第89話 運が味方なら⑤
急な加速を強いられ、エンジン音が激しくなった。
「スピードが出るのは分かったから、もういい。車が痛むぞ――」
ジャンニは心臓が止まりそうになった。道路の前を老人が渡ろうとしている。
「おい、気をつけろ」
クリスティは止まる気がないらしかった。歩行者の姿が急激に接近し、ジャンニは目をつむった。車は間一髪で避け、体が左右に激しく揺さぶられた。恐る恐る振り返ると、老人は遠ざかるチンクエチェントを呆然と眺めている。
前に目を戻すと、水色の車体に白のラインが入ったアルファロメオが対向車線をやってきた。
*
「イヴァン・クリスティについて今までに分かっていることは何?」
「大学の非常勤講師だ。死んだ教授を恩人と思っているようだった」
「ディ・カプアを通じて、彼が高校生に偽の学位授与証明書をオーダーしたとしたら? 講師として採用されるために。恩人ってそういう意味なんじゃない?」
「あそこの大学は偽造屋の常連客だったりしてな。警部に報告しよう。追及することになるかもしれない」
「もっと手っ取り早い方法がある。この証明書が本物かどうか、発行元の大学に聞いてみるの」
ラウラがドイツの大学に英語で問い合わせ、礼を言って電話を切った。
「イヴァン・クリスティは確かに大学院に在籍していたけど、事情で中退してるそうよ」
「事情って?」
「お父さんが病気になって、経済的な理由でやむをえず帰国したみたい。だから最終試験は受けてないし、学位も取得してない。もちろん授与証明書を発行した記録もない」
証明書を裏返して眺めた。インクの汚れがある。高校生は印刷に失敗し、捨てるつもりで隠していたんだな。
「学歴詐称か」
「大学がこのことを知ったら?」
「解雇は確実ね。罰金や損害賠償を科せられるかも。信用はなくなって、アカデミックな世界ではもう仕事に就けなくなる」
「ディ・カプアは知っていたのかな。偶然にも高校生と接点があったし。クリスティの履歴書に嘘があるのを知り、大学に報告しようとした。そのせいで殺されたとは考えられないか?」
「自分も偽造業界にいたのに? あの教授にとっては仲間みたいなもんじゃないか」
「仲間ってわけにはいかないと思う。ディ・カプアのほうが立場が上だし、大学は上下関係が厳しいもの」
レンツォの電話が鳴った。ジャンニだろうと全員が思ったが、違った。
『モレッリ警部はいますか?』
ミケランジェロだった。
「いない。こっちも捜してるところだ」
『クリスティなんです』
「クリスティがどうしたって?」
視界の隅でセバスティアーノとラウラが顔を見合わせる。
『廃墟に靴を捨てたのは彼です。店の防犯カメラに映ってました。警部と連絡がつかなくて……』
「落ち着いて。今どこにいる」
ミケランジェロは大学のキャンパスにいた。ジャンニが供述の裏をとりに行くと言ったのを覚えていたからだ。
「クリスティの姿も見あたらないんだな? じゃ、いったん戻ってこい」
「ニコラス君の荷物にトロフィーを隠したのも彼だったのかな。そうして教授の殺害犯人に仕立て上げようとした。精神的に不安定だったから、罪を被せられると思ったんじゃない?」
「あのクソ野郎、こっちはニコラスに疑いをかけるところだったんだぞ」
「ジャンニは電話で何て言ったんだ?」
「これで全部分かった、と言ってたよ。アンドレア・コスタがナイトクラブで隠し撮りした証拠を見つけたって」
ラウラが驚いて目を丸くする。
「あの写真、コスタ教授が撮ったものだったの?」
「フラヴィアを殺したのもコスタだ、とジャンニは思ってるようだった。そのあと車のナンバーを照会しろと言ってきたんだ」
「車を発見したのね。監視カメラに映っていた不審車輌もチンクエチェントだった。同じ車と知って、逮捕状をとるために所有者を割り出そうとした。でも変よね。連絡もよこさないで、どうしたのかな」
ジャンニの電話はさっきも呼び出し音が鳴るだけだった。つかまらないのは珍しくないが、どうしたんだろう。
『警部のトヨタは大学の前にあるんです』
ミケランジェロが言った。
『警部はクリスティに、フラヴィアの母親と会わせてほしいと頼んでました。もしかしたら……』
*
ラプッチが仕事を切り上げて帰ろうとしたとき、ラウラ・フェデレ警部が執務室にやってきた。
イヴァン・クリスティが大学教授の事件について事情を知っている疑いが浮上したという。ジャンニは彼と接触した可能性があるが、誰も居所を知らず、連絡がとれない。
ラプッチはあのボンクラ警部がまたドジを踏んだのではなかろうかと懸念した。今度こそ特大の、それも破滅的なドジを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます