お母さん、あたしが遊ばなくなってもこれをずっと手入れしてた! だから古いのにこんなに綺麗なのね」
ほおっと溜息をついて、叔母はためつすがめつ人形を眺めていた。
随分と執心しているなと無感動に横目で見ていると、叔母は突然に表情を凍り付かせた。錆びた機械のような動作でゆっくりと首を回し、私の視線に気づくと表情を無理やり平静に戻したようになった。そして、私たちに呼びかけた。
「これ、あげるわ」
そう言って叔母は私たち姉妹に人形を手渡した。
「やっぱり子ども用よね。貰ってあげてくれないかしら」
叔母の表情はぎこちなく、口調もどこかうわずっていた。さりとて、叔母は普段からこういう押しつけをしがちだったこともあり、要求自体は不思議とは思わなかった。
「いやいや……」
「ね、お願い」
子どもと言っても、私は人形遊びをする年齢でもないし、妹も困るだろう。
「叔母さんが引き取ればいいじゃないですか」
叔母はかぶりを振った。
「もうこれで遊ぶような歳じゃないし、うちは男の子だからね」
従兄弟はサッカー少年で、朝から晩まで外に出ないと落ち着かない気質らしい。
「じゃあ捨てれば」
「……ダメよ」
間髪入れず断られ、私は二の句が告げなかった。
妹は腕を動かしたり髪を引っ張ったりして遊んでいた。
「ほら、気に入ってるじゃない。ねっ?」
押し問答の末、なし崩し的に、私たちは人形を引き取ることになった。
他の荷物と一緒に車に詰め込まれる。疲れ果てて妹は後部座席で寝ていた。
「一日ありがとうね」
仕事終わりに迎えに来てくれた母親がフロントガラスを見つめながら言った。折りからの雨でライトをつけていても前が見えづらい。片側一車線の県道を車は市街へと向かっていた。
「引き取れるものは叔母さんが引き取ってったよ。うちで貰うのはそんなに多くなかった」
「そうなの」
「後で見繕って、リサイクルショップにでも持って行こうかなって」
「んー。それなら帰りに寄ってっちゃいましょうよ」
「開いてるかな」
「調べてみて」
私は携帯の検索エンジンを立ち上げた。
「……まだやってるみたい」
「それじゃあ決まりね」
車は俄かに進路を変更した。
リサイクルショップで、改めて引き取ってきたものを開けた。
「……うわぁ」
母親はゆるゆると首を振った。母の目にはどれもガラクタに見えたのだろう。何も言えないようだった。
「それでは査定させていただきます」
店員がダンボール箱からひとつひとつ物を取り出していく。私は、その内に、入れたはずの例の人形が入っていないことに気づいた。母親から車のキーを預かり、車の中を探すもどこにもない。妹はすやすやと寝息を立てていた。もちろん妹が持っていたとかいうことも無かった。
「おかしいなぁ」
私はぶるりと震えた。夜風が冷たかったせいでは無かった。
翌日、祖母の家に残っていた叔母から電話が入った。
「ちょっと! 人形引き取ってって言ったじゃない! 忘れていってるわよ?」
「え、本当ですか。すいません」
「もう、しっかりしてよ」
確かに詰めたはずなのだがと訝しみながら、私は叔母が持ってきたそれを玄関先で受け取った。
「やっぱり叔母さんが──」
「ごめんね。でもやっぱり気味が悪いし」
私は閉口した。何を言ってもきかないと思った。
「ね、お願い! 預かってて! 何も聞かないで!」
私の沈黙を、拒否と受け取ったのだろう。叔母は唐突に下手に出て、私に向けて手を合わせてきた。
伏せていた目を上げて叔母を見る。叔母の表情は見たこともないほどにこわばっていた。目は飛び出んばかりに見開き、口元はいびつに歪み、小さな汗を小虫のようにびっしりと顔にはりつかせている。ここまでしわくちゃな顔をしていたか。気圧されて私は僅かに後ずさりした。
「お願い! 思い出したの! それはダメなのよ!」
叔母の言葉はついに要領を得なくなった。私は折れた。
「わ、分かりました」
人形は小綺麗だったが、やはり不気味だった。
妹だけは、異様さを微塵も感じていないようだった。お気に入りというほど執着はしていないようで、適当に遊んでいる。
人形はある程度手足や首が動くらしい。フクロウみたいに首だけ真後ろにしたのが放置されていて、発見した時は血の気が引いて卒倒しかけた。
私は機を見ては人形を廃棄しようとしたが、努力は実らなかった。
家の裏で火を焚いてそこに人形を投げ入れた。黒い煙が細くたなびいた。これで大丈夫だろうと部屋に戻ると、人形は煤ひとつつかない状態で私の部屋の勉強机の上に腰掛けていた。
