第19話 アカデミック・ストレス③

鉄道警察あっちは何て言ってきたんだ?」


 ニコラス・ロマーノが拘束された経緯をセバスティアーノが報告した。

「彼は早朝発のローマ行き各駅停車に乗っていた。切符を見せようとせず、挙動がおかしかったんで、警察が呼ばれたんです」


「挙動がおかしいって?」

「服に血がついていて、座席で意味不明なことをつぶやいていたとか」

「血?」

「乗り込んできた警官に降りろと言われたとたん、ホームを走って逃げようとした。逃走をはかった理由や目的地については一切口を割らない。事件との関係があると思いますか?」


 ジャンニは大学院生が血のついた服で逃げ出した理由を考えた。


「教授の頭に鈍器をお見舞いしたのがニコラスだったなら、研究発表会で動揺してたってのは納得できるよ。でも動機が分からないな。研究のストレスを抱えてたらしいけど、それだけじゃなさそうだし」


 鉄道警察にはニコラスの移送を依頼してある。時刻は夕方の5時、渋滞がなければ到着する頃だった。令状をとる手間をかけずに重要参考人がデリバリーされてくるというのはいいものだ。


「すでに無賃乗車でとっつかまってたんだな。捜索もかけてないのに、どうりでと思ったよ。『えっ、もう?』なんてセリフ、この前に言ったのはいつかなあ。なんせ言われるばっかりなもんで」


 事件現場の街頭監視カメラでは、捜査に役立ちそうな映像は確認できなかった。


「〈フローレンス〉の防犯カメラの録画も届いてますよ」


 ディスプレイの映像はハンバーガー屋の店内に切り替わった。左上の時刻表示は22時16分。ちょうどジャンニが店に立ち寄った時間だ。天井に設置された広角レンズのカメラが、鉄板で肉を焼くケイシーと、カウンターにもたれるジャンニ・モレッリ警部の姿を捉えている。


「そこは飛ばしてよろしい。薄くなった頭のてっぺんを見せられるとな、なんかこう、悲しくなってくるんだよ」


 再生速度が調整された。ジャンニが早送りで出て行き、若者の集団が来てチキンや飲み物を買った。彼らもすぐに姿を消した。


「この後です」


 スイングドアから2人の男が入ってきた。ひとりは黒っぽい上着にジーンズ。もうひとりの大柄な男は背中に白いロゴが入った赤いジャンパー。ケイシーの証言通り、どちらもフルフェイスのヘルメットをかぶっている。


 時刻表示は23時25分。大柄な男がカウンターに近づき、リボルバーを出した。


「ケイシーはおもちゃの銃を突き付けられたって言ってたよ」

「本物の銃かどうかは、この状況じゃ見分けられないと思います。すぐ分かるモデルガンで強盗をやるやつはいるけど、これは違う」


 ケイシーが強盗に飛びかかった。揉み合いは数秒で終わった。彼が壁に叩きつけられて床に倒れたところで、ジャンニは画面を指さした。


「待った。今のとこを戻せ……おっと、戻りすぎだ。……すまん、今度は行き過ぎた。そう、そこだ」


 映像が停止した。ケイシーの手が強盗犯の腕をつかんだ瞬間だった。ジャンパーの袖が引っ張られ、肌が露わになっている。


「ここを拡大してくれ」


 ギザギザの大きな尻尾をもつ、黄色いネズミに似たキャラクターがまん丸の黒い目を向けてきた。強盗犯の左手首に彫られたタトゥーだった。愛嬌のある笑顔は、暴力的な場面に似つかわしくない。


「入れ墨屋ってのは客に何を彫ったか覚えてるもんかね?」

「名前や連絡先といっしょに記録しておくと思うけど、特定は難しいかもしれない。ありふれたデザインだし」


 セバスティアーノは唇をへの字に曲げた。


「息子がときどき着させられてますよ、これの着ぐるみ」

「もう1歳だっけ?」

「8カ月です」

「そのくらいなら可愛いけど、こんなキャラクターを腕に入れ墨する大人の男は珍しいよ。科捜に頼んで、この部分を拡大した静止画を作ってもらえ。明日でいいぞ、これから大学教授の頭をかち割った秀才坊やにお目通り願うんだから」


 このゴミ集積場みたいな机を片づけるのも明日でいいと言ってくれないだろうか? とミケランジェロは思った。ジャンニに捜査資料の整理を任されたのだが、古い書類やゴシップ雑誌が際限なく出てきて終わりが見えない。

 上司に恵まれない、とジャンニは大学の講師に言ったが、どうやらそれは自分にもあてはまるようだ。


 スマートフォンの画面に通知メッセージが現れた。アプリを開くと、あのひとの新しい投稿が目に入った。


 体の線がくっきり浮かびあがる黒いエナメルのスーツ。頭に猫耳のカチューシャ。右手に持った革製の鞭をしならせ、女はいたずらっぽい目をカメラに向けていた。



アレッサンドラ@人妻

「勤務中にインスタを見ちゃったの? じゃあ、お仕置きしないとね」

いいね! 25,122件



 すぐ近くで内線の呼び出し音が鳴り響き、ミケランジェロは驚いて飛び上がった。受話器はピザの空箱に埋もれていた。応答し、電話の内容をジャンニに伝えた。


「アレッツォから車が着いたそうです」

「おいでなすったな。こちらにお通しするよう言ってくれ」

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