第83話 気さくで親しみやすい教授

 アンドレア・コスタ教授は研究室のデスクトップ型端末の電源を入れた。


 時刻は午後5時半。学会の参加者はすでに会場を後にし、街で軽く飲みながら談笑でもしている頃だろう。なのに彼だけは残って仕事しなければならず、しかも頭にきていた。


 特に腹が立つのは事務局の女どもだ。懇親会のケータリングをどこに頼めばいいか聞いてきた。知るか。どいつもこいつも私を便利屋とでも思っているのか。学会の準備委員を務めているからといって通常の業務が減るわけではないのに。


 こんなときの慰めは、秘蔵のコレクションを眺めることだ。外付けハードディスクを接続し、ディスプレイに表示された画像に視線を這わせる。

 1枚を選んでカーソルを合わせたとき、ノックの音がした。

 慌ててUSBケーブルを引き抜くと同時にドアが開いた。入ってきたのは大学院所属の学生だった。進捗報告書にサインが必要なんですが、と遠慮がちに言う。指導教官のディ・カプアが死去したので誰に頼めばいいか分からず、困っているようだった。事件のせいで学生にも混乱がひろがっている。


「私がサインしよう」


 微笑んで言う。ディ・カプアよりも、自分は気さくで親しみやすい教授として通っている。


「今回のことで研究に支障が出ないよう、できるかぎりのサポートをするつもりだ。不安があればいつでも相談にのるよ」


 女子学生は顔をほころばせて礼を述べた。金髪、すらりと長い脚。いつかコレクションに加えたいものだった。その背後、開いたドアから男の顔がぬっと現れて研究室の中を見まわした。


 誰であるかが分かったとたん、冷たい汗が吹き出した。


 犯罪者と見まがう風貌のこの警部は、いつでも喜んで会いたいとは言えない相手だった。


 *


 ジャンニは研究室に入った。


「どうも。助かりましたよ、いてくれて。てっきり無駄足を踏んだかと思った。ひとけのない大学構内ってのは寂しいもんですね」

「土曜日は講義がないんです。普段なら閉めてますが、今日と明日は学会で……。あなたも仕事ですか?」

「そうです。お互いに運が悪いね」


 ジャンニと入れ違いに金髪の学生が出て行った。


「お捜しのUSBメモリーは見つかりました?」

「いえ、結局出てきませんでした」


 思い出したように、コスタ教授が顔を曇らせる。


「昨夜の話を聞きました。亡くなった女性はクリスティと一緒にいるのを見たことがあります。こんなことが起こるとは、まったく想像も……」

「そのクリスティ君だけど、火曜日の午後に姿を見た覚えは?」

「火曜日ですか? ニコラスの研究発表会にいましたし、その前はここで見かけましたよ」

「途中で席を外したりは?」

「いや、ずっといたようでした。締め切りが近い原稿を抱えているとかで忙しそうにしていましたよ」

「けど、クラウディアが通う美術学校の作品展には行った。そうでしょう」

「そういえばそうですね。あいにく私は彼の行動を把握しているわけでは……あ、失礼」


 コスタはひとこと断り、かかってきた電話に出た。


「……来週の水曜だね。こちらの予定を確認するから待ってくれ」


 教授の電話の相手は学部生で、どうやら単位が足りず、補講を頼んできたらしい。コスタは机の上のファイルをとった。その拍子に小さな黒いカードが落ち、床を滑ってきてジャンニの靴にぶつかった。


〈マンゴー・ラウンジ〉


 店の名刺だった。店名とともに、ラグビーボールに似たオレンジ色のシンボルが描かれている。通話が終わるのを待ち、ジャンニは言った。


「落ちましたよ」


 差し出されたカードを見たとたん、コスタの顔はわずかに引きつったように見えた。にこにこと笑みを浮かべるジャンニの手から引ったくるように受け取り、無造作に上着のポケットに突っ込む。


「どうも」

「じゃ、おれはこのへんで。邪魔して悪かった」

「こちらこそ慌ただしくてすみませんね。お役に立てたならいいんですが」

「たいへん役に立つお話を聞けました。ではごきげんよう」


 ジャンニはドアのところで振り返った。


「おっと、忘れるところだった。さっき事務の人が捜してましたよ。学会の件で何か確認したいことがあるとか言って」

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