第64話 現実は推理小説のようにはいかない

 廊下に出ると、大家はまだ居間にいた。フラヴィアがどんなにいい子だったかを涙ながらにミケランジェロに語り聞かせている。


 ジャンニは音をたてないようにマヤの部屋のドアを開けた。こちらも整頓されていた。慌てて出て行ったようには見えない。列車の時間を忘れているという大家の言葉をそのまま受け取ってよさそうだった。


「うちの捜査員が調べるかもしれないので、フラヴィアの部屋はそのままにしておいてください。何か思い出したら連絡を」


 背後でドアが閉まると、ミケランジェロが抑えた憤りの声をあげた。


「足音だなんて! フラヴィアは赤のサンダルを履いていた。ハイヒールというのはあれのことですよ」


 公園の茂みに横たわる死体がジャンニの目に浮かんだ。片方脱げて転がっていた真っ赤なハイヒールのサンダルは、妙にジャンニの記憶に残っている。


「そうだ。床をカツカツ鳴らして出ていったのはマヤじゃない、フラヴィアだったんだよ。つまり2時半に家を出たのは彼女だ」

「赤い色をしていることは、大家さんはどうして知ってたんでしょう。目が悪いのに」

「つまんで持ち上げてじっくり観察したんじゃないかな。あの婆さまは脳味噌が石器時代なんだよ。若い娘がヒールの高い靴をはいて1ミリでも肌が出てる服を着たら、娼婦ってことになっちまうのさ。自分の娘にはきっと修道女の格好をさせてたよ」

「でも、変ですよ。回数券の記録では、マヤは午後2時37分のバスに乗っています。だから3時に家を出たというのは嘘だと思ったんです」

「ところが、そのバスにはフラヴィアが乗ってた。自宅を出た時間についてつじつまの合わない話をしたのは彼女のほうだ」

「教授を殺したのもクラウディアだったんでしょうか。だから捜査を攪乱させるために、自宅を出た時間を偽ったとは考えられませんか?」


 事件が起きた時間帯、フラヴィアは作品展の会場にいた。マヤがそうしたように、途中で抜け出すことはいつでも可能だった。少しのあいだ姿が見えなくても、怪しまれたりはしない。そっと会場を出て犯行を遂げ、すぐに戻ればいいのである。


「そういう推理小説の完全犯罪みたいな真似は、現実にはうまくいかないもんだ。たいてい不測の事態が起こる」

「いずれにしても、ぼくは解決を見られないですね。今日でチームを抜けるんだから」

「おっと、忘れてた。ミケ君、お前さんの勤務先は来週もここだ。昨日、捜査が一段落するまではここにいてもらうってことでラプッチと話をつけといた」


 感謝されるかと思ったのに、新人警部は嬉しくもなんともなさそうに車に乗り込んだ。


「そういうのは屈辱的です。事件が解決したら放り出されるなら、単なる穴埋め要員でしかありません。警部も今のうちにビールを奢られるほうに賭けておいたらどうですか?」

「解決ってのはな、裁判で有罪に持ち込めるだけの証拠を集めることを言うんだぞ。必要な書類の量ときたらエベレストと同じ高さに紙を積んでもまだ足りないぜ。逆に言えば、それだけ長く捜査に関われるんだ」


 昨夜のラプッチの言い方だと、ジャンニが代わりに蹴り出されることにでもならない限り、ミケランジェロに元の部署に戻ってもらう決定は覆りそうもなかったが。

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