第88話 運が味方なら④

 クリスティが聞いた。

「乗り心地はどうですか?」


「なかなかいいね、振動で屁が出そうになるけど。スピードはどんだけ出せるんだ?」

「せいぜい時速100kmですが、こいつはもう少しいけます。父がエンジンを付け替えたんで」

「親父さんは整備士かなんか?」

「ええ。休日はよく、カゼッリネの実家の車庫でこの車をいじってました。僕がドイツにいたとき病気が分かって、ほどなく死にました」

「家族は苦労しただろう」

「母は清掃会社で働きはじめました。留学中の生活費なんかとても捻出できない状況だった」


 車は環状道路に入っていた。目的のホテルは中心から離れたところにあるらしい。


「コスタ教授は写真撮影が趣味らしいね」

「写真というと?」

「知ってると思ったけど。珠玉のコレクションの一端をのぞかせてもらった」


 クリスティは嫌悪感を隠そうともしなかった。


「あの人はああいうのを無頓着に開いたまま席を立つんです。最初は、自分には関係ないと思おうとしました。でもあるとき、学生を狙ってやってるらしいと分かって……何と言ったらいいか、吐き気がしましたよ」

「だけど大学に報告はしなかった」

「で? 今度はその罪で僕を起訴したいんですか?」


 市街地からはずれた農業地帯だった。塀の向こうにビニールハウスの屋根が並んでいる。クラウディアの母親が宿をとるにしては不便な場所だ。


「ホテルは近くだって言わなかったかい?」

「その前に、少しドライブしましょう。さっきは何の電話をしてたんですか?」


 やっぱり車の所有者の照会を指示したのを聞いてたな。


「ちょっと主治医と話してた。仕事おさぼり病を治したいんだけど、治療は不可能だと言われちまった」

「嘘だ。あなたはこの車のナンバーを調べろと言っていた」

「あんたも大嘘をこいた。火曜日の夜は車で出かけたのに、家で寝てましたと言っただろう?」


 クリスティは黙って運転している。


「コスタ教授にも嘘をつかせた。あんたは火曜日の午後は研究室にいなかったのに、いたと言うよう頼んだだろう。女子学生のお尻やら太腿やらの写真を撮ってることを通報されたくなけりゃ、アリバイ工作に協力しろと。教授のコレクションを自分に都合のいいように利用したんだ。そろそろ本当のことを……」


 ジャンニの言葉は途切れた。車がいきなり大きく揺れたからだった。


「運がよければ、僕はこんなことをしていないはずだった」


 その言葉には脈絡がなかった。自分に言い聞かせているようにも思えた。


「大学院を修了するまでドイツにいられたはずだった。父が病気にならなければ。いつも何かが邪魔をする。結局、僕は運に見放されているんです」

「イヴァン、スピードを落とせ」


 緩いカーブの向こうに広大な丘陵がひろがった。崖下から糸杉の頂上が出ている。ジャンニはふと、クリスティが今のカーブでガードレールを突き破る誘惑にかられたのではないかと思った。それは気のせいだったかもしれないが、スピードがどんどん上がっているのは確かだ。


「さっき最高時速のことを言ったでしょう。実は知らないんです。どのくらい出るか試してみませんか?」

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