第34話 動揺する心
大家は年配の女だった。ふたりの娘が結婚して家を出たあと、空き部屋を間貸しして年金生活の足しにしているらしい。
「恐ろしいことが身近で起きて驚いておりますの。軽率な子だとは思ってましたけど、まさか事件に巻き込まれるなんてねえ」
老婦人はジャンニとミケランジェロを居間に案内し、紅茶とビスケットを出した。マヤは留守だった。供述書を作成することは伝えてあるので、忘れていなければ今日あたり警察署に来るだろう。
黒っぽいミニチュアダックスフンドが足元をうろうろしている。
「軽率というと?」
「毎晩のように友達とパーティでしょ。ここに住んでいるもうひとりの子、フラヴィアはしっかりしたお嬢さんなのに、マヤは娼婦みたいな格好で遊び歩くんです。変な噂がたつんじゃないかと心配で」
言いながら、黒いクッションを犬と間違えて撫でた。
「あらっ、レックスがいるのかと思ったら」
犬は彼女の足元に寝そべっていた。ジャンニは湯気のたつティーカップを凝視し、浮いている小袋が芳香剤ではなく確かに紅茶なのを確かめた。
ミケランジェロがマヤの火曜日の行動を尋ねた。大家は、午後に家を出ていく音を聞いたと答えた。
「何時頃だったか覚えていますか?」
「2時半頃じゃないかしら。フラヴィアもそのあと出かけてしまって。あの日は上の娘が3時頃に孫を連れてきたんです。ふたりともいなくて、孫が残念がってたからよく覚えてるんですよ」
話し声がして玄関のドアが開いた。入ってきたのはマヤではなかった。動画に映っていた同居人のフラヴィアだ。ほっそりして化粧っ気がなく、体にぴったりした白いTシャツにジーンズをはいている。
ジャンニが自己紹介すると、濃いブラウンの目に敵意が浮かんだ。
「じゃ、あなたが例の刑事さん? マヤが根掘り葉掘り聞かれたって言ってた。それも、個人的なことを」
「警察の捜査では個人的なことを聞かなけりゃいけないもんで」
「でも、失礼な態度だったんでしょ」
フラヴィアはマヤより少し年上に見えた。動画の中では背も高く見えたが、それは踵の高い靴を履いていたからだったようだ。
彼女と一緒にいる男は大学の講師のクリスティだった。ジャンニは上着のポケットから冊子を出し、記念写真が載っているページを開いて彼に見せた。
「あんたに会えてちょうどよかった。この写真でディ・カプア教授は変わったトロフィーを持ってるね」
「〈杉の木〉賞のトロフィーです。学問の発展に貢献した会員に授与されます。去年、彼は学生と共同の研究で受賞したんです。そのときの写真ですよ」
「これが今どこにあるか分かるかい?」
クリスティは首を傾げた。なぜそんなことを聞かれているのか分からない様子だ。
「さあ……そこまでは知りません」
トロフィーは円筒形で、先端が葉や枝に変化しているデザインだ。ミケランジェロは内心で溜め息をついた。マヤのことを聞きにきたはずなのに、警部はすっかり忘れて事件とまったく関係ない質問をしている。ここは自分が主導権をとるべきだろう。
先ほど聞かされた話のせいでまだ動揺していたが、今は捜査に集中するときだった。
「フラヴィアにお聞きしたいことがあります。あなたは火曜日、マヤといっしょに学校の作品展に行ったんですよね」
「そうですけど」
「彼女が何時から何時まで会場にいたか覚えていますか?」
「もしかしてマヤを疑ってるわけ? 言っとくけど彼女は誰も殺してないし、そんなことするわけがないの。警察って、ひどいわね」
「やめなよ、刑事さんたちは捜査してるだけなんだから」
「だから何をしてもいいわけじゃない。もしかしたら、盗撮の犯人って警察官なんじゃない? ああいう変態って、きっと普段の顔は真面目なのよ。警察の人ってまさにそんな感じよね」
「フラヴィア!」
ジャンニは双方に顔を向けながら、盗撮とは何のことだろうと思った。フラヴィアはドアにクマのプレートがついた部屋に入っていった。
「失礼、盗撮ってのは?」
ジャンニの質問にクリスティが答えた。
「少し前に、女の子たちの写真と動画がソーシャルメディアで出回ったんです。誰が撮ったのか分かりませんでした。別に変な写真じゃなかったけど、気味悪かったですよ。彼女はそのせいで怖がっているだけです。あなたがたを悪く言いたいわけじゃないんです」
フラヴィアが戻ってきた。
「変な写真じゃなかった? お尻と太腿ばっかり写ってたのに、変じゃなかったなんてどうして言えるわけ? 変質者をかばうの?」
「だ、だけどさ、刑事さんたちが調べている件とは関係ないんだし……」
話を戻そうとするように、ミケランジェロがフラヴィアへの質問を再開した。
「大家さんが言うには、あなたは午後3時少し前に家を出たようですが」
「そうだったかな。覚えてないけど」
「マヤのほうはもっと早く出たんですよね?」
「そんなに時間が知りたいなら私のバスの回数券を調べてみれば? すぐそこのバス停から乗ったから、家を出た時間がだいたい分かると思うけど」
路線バスの磁気回数券には利用者の乗車時刻やバス停などの情報が記録される。
「いや、そこまでしなくて結構」
もし必要になったら連絡するから――ジャンニがそう言おうとしたとき、ポケットの中で携帯電話が鳴った。
「例の盗難車を発見しました」
警邏隊のエリア・レオネッティ巡査部長だった。例の盗難車……メルセデスだろう。
「こっちに来られますか?」
「おれが出向くに及ばない。ラプッチに知らせてやれ。犬みたいに喜びに震えながら小便をちびるぞ」
いつも快活なレオネッティの声が電話の向こうで逡巡した。
「いえ、それが……どうも警部に来てもらったほうがよさそうなんです」
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