第63話 置き去りのスーツケース

「事件についてなら、昨日の刑事さんたちに話しましたけど?」


 大家はネグリジェ姿だった。コーヒーの香りが漂い、小犬のレックスが尻尾を振っている。ジャンニとミケランジェロは顔を見合わせた。


「それはおれたちのことだと思うんですが……」


 老婦人は顔を寄せて2人の警察官を見た。

「あらまあ、そうだったわね。ごめんなさい、目が悪くてねえ」


 黄色いスーツケースが置いてあった。鍵がかけられ、すぐに運び出せる状態だ。


「ご旅行ですか?」

「マヤですよ。しばらくご両親の家に帰るんだとか」

「なら、ちょうどよかった。いっしょに聞いてもらいたい話があるんで」

「朝からおりません。出かけてると思いますけど」

「そうですか」

「列車は今朝の10時半って言ってたのに、忘れてるのかしらねえ」


 時刻は10時20分をまわるところだった。10分後の列車に乗るなら駅にいたほうがいい時間だが、荷物を置きざりとはどういうわけなのか。


 フラヴィア・リッチが死体で見つかったと聞くと、大家は卒倒しそうになった。


「昨日おれたちが帰ったあと、フラヴィアに変わった様子は?」

「そう言われてもねえ……私、あれから娘と出かけたんです。帰ってきたときには誰もいませんでした。心配はしてたんですよ。マヤはともかく、彼女が断りなく家をあけるなんて今までになかったから。でも、まさか……本当にフラヴィアですの?」

「残念ながら」

「可愛そうに。事故にあったのね」

「いえ、殺害されたとみて捜査中です」


 大家はソファにへたり込み、放心状態でクッションを撫でた。


「カシーネ公園に行くって話は聞いてました?」

「いいえ。ああ、なんてこと……」

「彼女のボーイフレンドのことは以前からご存じですか?」

「ときどきいっしょに来てました。とっても親切で礼儀正しい青年よ」

「彼に暴力を振るわれたとか、そういう話を聞いたことは? もしくは痣をつくって帰ってきたとか」

「そんな、ありませんよ、いちども」

「分かりました。他に仲のいい友達や、行きそうな場所に心あたりがあったら教えて下さい」

「そういうことはマヤのほうが詳しいんじゃないかしらねえ」

「戻ってきたら連絡願います。他に何か思い出した場合も」


 ジャンニはポケットからくしゃくしゃのレシートを取り出し、裏に自分の携帯番号を書きつけた。


「ところで、火曜日はマヤが午後2時半頃に、そのあとでクラウディアも出かけたって話でしたね」

「そうですよ」

「失礼なことを伺うけど、シニョーラは目がお悪いようですね。どうやって2人のどっちが先に出たか分かったんです?」

「あら、簡単ですよ、そんなの。足音です」

「足音……というと?」

「床をカツカツ歩くんです、真っ赤なハイヒールで。それがまた耳障りで。だから、見なくても彼女だって分かるんです」

「つまり、マヤがその靴で出かけた?」

「そうよ。あんな娼婦みたいな靴、フラヴィアは真面目な子だから履きません。年寄りだからって馬鹿にしないでいただきたいわ」

「なるほど、大変参考になりました。差し支えなけりゃ彼女の部屋を見せてもらいたいんだけど」


 大家は了承した。ジャンニはクマのプレートがついたドアに手をかけた。


「そこはマヤのお部屋です。フラヴィアのは隣ですよ」

「おっと、失礼」


 フラヴィアの部屋は整然としていた。淡いピンクの壁にシングルベッドが寄せられ、机の上には学校のテキストらしい本や展覧会のカタログ、旅行ガイドブックが並んでいる。

 興味を引くものはない。未知の人物の写真も、鍵のかかった引き出しもない。

 クローゼットにはハンガーにかかった衣類、大判のパネル数枚、画材の詰まった缶が1つ。

 隅に籐のゴミ箱が置かれていた。紙くずの間に磁気カードらしき物体が見える。

 そっと角をつまんで取り出すと、市営バスの回数券だった。

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