第100話 プラタナスの小道②
「事件ってのは?」
ジャンニは窓の下まで行った。女は年の頃50代半ばで、金髪に染めた髪は生え際が白い。
「あたしは通報したほうがいいと思ったの。けど、うちの人がするなって言ったのよ」
その隣に夫らしき男が顔を出した。事情は呑み込めないが警察に説明を求められていると察し、見るからに慌てていた。
「そんなこと言ってないよ。変だと思ったよ、おれだって。でも取り越し苦労かもしれないだろ? 警察の人を煩わせたら悪いし……」
「煩わせる? あんた、この人たちをなんだと思ってるの。呼ばれたら駆けつけるためにいるんでしょうが、税金から給料が出てるんだから」
「歓談のひとときを邪魔して申し訳ないんだけど」
ジャンニは大声で口を挟んだ。
「気になることがあるなら、話してもらえるとありがたいんです」
夫が門を開けて出てきた。痩せていて、妻とは対称的に気が弱そうだ。
「昨日の晩、テレビを見てたら大きな音がしたんです。ドーンっていう音です。驚いて外に出たら、少し先に車が停まってました。ライトがついてて、前のドアが両方とも開けっぱなしでした」
「車内に人は?」
「いませんでした。探したんですよ、救急車が必要かもしれないと思って。でもいないんです。で、いったん引き返して懐中電灯を持ってきたら、車は消えてた」
「色は?」
「白」
「車種は分かりますか?」
夫は自信なさげに妻を見た。
「ルノーのセダンだった。そうだよな」
「そうね」
時刻は9時半を過ぎていたとのことだった。
ジャンニは夫婦と一緒にその場所へ赴いた。塀が壊れ、アスファルトに破片が散らばっていた。鋼鉄の外灯にも傷がある。1回目に通ったときはまったく気づかなかった。
「で、あたしはすぐ分かったの、普通じゃないって。でもこの人が警察を呼ぶほどじゃないって言うから」
夫は弱りきっていた。
「だって、お前、事情があったのかもしれないだろう? 急に腹が痛くなったとか……」
「じゃ、この跡はなんなのよ。あんたは車をぶつけたらうんこしたくなるわけ? そういう馬鹿げたこじつけ、いっつもどこから思いつくの? あんたは昔っからそう。困るとすぐ屁理屈を並べるのよ」
ジャンニは再び話に割って入った。
「昨晩、家の明かりはつけてましたか?」
夫が居間で照明をつけていたと答えた。
塀の向こうはオリーブ畑だった。レンツォが緩い斜面を降りて行き、しばらくしてジャンニを呼んだ。
「こっちだ」
ジャンニは塀をまたいだ。地面は石ころと草で覆われ、うっかりすると足をとられそうだ。
大木の根元に懐中電灯が向けられていた。女物の靴が片方転がっている。
薄茶色の合皮で、踵が低い。ジャンニはあの大学生のものかどうか考えた。が、思い出せなかった。目立った汚れはなく、濡れた跡もない。この場に落ちてから時間が経過していないことだけは確かだった。
捜索隊の到着を待つあいだにもう片方の靴が見つかった。上のほうで車のドアが閉まる音が立て続けに響いた。ジャンニは斜面を登っていき、応援にやってきた人員に経緯を説明した。
「ここで何かが起きて、車は事故を起こしたんじゃないかと思うんだ。靴は夫婦のどちらも見覚えはなく、昨日の夕方までは落ちてなかったそうだ」
動かせる人員を片っ端からよこしてほしいというジャンニの要請に応え、麻薬捜査課のアンナも同僚を連れて駆けつけてきていた。
「目撃者は、周囲に人はいなかったと言ってるのよね?」
「ああ、でも近くにいたんだと思う。あたりは暗いし、夫婦が懐中電灯をとって戻るまで10分だ。それだけありゃ何だってできるよ。車はたぶんこのへんだ。一帯を徹底的に調べたい。それと、破損箇所がある白い車を見なかったかどうか聞き込みをかけてもらいたい」
街灯の光が届かないところでいくつもの光が動いていた。木の根元や草むらに向けられる懐中電灯の光だった。瞬く光を見つめているうちに、マヤがここまで連れてこられたのは間違いないとジャンニには思えてきた。
明かりのついている家を見て、マヤは何らかの行動に出た。恐らくそれが原因で車は塀に衝突し、彼女は夫婦の家に助けを求めようとした。しかし、辿り着けなかったのだろう。車に連れ戻されたか、あるいは……
ここにいる、この近くに。見つけてやらなけりゃいけない。
「ジャンニ、車が見つかった」
「どこだ?」
「近くの民宿だ。駐車禁止のスペースに白い車が停まっている、とオーナーが知らせてきたんだ。左のヘッドライトが割れてる」
ジャンニは車に飛び乗った。曲がりくねった道の先で、事故現場からは直線距離で目と鼻の先だった。
民宿のオーナーらしき男が捜査員と話している横で、白のルノーが街灯に照らされていた。ジャンニは運転席のドアに手をかけた。何の抵抗もなく開いた。車内に目を走らせたとき、慌ただしい声があがった。
「いたぞ、ここにいる!」
ジャンニは人をかき分けて車の後部に駆け寄った。大学生はトランクの中に横たわっていた。長い髪が顔にへばりつき、腕は擦り傷だらけだ。
生ぬるい風が吹き、あたりが一瞬静まり返ったかに思えた。間に合わなかったよ、とジャンニは思った。顔をそむけたくなった。予測はしていたが、こんな形での発見になったのがやるせなかった。せめて、もう少し早く見つけてやれれば……
ラウラがトランクの上に身を乗り出し、ジャンニにうなずいた。
「息をしてます」
「ほんとか?」
本当だった。ぐったりしていたが、腹部がかすかに上下していた。安堵でその場にへたり込みそうになりながら、ジャンニは大声で言った。
「救急車だ、救急車を呼べ」
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