第18話 アカデミック・ストレス②

 ぐうと腹が鳴り、ジャンニはハンバーガー屋の〈フローレンス〉を思い出した。ケイシーの見舞いに行ってやらないといけない。


 研究室の壁には写真が飾ってあった。アルミ製の額に入った記念写真だ。背広姿のフランコ・ディ・カプア教授がトロフィーを持ち、十数人の学生に囲まれている。研究プロジェクトの受賞を記念して撮影されたものと思われた。


 ジャンニはそこにマヤ・フリゾーニの姿を見つけた。


「ディ・カプア教授が学生と恋愛関係にあったのはご存じで?」


 コスタは曖昧にうなずいた。


「ええ、まあ……」

「学生と関係をもつことで、彼は職を失う危険があったんじゃないですか?」

「不適切と判断されれば、その可能性もあったでしょう。しかし、大学がどう対処したかは正直なところ、私には答えようがない」


 誰もいないことを確かめるようにコスタ教授は廊下を見やり、再び口を開いた。


「さっきは彼が犯罪に巻き込まれる理由に思いあたらないと言いましたが……ひとつ気になったことがあって」

「どんな?」

「少し前、ディ・カプアが携帯で話しているのを見たんです。彼は電話相手にこう言っていました。お前は誰だ、と」


 お前は誰だ?


「ほかにはなんて?」

「何も。私が見ているのに気づいて、すぐに電話を切りました」

「個人的な会話なら、誰でも人に聞かれたくはないもんだ」

「でも、何も言わずに切るのは変じゃないでしょうか」

「通話の相手に心当たりは?」

「ありません。たぶん、なんでもないことだったんでしょう。妙だと私が思っただけで」


 *


 ジャンニは旧市街の病院に向かった。ケイシーは強盗犯と格闘し、軽い脳震盪を起こして救急搬送された。担当の医師によれば検査で異常はみられず、数日で退院できる見込み。


「やあ、ケイシー、大変だったな。頭をぶつけて店の壁に穴を開けちまったって?」


 小柄なフィリピン人は病室で身を起こしていた。絆創膏が貼られた額をなでる。


「みっともないことになって恥ずかしいっすよ。まだ頭がぼんやりするんです」

「やった野郎は必ずパクる。できるだけ詳しく話してくれ。どんな連中だった」

「2人組でした。フルフェイスのヘルメットをかぶってました。店に入ってきて、おもちゃのピストルを突きつけてきたんです」

「イタリア人だったか? 外国人か?」

「分からないっす。ヘルメットのせいで声がくぐもってたし、おれも必死だったんで。逃がすもんかと思って……あ、こうしちゃいられない」

 ケイシーは上掛けをどけて床に足を降ろした。

「空港に行かないと。12時の飛行機に乗るんですよ」


 そんな時間はとっくに過ぎているのだが、病院着のまま廊下に出て行く男をジャンニは慌てて追いかけた。


「ケイシー、姪御さんの結婚式はな、あんたが治るまで延期になったそうだよ。だから心配しないで安静にするんだ」


 ジャンニの電話が鳴った。警察署からかけてきたセバスティアーノだった。


「このニコラス・ロマーノという学生は殺人に関与してるんですか?」

「事件の日から連絡がとれないらしいんだよ。居所をつかんでおきたい。調べて何か分かったかい?」

「32歳で、前科や問題行動の記録はありません。居所は分かりました。アレッツォの駅で鉄道警察に拘束されてます」


 アレッツォはフィレンツェから各駅停車で1時間ほどの街だ。ジャンニは看護師といっしょにフィリピン人をベッドへ連れ戻そうとしていたが、思わずその場に立ち止まった。


「ほんとか?」

「間違いないですよ」

「けど、まだ捜索の指示も出してなかったぞ。どうしてそんなことになった?」

「切符を持たずに列車に乗って、検札係に見つかったらしいです」


 ジャンニは妙に思った。列車内で有効な切符を所持していなかったとしても、普通は罰金を払わせられるか、次の駅で蹴り出されるかですむ。身柄を拘束とはどういうことなのか。

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