CARNNIVALISM
まだ早い時間だったが、既に夕闇が空を覆おうとしていた。
C氏は町の入り口に立ち、額の汗を拭った。最寄りの停留所から一時間は歩いただろう。
向かいたかった街とこの町は名前の綴りが似ていて、書き写した時に間違えてしまった。乗車場でチケットを所望した時、間違えないように筆談を用いたのが却って仇となった。気付いた時には既に帰りのバスは無く、C氏は激しく後悔した。
C氏はバックパッカーだった。大学の長期休みを利用し、海外をあちこち見て回ろうとしていたのだ。
町は中世の城塞都市の性格を色濃く残していた。石造りの壁が町をぐるりと囲み、入り口はC氏が着いたここひとつしか無い。そして町も盆地の中にあり、山に囲まれている。この辺りには珍しく岩と砂の荒野で、乾燥していて埃っぽい。赤い大地が山肌まで続いていて、僅かに舗装された道路が山の隙間を縫うように続いていた。
バスが来れない訳だとC氏は納得した。自動車の類は町外れにまとめて停められている。恐らく住人のものだろう。
折角訪ねたのだからとカメラに景色を収め、C氏は町の門を潜った。石畳の通りが疲れた足に辛い。早く宿を探さなくてはとC氏は辺りを見回した。
町全体がどことなく華やいでいた。
建物の軒先には、ランプのようなものが吊り下げられていて、柔らかい橙の光を灯している。建物の間を渡すようにかけられたロープには、色とりどりの三角形の飾りが下げられていて、目に楽しい。町行く人の衣装はどこか伝統的で、華美では無いがハレの日であることを容易に理解させた。
C氏は手近な人に声を掛け、宿の場所を訊いた。
教えられた宿は大通りから一本外れたところにあり、ホテルというかは民宿と呼ぶに相応しく思われた。
「お客さん、観光?」
突然の客に迷惑な顔ひとつせず、若い娘は宿帳を差し出した。
「この町にはここしか宿が無いの。小さなところで申し訳ないわね」
娘が言うように鄙びてはいたが、海外の宿にしては清掃が行き届いていて、部屋もベッドもしっかりとしていた。
「シャワーは5分で止まるから気をつけてね」
荒野からも察せられるように、どうも水不足な土地らしい。
「小さな町だけど、随分活気があるよね」
C氏は窓を開放して肺いっぱいに空気を吸った。C氏には旅先で決まって深呼吸をする癖があった。町の雰囲気という意味での空気感をも、全身で取り込んでいる感じがあったからだ。
「今日は
「カーニバル?」
C氏の頭に、仮想して練り歩き踊る人々の姿が浮かんだ。
「踊ったりもするのかい?」
「ええ。本番は明日だけれど」
そこまで会話して、娘は醒めたように目を丸くして手を叩いた。
「ね、お客さん。町を案内してあげる」
「本当に? 宿は大丈夫?」
「大丈夫よ。お客さんはあなただけだから」
娘は快活に笑って、上目にC氏を見上げた。
「だから、あなたの話も聞かせてよ」
娘に引かれ、C氏は荷解きもそこそこに町へ繰り出した。
ひとたび外に出れば、甘い匂いとスパイスの匂いが同時に襲ってくる。
「普段は砂糖なんて使わないのだけど」
串刺しのケーキが売っていて、娘がそれに視線を注いでいたから、C氏は自分と娘の分をひとつずつ購入した。
「あ、ありがとう」
少し顔を赤らめて、娘はケーキを受け取った。
「団子っていう、似たようなお菓子があるんだ」
「団子?」
「そう。米粉を捏ねて丸めたお菓子。竹串に刺すんだ」
「
「そう。それにタレをつけたり、餡をかけたり、焼いたり揚げたりするんだよ」
「とても美味しそうね」
ここじゃ
娘はそう嘆息した。
「生まれた時からずっとこの町に暮らしているの?」
「そうよ。17年間ずっとね。町の壁の外にも殆ど出ることは無いわ。年に数回かしら」
「そんなに?」
随分と閉鎖的な生活を送っているものだとC氏は吃驚した。
「何もない町だから、早く出ていきたいの。都会を見てみたい。森林の空気を胸いっぱいに吸い込みたい。アスファルトを歩いてみたい。飛行機に乗ってみたい」
「夢が膨らむね」
「ええ。でも元手が足りないからここで稼がないとね。お客さん、明日も泊まっていってよ。明日は
娘は悪戯な笑顔を浮かべてみせた。
勧めに従って、C氏は宿にもう一泊することにした。
満月が空に昇る頃、娘とC氏は連れ立って宿に戻った。コンソメらしき匂いが漂っていた。
「食事の用意はできているらしいわね」
娘は鼻をひくつかせてそう言うと、「あっちの部屋で待ってて」と言い残して奥に消えてしまった。
指された部屋は食堂だった。
適当な席に腰掛けて待っていると、まもなく中年の男性が人の良さそうな笑みを浮かべてやってきた。
「いらっしゃい。何もない町だけど、ゆっくりしていってくださいね」
どうやら宿の主人らしい。
「娘が連れ回したそうで、どうもすいませんでした」
「いえいえ、楽しかったですよ」
「それはよかったです。料理をお持ちしても?」