目を疑い、身の毛もよだつほどの恐怖に襲われた。
いい加減神社か何かに見てもらわないとと思い始めてきた。
そんなある日のことだ。
その日、私は妹が家のどこにもいないことに気づいた。
隠れているのかと思ったが、押し入れの中もソファの下にも戸棚の影にも姿はなかった。靴は妹のものも含めて全て残っていて、神隠しにでもあったように忽然と消えてしまっていた。
母と父に連絡した。
仕事人間のふたりだったが、すぐに飛んできてくれることになった。父に至っては、単身赴任先から新幹線を乗り継いで来るらしい。
ふたりを待つ間に改めて家中を探した。どうやら例の人形も無くなっていることに気がついて私は血の気がひいた。
母と合流し、いないことを確かめると、母は近所に聞き込みと捜索に向かった。これで見つからなかったら警察に行こうと思うわ、と母は言った。なるべく
父が帰ってきた。
慌てて来た様子で、カバンひとつだけ抱えていた。
私が状況を説明していると、電話が鳴った。叔母からだった。叔母が祖母の家を訪ねると、そこに妹がひとりいたらしい。
「今から行く」
父の運転で私たちは祖母の家に急行した。
妹は祖母の家の和室で、すやすやと眠りこけていた。
傍らには例の人形があった。
「おい、この人形って」
父は絶句した。そして叔母に向き直り、これをどこで見つけたんだ、と問いただした。
「お母さんが持っていたのよ! 遺品整理していたら出てきたの!」
「それでなんでお袋のものがここにあるんだ! お前が引き取らなかったのか!?」
あっという間に兄妹喧嘩が始まった。私はどうすることもできなかった。少し離れたところで、母に「見つかった。ケガとかはないみたい」と連絡した。
「パパ、叔母さん。何か知ってるの? いったいどういうことなの」
私はふたりに強い口調で質問した。
水を打ったようにふたりは黙り込み、どちらともなく顔を見合わせた。
重い口を開いたのは叔母だった。
「昔、これで遊んでいた時に、気づいたら遠くの、どこか分からない山奥の神社みたいなところにいたことがあるの」
昼間でも、山の中は木々が鬱蒼としていて薄暗かった。
神社はとっくに廃社になっていたようで、社務所らしき建物は暗くガラス戸は割れており、いかにも埃臭かった。
訳が分からなくなり、当時まだ幼かった叔母は人形を握りしめて泣き叫んだらしい。
地元の、山菜取りに来ていた団体が幼き日の叔母を見つけて駆け寄った。叔母は保護されて無事に家に帰った。
「きっとこの人形がダメなんだ」
祖母が断言して、方々に相談と処分を頼んだらしい。ある霊媒師は、この人形には何か悍ましいものが取り憑いていると言った。自分にはこれくらいしか無いと霊験灼か気なお札を貰ったが、いまひとつ効き目はなかった。しかし、人形は祖母の元を離れようとはせず、何度捨ててもまた祖母宅へ戻ってくるのを繰り返したという。
「お前は覚えてないだろうけどな」
父が苦々し気に言った。
「お前が行方不明になってすぐの頃だ。夢うつつなお前がお袋に向かってうわ言みたいに『気に入った。気に入った』って繰り返してたことがあったんだよ。お袋はそれ以来、浄めの塩と一緒に奥に仕舞って、絶対に開けないようにしてたらしい」
叔母は血相を変えた。
父の表情は硬く、私は強く唇を噛んでいた。
「……帰りましょう」
人形を仏間に置き、その周りに塩を撒き、思いつく限りの厄除けをして私たちは帰路に着いた。後部座席に運んでからも妹はずっと眠りの中だった。
既に辺りは暗くなっていた。
点在する街灯の明かりとヘッドライトだけが頼りだった。
車の中で、父も私も、一切言葉を発することができなかった。
「……うーん」
後部座席から曖昧な声が聞こえた。
「起きたか」
父がルームミラーをチラリと見て言った。妹が起きてきたらしい。
妹はゆっくりとした動作で助手席に座る私の真後ろに回った。運転席の間から顔を覗かせる。「危ないから座っていなさい」と父が嗜めた。
私は右後ろを振り返った。妹の焦点の合っていない目とぶつかった。
「……どうしたの」
「キニイッタ」
妹の声は言った。聞き間違いでは無かった。父が動揺してハンドル操作を誤り、車体が左右に揺れた。
妹は私の足元を指差した。足を動かすと、何かを蹴った感触がした。
恐る恐る身をかがめて覗く。祖母の家に置いてきたはずの人形が、爪先から私を見上げるような位置で座っていた。
私は喉が詰まったような悲鳴をあげた。
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