深夜高速

@hamyanen

ある男

ハンドルを握ると、肩が酷く重い。こんな些細な自らの変化に気付くことすら、今は鬱陶しい。日の出までに、目的地に着かねばならない。私は焦っていた。

深夜三時。首都高速は、注意深く運転するにはちと眩しすぎる。通るたびに思うことだ。

右合流。躊躇い、しかし慎重にアクセルを踏む。ため息が出る。心と体は、いまだ連動していないようだ。

いつからそうなってしまったのだろう。幼少期。体を動かすことは好きだった。頭であれこれと考えるよりも、まず外に出て、友人と遊んだ。夕方になると、空腹のままに母が作ってくれた飯を食い、睡魔に任せて布団にもぐりこんだ。一日は、あっと言う間に終わった。

近所の森に秘密基地を作った記憶が、ダムの放流みたいに脳内にどうと溢れ出す。あの頃、ルールから外れた遊びをするのが、ある種のステータスのように思えていた。それは私だけではなく、平凡な級友、なぜか大人びて見えた上級生、皆がそうだった。教室という狭い世界において、持てるアイデンティティなどしれたもの。人とは違うことをするということは、私達のような臆病者にも手にしやすいお手軽な自己表現だったのだ。

立ち入り禁止の札をかける、縞虎模様のロープをくすね、身一つでは上がることが困難な高い木に括り付けた。それをつたい、木に上って腰掛け、いつも見ている街並みをほんの少し見下ろしながら、駄菓子屋で盗ったなんてことのない駄菓子を食べた。あの瞬間、私は今の私への一歩を踏み出したのだろう。

対向車線のハイビームの強い光で、我に返る。目の前に車のナンバープレート。思わず舌打ちした。私は、変わらず臆病者だ。


八王子から中央道に入り、用を足すためすぐのSAに寄る。腹はかなり空いていたが、何も口にはしない。食堂で無料の水を一杯だけ口にすると、喫煙所へ向かった。

煙草を吸いだしたのは、高校受験に失敗したときからだったと記憶している。そのころになると、平凡な級友達は、知らぬ間に平凡では無くなった。人と違うことをすることは、明確な転換点もなく、力と光を失っていた。

平凡なままの私は、人が吸わぬ煙草を吸った。私の中で、人が好んで行わないことは、鈍くなったもののまだ輝きを放っていた。

人と違う私から、アイデンティティは失われ、同じような恰好をし始めた人々は、光など到底放つはずもない、ペラペラのゼッケンを四苦八苦して手に入れた。

その時の私は、自らが立っている場所がレースのスタート地点だとは、全く認識していなかった。人々が同じ格好をし出したのは、それに参加するためだったということも。



SAから本線に戻る。すでに深夜四時を回っていた。想定していたより、交通量が多い。運送のトラックがほとんどだが、稀に私と同じ普通車が追い越し車線を走り去っていく。こんな夜更けにここを走る彼らは普段、何をして、何を考えているのだろう。

それを想像することは、私の、ともするとこぼれ落ちていくサラサラとした砂の様な気持ちに水を差す。水を差された砂は泥になり、鈍く、強固な塊とすることが出来る。

そうなるまで、あと少しだという気がした。

 

なんとかスタートを切った男は、大学へ進学した。そして、平凡という景色、それは努力という地盤の上にある荒れた道をならすことでようやく見えてくる地平であり、また己がその道に至る分岐に訪れていないことを知った。並走する者がなく、気付くと周回遅れだった。一人の私は愚かな自分を、必要以上に慈しむことで、レースを続行した。

大学はそんな周回遅れの者に、無責任に優しかった。今思えばあれは、人から分け与えられる段階をとうに過ぎていたが故の優しさだったが、自らを愚鈍でないと思っていた愚鈍な男に、その識別は難しい。こまめにある給水が、他の者と違って泥水であることにも気づかず、見かける度に立ち止まって飲み、分岐の度に平坦な道が提示され、迷わず私はそちらを選んだ。その先に見えるのは、現在の私。着実に、一歩ずつ、近づいていく。



山梨県に入ったことを看板で知る。深夜の高速もまた、無責任に優しい。それを見る人々がどんな想いを抱えて車を走らせていようと、そこに佇み、光り、道を示す。そんな無機質さが、今は愛おしい。



動きを止めたままでは、生きるものも生きられない。レースから脱落して始めて、地盤の無い足下が沈んでいることを分かった男は、ようやく全力でもがき始めた。足が動かないので這って進み、息が続かないのでしょっちゅう路肩で休みはしたが、とにかく前に進んだ。


ゴールが見えてくる。どんな道にも、終わりがある。私の気持ちは、湿り気を帯び、黒く重く強固だ。


随分遠くなった、久しい人の影。無機質で眩しい深夜の高速で、少しでも距離を縮めることが出来ただろうか。スタート地点に、戻ってこられただろうか。

高速を降りて、森に入る。車を止め、立ち入り禁止の看板の縞虎模様のロープをちぎって盗る。この手のロープが荷重に強いのは、ずっと前から知っていることだ。


這いずり回って傷だらけの男が進んだ先に、光はなかった。人と違うことはもはや悪だった。途中飲んだ泥水は、体を蝕んだ。たまに出会う人に与えられるものは、罵詈雑言や暴力だった。思わず立ち止まった私の足元には、地盤が無かった。路肩で休んでしていた息継ぎは、沈み切ってしまってはもうできなかった。

 

会社から逃げ出し、起業した。倒産し、借金だけが残った。大学を中退し、何の資格も無い私にあるのは、泥水で侵された体のみ。


夜が明けてしまっては、いくら山奥とはいえ人目があるかもしれない。日の出前に着けて良かった。三日何も口にしていないし、用も足した。汚す心配もないだろう。


身一つで上がるのが困難な木でもロープを括り付ければ、上れる。あの頃より高く感じられる街並みを見下ろした。


随分回り道をしたが、私はついにスタート地点に、戻ってきたのだ。私はもう、臆病者ではない。










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