「はい。お願いします」
運ばれてくる料理はポトフやキッシュなどで、手の込んだ家庭料理という印象を与えた。
「おいしいです」
C氏は心の底からそう言った。
さりとて屋台で膨れた腹に、宿の主人が供するディナーは少々苦しかった。
「良い時期に来ましたね。何しろいまは
主人はでっぷりと出た腹をさすりさすり言った。つなぎの肩紐の余裕が心配になった。
「娘さんが踊りをされるそうで」
「お聞きになりましたか。親としてはたいへん喜んでいますし、緊張もしているんです」
取り出したハンカチで汗を拭きながら主人は言った。
「この町では皆が踊るわけではないんです。選ばれた人間だけが舞台の上で踊るんです。これはたいへん名誉なことでしてね。本人はすごくリラックスしているんですが、却って私の方が緊張してきちゃいましてね。送り出す親の身にもなってほしいものです」
ハハハ、と笑い飛ばしてみせて、主人は皿を片付けていった。
食事を終えたC氏は部屋に戻り、町のさざめきに耳を傾けた。
祭りの夜は、静まり返っていてもどこか騒がしさがある。当初の予定ではこの町には来ることはなかったが、失敗から幸が生まれることもあるのだなと、C氏は満ちた心地になった。
朝、身支度を終えたC氏がロビーに降りると、ちょうど宿の娘が出ていくところだった。白いブラウスに色とりどりの刺繍が施されたロングスカート、大判のショールを身に纏っていた。当地の民族衣装のようだった。
「あら、お客さん。おはよう」
「やあ、おはよう」
「朝の用意はできていると思うけど、お父さんかお母さんに声をかけてくれる? 裏にいると思うわ」
「分かった、ありがとう。お祭り、頑張って。見に行かせてもらうよ」
「楽しみにしててね。正午から町の真ん中の特設ステージだから」
娘は手を振って出ていった。
見送り、C氏は宿の主人を探した。宿の裏手で衣類を干している女性を見つけた。娘の言っていた「お母さん」、つまり宿の女将だろう。
「ああ、お客さんね。挨拶もせずにすいませんね」
「いえ、それは全然良いのですが」
目鼻立ちが娘にそっくりだった。確実に親子なのだなと実感した。
「食事の用意はできておりますので」
「ありがとうございます」
案内されながら、C氏は何気なく話を振った。
「娘さんが踊られるそうですね」
「ええ。聞きましたか」
「さっき宿の入り口で会いました。楽しそうに見えましたよ」
「そうですね。あの子は今日を心待ちにしていたようです。お客さんも最後まで楽しんでらしてくださいね」
「はい。ぜひそうします」
「では夕食と明日の朝食の際は、お部屋までお呼びしますね」
「分かりました」
成り行きで明日までこの町に残ることになった。C氏の想定していないところだった。
しかし、大した問題は無いと思われた。
明日の朝、この町を発てば良いだけのことだ。
朝食を終えたC氏は、宿にいても仕方がないと外に出た。
町の真ん中の特設ステージとやらは目下急ピッチで設営中だった。喋っている言葉は聞き取れないが、大勢の人間が間に合わせようと作業を進めているのが分かった。
「邪魔になるかな」
ひとりごちて、C氏は会場を離れた。
町を取り囲む壁まで戻り、それからそこに沿って歩くと、小さな教会があるのが目に入った。
神父が入り口でタバコをふかしていた。
「……見ない顔だな」
ジロリと睨みつけられる。
「観光に来まして」
面食らいながらもC氏は努めてにこやかに挨拶した。
「ふん。趣味が悪いことだ」
神父は鼻を鳴らした。
神職というよりは職人のような雰囲気だった。頑固親父、という言葉が連想された。
「見たところこちらの教会の神父のようですが」
「ああ。そうだよ。代々そうだ」
「礼拝していっても?」
「勝手にしな」
お礼を言って、C氏は教会の中に入った。
教会は清掃こそ一通りされていたが、それでもなお埃っぽく薄暗かった。
海外によくある十字架と祭壇。しかし見慣れない神像まで飾られているのが気になった。主役のように真正面に鎮座している。
神像に祈りをして、C氏は退出した。
町の中心部が相変わらずざわめいていた。
「今日は
C氏は何気なく神父に話しかけた。
「……最終日、クライマックスの日だ」
やや間があって、神父は答えた。
「泊まっている宿の娘さんが、踊りをされるそうです。神父様は見に行かれないのですか?」
途端、落ち窪んだ両目がC氏を見上げた。C氏は射竦められるように感じた。
「…………行かねえよ」
「そうなんですね」
それ以上話しかけるなという雰囲気を感じ、C氏は押し黙って身じろぎした。居心地が悪かったが、足が動かず立ち去ることもできなかった。
「あら、おはようございます」
場違いにおっとりとした声がかけられた。
老婦人がゆっくりとこちらに歩いてきていた。
「……旅の方?」
「はい、そうです」
老婦人は神父とC氏を交互に見つめた。そして何かを悟ったようで溜息をつく。
