第20話 アカデミック・ストレス④
ニコラス・ロマーノは32歳という年齢より若く見えた。黒縁の眼鏡をかけ、丸めたスーパーのレジ袋を握りしめている。
「なんだ、そのレジ袋?」
「鉄道警察の署員が持たせたらしいです。車の中を汚されないように」
「頭がまだガンガンして……車ってどうも苦手で……うっ」
見るからに具合の悪そうな顔で、ニコラス青年は袋をひろげた。
「おいおいおい、勘弁してくれ」
酒臭さが鼻をつき、ジャンニは思わず椅子ごと後ろに下がった。
「どこでどれだけ飲んだ?」
「パブで、朝まで……。4杯目までは覚えてます。酔っ払って潰れてやろうと思って」
「それは、罪の意識ってやつのせいかな?」
「分かりません。どうしてあんなことをしてしまったのか……」
「どこまで行くつもりだった? たいして遠くへ逃げられないのは分かってただろ」
「なぜ列車に乗ったのか覚えてないんです。地元に帰りたかったのかもしれません」
「だけど、帰れなかった。降ろされて、線路を走って逃げようとしたんだって?」
「怖くなって、つい……すみませんでした」
ニコラスはリュックサックを下ろして床に置いた。小さな血の斑点がついたシャツは脱がされ、靴といっしょに証拠品として科学捜査課に送られた。今は代わりのトレーナーとスリッパを与えられている。
「研究者なんか目指さなければよかった。母は、ぼくなら医者や弁護士になれたって言います。そして今頃は安定した職に就いていた、と。自分もそう思います。学術の世界なんて向いてなかったんです」
「おれも、この職が向いてないんじゃないかと思う時がある。そうだな、彫金職人にでもなればよかった。観光客が来ない、どっかの路地にある薄汚い工房で、仕事はぜんぶ弟子に任せて一日中エロ本でも読んでいたかった」
「地元の友達はもう、みんな独立しています。いまだに親の仕送りで暮らしているのなんて自分くらいだ」
「おれは仕送りで暮らしたいな。お巡りの給料なんて、しけたもんでね。そろそろ教えてくれ。どうしてだ?」
「どうしてって……なんの話でしょうか」
「あんたがフランコ・ディ・カプア教授にしたことだ」
「申し訳ないと思っています」
「よく言ってくれた。ご婦人のお尻を触ったり貧相な一物を開陳したりして連行されてくる変態がみんなあんたみたいに素直なら、おれも毎日早く家に帰れるのに。ついカッとなったってやつかな?」
ニコラスは眼鏡をはずした。左手の親指に血のにじんだ絆創膏が巻かれている。
「研究テーマの発表がうまくいかなかったんです。カッとなったというか、やけくそになって……いろんなことから逃げ出したくて、ふらっと列車に乗ってしまったんだと思います」
ニコラスは教授の殺害ではなく、鉄道の無賃乗車について話しているようだった。
「自分がここにいる理由は分かってるだろ?」
「切符を買わなかったからです」
「ニコラス、ここは殺人課だ。ディ・カプア教授の件だ。遺体が見つかったんだよ」
「遺体……?」
ぽかんと見返す青年の表情は、演技にしては上手いと言えるものだった。
「教授が亡くなったんですか? それは……知らなかった」
「服に血がついてたのはどうしてだ?」
「昨日、包丁で指を切ったんです。ぼくはいつだってこうだ。料理さえまともにできないんだ」
「それはイタリア語の辞書を見てから言うこった。ジャンニ・モレッリ警部の料理が犯罪として定義されてる」
言いながらも、ジャンニは不機嫌になっていった。シャツの血痕は返り血を浴びたにしては少なすぎる。ニコラスが犯人だと期待するのは早計だったかもしれない。
フランコ・ディ・カプアは午後3時過ぎに知人と通話し、コスタ教授からの午後6時半頃の電話にはもう出なかった。
「あんたは火曜日の6時からの研究発表会に出席した。それまでの時間はどこにいた?」
「大学の図書館にいました。書庫にいたら時間を忘れてしまって、気付いたら6時近かったんです。大急ぎで発表会に向かいました」
「どうして教授に申し訳ないと思うんだ?」
「それは期待に応えられなかったからだ!」
ニコラスはいきなり立ちあがった。レジ袋が床に落ちた。
「この3年間は無駄だった。発表会でいろいろ指摘されました。要するに、ぼくの研究はトイレットペーパー以下だそうです。論旨を明確にするために読むべき文献を30冊紹介されました。もう執筆にかからないといけないのに30冊! 博論はたぶん期日に提出できません。奨学金も打ち切られてしまうし、もうどうしたら……」
急に立ったのがよくなかったらしい。もともと青白かった顔から血の気が引いた。
「うっ」
ミケランジェロがとっさにレジ袋を拾って差し出した。
しかし、間に合わなかった。
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