第90話 運が味方なら⑥
パトロール警邏隊のルチーア・ノリス巡査部長とサンドロ・コッポラ巡査は国道65号線を本部に向かっていた。
時刻は午後6時10分、シフトの交代時間を過ぎている。空き巣の処理に手間取ったからだ。被害に遭ったお婆ちゃんは泣いていた。嘆きは次第に、不甲斐ない警察への文句に変わった。なだめて中央に連絡し、引き上げようとすると、今度は怒鳴り声が聞こえてきた。隣の民家で夫婦喧嘩がおっぱじまったのだ。仲裁に入り、帰還がさらに遅れた。
「今の、モレッリ警部じゃない?」
ノリスが振り返って言った。対向車線を通り過ぎた黄色のチンクエチェントだった。バックミラーの中で小さくなっていく。
「クラシックカーで楽しくドライブかよ。こっちは超過勤務なのに」
「なんか、困ってるような顔だったけど」
「だったら急いで離れなきゃ」
コッポラ巡査は車を加速させた。モレッリ警部はいかなるときも厄介事に首を突っ込んでいる。ここで関わり合ったら帰れないのが確実だ。このあと通信指令室の子とデートなんだ。懸命なアプローチでとりつけた約束なのに、遅れるわけにはいかない。
最近は残業続き。前の晩は廃工場で学生が飛び降り、通報に駆けつけ、そのあと病院で監視任務につかされ……。
不意に車載無線が音をたて、通信指令係の声が流れた。
「全パトロールに告ぐ。車輌の捜索命令が出ています。黄色のチンクエチェント、ナンバーはFI4855X3。所有者は殺人に関与した疑いがあり、武器を持っているかどうかは不明。発見の場合は慎重に対処を……」
*
一瞬の期待もむなしく、対向車線のアルファロメオは法定速度を超過している
「イヴァン、馬鹿なことを考えてるならやめろ」
クリスティには聞こえていないようだった。細いステアリングを握りしめ、独り言を呟く。
「こんなはずじゃなかった。放っておいてくれればよかったんだ。どうして? どうしてみんなが僕の邪魔をする? あんたもフラヴィアも……マヤもだ」
その言葉に気をとられ、ジャンニは前から来るトラックに気づくのが遅れた。チンクエチェントのほうはどうみても白い実線をはみだしている。ジャンニはステアリングを奪い、正面衝突を避けるために右へきろうとした。クリスティが腕を振った。肘が顎に命中し、ジャンニはのけぞった。
すれ違いざまにトラックの運転手の罵声が轟いた。
「馬鹿野郎、どこ見てんだ!」
ジャンニの頭に、ひしゃげた車から焼き網にこびりついた肉みたいに引っぺがされ、遺体袋に収納される己の姿が浮かんだ。
応援を呼んでおけばよかった。今となってはもう遅い。誰かが駆けつけてくる前に人を轢くか、防護柵を破って10メートルほど下に転落している可能性が高い。よくて民家の塀に衝突だ。
ジャンニは横から足をねじ込んでブレーキペダルを踏もうとし、抵抗して押し返すクリスティと揉み合いになった。相手はもう簡単にステアリングに触らせようとしなかった。ジャンニはサイドブレーキをつかんで思い切り引いた。後輪が悲鳴をあげ、フロントガラスの向こうの風景が横に流れた。
耳をつんざくタイヤの軋みに警察のサイレンの音が重なった。
バックミラーに水色のアルファロメオ。幻ではない。さっきすれ違ったパトロールカーがUターンして向かってきている。
聞き飽きたサイレンがこんなにも心安らぐものだったとは。
アルファロメオが速度をあげ、後輪を引きずりながら左右に尻を振るチンクエチェントに追いついた。
ジャンニは車を減速させることに全力を傾けた。チンクエチェントは壁に脇腹をこすり、アルファロメオに鼻先を触れて停止した。
コッポラ巡査が運転席のドアを開けてクリスティを引っぱり出した。同じドアから這い出そうとするジャンニにノリス巡査部長が手を貸す。
「怪我はありませんか?」
ジャンニは舌で歯茎をなぞった。どこも折れていない。あたりには焦げ臭い匂いが漂っている。
「どうして引き返してきた?」
「この車の捜索指令が入ったんです。行き違ったばかりだし、警部が一緒にいるかもしれないという話だったんで、間違いないと思いました」
ノリスは笑顔になったが、ジャンニは首をかしげた。
「捜索指令? 一緒にいる? おれは誰にもそんなこと知らせてなかったぞ」
「その可能性がある、と警視長が無線で言ってましたけど」
携帯電話を見ると、複数の相手から着信が入っていた。履歴を辿ろうとしたところでメロディが鳴り出した。ミケランジェロだった。
『どこにいるんですか』
ジャンニは道路標識を探した。
「トレスピアーノとの境あたりかな」
『クリスティです、衣類と靴を捨てたのは』
コッポラ巡査がクリスティを身体検査し、やけに手荒くパトロールカーの後部座席に放り込んだ。
『彼があのゴミ袋を廃墟の敷地に投げ入れたんです。こっちは何度も電話してたのに……そこで何してるんですか?』
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