第53話 植え込みの中の電話
赤いハイヒールが片方、脱げて転がり、カメラのフラッシュを浴びていた。地面に投げ出された左手には銀のブレスレット。小さな時計がついていたが、文字盤のガラスが割れ、針は8時を指したまま止まっている。
司法当局に任命された検死医がやってきた。ジャンニは場所を譲った。
「鮮度はいいと思うけど。昼間、会って話したばかりだから」
光を失った瞳はジャンニを責めているように見えた。警察をなじって食ってかかってきた姿を思い出した。嫌なものだった。ほんの10時間前に会った人物と、こんな形での再会は。
生きて会ったことのある人間の死体というやつに、ジャンニは慣れることがない。
医師は黒い鞄を脇に置き、死体を検めながら小型のレコーダーに所見を吹き込んでいった。
「顔面に溢血点。首に索痕がある。周囲の状況から考えて自殺の可能性は除外できるだろう」
「何で首を絞めたかわかるかい?」
「丈夫な革紐か何かだろうな。それを二重に巻いて後ろから絞めた。右頸部の表皮剥脱。必死で逃れようとして爪で掻きむしったんだ。他殺だな」
少し離れた場所の低木の枝が折れていた。ごく最近、誰かが踏み荒らしたように見える。
白のフォード・フィエスタが路肩に停まり、運転席からラプッチが降りて歩いてきた。ジャンニは状況を説明した。
「腕時計が8時で止まってる。死後2、3時間だそうだから、襲われたときに衝撃で壊れたんじゃないかと思う。この子は教授と深い関係にあった学生の友達だ。午後におれが話を聞いたときにはいたって普通だったのに」
「何を話したんだ?」
「事件当日のマヤの行動について、ちょいと確認したいことがあったんだよ」
ミケランジェロがその件に関して電話でごちゃごちゃ言っていたような気がしたが、さっきは寝ぼけていたので内容を忘れてしまっていた。
「そういや、ニコラスはどうなったかな?」
「一命はとりとめたようだ。ひとまず危険な状態を脱した、と監視任務についている者から連絡があった。今はそれよりこの死体だ。
「7㎞先にある駅の公衆電話から。車で15分はかかる。この場で救急車を呼ばずに、じゅうぶん離れてから電話したんだよ。ドラッグの売人あたりが見つけたんじゃないかと睨んでたが、こうなると加害者である可能性も考えなけりゃならない」
「周辺の不審情報は?」
これといってなかった。近くの家で助けを求める声が聞こえるとの通報があり、パトロールカーが駆け付け、高齢の女がバスタブにはまって動けなくなっているのを発見して救出しただけだった。
ラプッチが投光器で明るく照らされた木立を見まわして言った。
「ここは160ヘクタールの森がある。死体をこの場所に遺棄したということは隠すつもりがなかったか、その余裕がなかったかだ。麻薬密売人や商売女が何か見ている可能性があるから聞き込みしてもらいたい。今は蜘蛛の子を散らすように逃げたようだが」
「だけど、あいつらは警察と話をしたがらないからね。しばらくは寄りつかないだろうし」
「客を装って接触する手があるだろう。連中には協力的な者や情報提供に応じる者もいる」
ミケランジェロが近くにいないのを確かめ、ジャンニは声を落とした。
「ミケ坊やには残ってもらう。新しいメンバーが来るのは知ってるけど、それでも手が足りないくらいなんだ。ひとりも欠けてもらっちゃ困る。目の玉が飛び出る量の書類を書かないといけないんだから」
「致し方ないだろうな。しかし、一連の事案が片付くまでだ。その後はもとの部署に戻ってもらう。異存はないな?」
答えようとしたとき、着信音が鳴り響いた。全員がまわりを見まわした。植え込みに小さなバッグが落ちていた。女物で、長い革紐がついている。発生源はそこだった。
ジャンニは手袋をはめて拾った。中にスマートフォンが入っていた。発信者の名前が出ている。
――「イヴァン」。
ジャンニはラプッチと顔を見合わせ、応答をタップした。
「もしもし?」
一瞬の緊張が伝わってきた。男の声が言った。
「誰です?」
「フィレンツェ警察のジャンニ・モレッリだ。あんたは?」
「クリスティです。あの、なぜ……フラヴィアはどこですか?」
バッグの中には財布。現金やカード類は手つかずだ。
「イヴァン、彼女の件で話さなけりゃならないことがある。今から警察署に来られるかい?」
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