「全く……旅の方に何か失礼なことを言ったんでしょう?」
返事の代わりに、神父は新たなタバコに火をつけて加えた。大義そうに煙を吐き出す。
「ごめんなさいね、旅の方。神父にはひとり娘がいたんだけど、10年ほど前の
「12年だ」
「ああ、そうだったわね」
老婦人はC氏に向き直った。
「それできっと、
神父は苦々しい表情のままで、肯定も否定もしなかった。
「そうだったんですね。失礼な言動について謝ります」
C氏の謝罪に、神父は曖昧に頷き、言った。
「今更娘は帰ってこねえよ。気分悪ぃ。とっとと行っちまいな」
「……行きましょうか」
老婦人に促されるようにして、C氏はその場を離れた。
「悪かったわね。彼があんなに邪険で」
「いえ、心中察するにあまりあります」
「教会も彼の代で終わるわね」
「それは神父様があんな態度だからですか?」
「それもあるけど、それだけじゃないわ。実を言うとね、この町の人はもう教会を必要としていないの」
「……確かに、教会自体活気があるようには思えませんでした」
「そうね。元々私たちは、この土地の土着の神様を信仰していた。
でも、いまの時代は、特に
広場に近付くにつれて、歓声のような喝采のような音が近付いてくる。
既に始まっているようだ。三拍子の音楽が遠鳴りしている。
「ほら、踊っているわよ」
群衆が囲むステージの上で、宿の娘は舞っていた。
踊りといっても、動きはゆったりとしている。三拍子を一拍と数えて彼女は回る。ステップを踏む。跳ねる。襟紐が空を切り朱の軌跡を残した。玉の汗が光って見えた気がした。
綺麗だった。
夢でも見ているのかと思った。
万雷の拍手と歓声がC氏の目を覚ました。
娘は既にステージの袖へ引っ込んでいるところだった。
「これからお清めがあるの。
「宗教的なイベントなんですね」
老婦人は意外なことを告げられたように目を丸くして、それから唇に笑みを浮かべた。
「ええ。でも私たちにとってはただの日常よ。ちょっと特別で、年に一度しかないけれどね」
その晩は随分と豪奢な料理が提供された。
メインディッシュはローストビーフ。キメが細かく、口に入れると味付けのせいか少し変わった味がした。
「ローストビーフ、絶品ですね。よければおかわりが欲しいんですが」
お世辞抜きにしてC氏は捲し立てた。頬が落ちるかと思った。
「いえいえ、ビーフじゃありません」
主人は何か食材の名前を言ったようだが、C氏の耳には聞き取れなかった。主人は苦笑を交えて、別の言葉で言い直した。曰く、アマスタンの
「この時期にしか食べられない貴重な料理なんですよ。食材が限られててこの一皿だけなんですがね。特別サービスですよ」
「美味しかったです。ありがとうございます」
宿の主人は朗らかに言った。
「娘が『ぜひ旅人にも』と言うのでね」
「そうなんですか。貴重な経験をさせていただきました。娘さんは? まだ帰ってきていないんですか?」
「ええ。家には帰ってないですね」
「そうなんですね」
C氏は心行くまでその日の夕食を堪能した。
朝になっても、チェックアウトの際まで、C氏は娘に会わなかった。
「よかったらこれ、郷里で食べてください」
立ち去る時、見送りの主人夫妻からC氏は袋を渡された。
「これは?」
「昨日の肉、大層気に入られたようでしたから。その肉で作った腸詰になります」
「わあ。ありがとうございます。嬉しいです」
C氏は感動して袋を胸に押し抱いた。
「また来てくださいね」
「ええ。きっと」
C氏は二人の姿が見えなくなるまで大きく手を振った。
最寄りのバス停には、歩いて半時間ほどだった。C氏の他にはもう一人、中年の農夫然とした男がバスを待っていた。
「よお。東洋人か? 珍しいこともあるもんだ」
「こんにちは。ええ。旅行中なんです」
「こんな片田舎に。昨日まではどこにいたんだ?」
C氏が町の名前を告げると、男は一瞬目を丸くし、それから憎しみがこもったような表情で恐る恐るC氏に尋ねた。
「き、昨日まであそこは
「ええ、そうでしたよ」
C氏は間違えてあの町を訪ねたこと、つい二泊してしまった居心地の良さなどを詳らかにした。
話すうちに、農夫の顔つきが微妙なものに変化していくのが分かった。話の区切りを待って、農夫はその訳を明かした。
「あの町の
C氏の脳裏に、神父と老婦人との会話が蘇った。
──ごめんなさいね、旅の方。神父にはひとり娘がいたんだけど、10年ほど前の
「元々、あの町は動物も植物もいない不毛の土地だ。しかも土着の怪しげな宗教が残っているって噂ももっぱらだ。邪神だの生贄だの。俺たちはあの町に寄り付かねえ。みんなして不気味だからだ。──なあ、あんた。あの町で何を見聞きした? 何を話した? 何を食った? その提げた袋の中身はなんなんだ?」
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