土曜日

第57話 盛りだくさんの夜が明けて

 朝8時、ラプッチはフラヴィア・リッチの遺族と向かい合っていた。


 母親は涙と鼻水で湿ったハンカチを握りしめ、嗚咽をこらえている。叔母が横にいて、その肩をしっかり抱いている。どちらも小柄でふっくらした体つきで、並ぶと見分けがつかない。


「心中お察しします。捜査を担当するモレッリ警部がすぐに来ると思いますので」


 しかし、あの馬鹿は何度電話しても出ないのだ。遺族対応は苦手なので、事情説明は任せようと思っていたのに。あとで胃薬が必要になりそうだ。


 ジャンニには別に確認しなければならないこともある。


 今朝、出勤すると書類が届いていた。派手にコーヒーをこぼした跡があり、紙は乾いてよれよれだった。置いていったのはジャンニ・モレッリ警部にちがいない。雑に仕上げた書類は提出のたびにやりなおしを命じているのに、何度同じことを繰り返せばあの男は学習するのだろうか……。

 嫌悪に顔をしかめて読むと、メルセデスを盗んだ少年の供述書だと分かった。

 一箇所に目が留まった。

 少年は未解決の強盗事案に関して情報提供したいと言い、次のように述べたという。


――犯人の男はシンデレラと呼ばれている。


 シンデレラという名前は、昔の事件を思い出させた。しかし同一人物ではないだろう。その指名手配犯は姿を消して11年たつ。同名の別人にちがいない。犯罪者によくある通り名だとは思えないが。

 クリップでぞんざいに留められていたのをきちんと留め直して引き出しにしまい、端末を立ち上げて夜間に届いたメールを処理しはじめた。


 頭に浮かぶのは指名手配犯の顔だった。


 捜査に関与したわけではないが、事件は記憶に残っている。「シンデレラ」は窃盗の常習犯で逮捕され、情報提供者になることを承諾していた。ところが刑務所から脱獄した。出身はエルバ島だが、妻と母親がフィレンツェにいる。

 関連情報が更新されているかどうかをポータルで確認しようとしたとき、死体で見つかった学生の母親と叔母がやってきたので対応せざるをえなくなったのだ。


 この「シンデレラ」があの男だとしたら、どう対処すべきか考えた。本当であれば重要な情報だ。信憑性を確かめる必要がある。


 脱獄犯を頭の中で脇へやり、ラプッチは姉妹に断ってからジャンニを呼びつけるべく再び携帯電話を手にとった。


 *


 ジャンニは遅く起きた。いつもの店でエスプレッソを喉に流し込み、アプリコットの丸パンを胃に収めて病院へ向かった。着信音が鳴りはじめたが、無視を決め込んだ。どうせラプッチに決まっている。夜中まで働いて翌朝しゃきっと出勤できる人間とは、ジャンニ・モレッリ警部は相容れない。起き抜けにお小言なんか聞かされたら朝食が消化不良を起こす。


 担当の医師がニコラス・ロマーノの容態を説明した。


「砂の上に着地したそうですから、転落の衝撃が多少は和らいだと思われます。大きな外傷はありません。しかし肋骨骨折と肺挫傷があり、意識不明で搬送されてきました」


 医師の顔と名札をジャンニは凝視した。2日前の夜、強盗犯と誤認し、取っ組みあって高価なテーブルを壊した家の主人だった。医師は目の前の警部が大立ち回りを共に演じた相手だとは気づかないままカルテに目をやっていた。


「いつ彼に話を聞けるかな、先生?」

 ジャンニは不自然に顔を隠しながら聞いた。


「それは分かりません。まだ集中治療室で監視が必要な状態です。回復にはそれなりの時間がかかると思っていただかないと……ところで、どこかでお会いしたことがありますかな?」


 廊下に出ると、顔なじみのスタッフが声をかけてきた。

「警部、救急搬送された患者さんに話を聞きたいっておっしゃってませんでした?」


「今、先生と話してきたよ。ニコラスはいつ面会できるかも分からないそうだ」

「いえ、その患者さんじゃなくて2M3号室のポッジさんです」


 雑貨屋の店主もこの病院にいたのだった。しっちゃかめっちゃかで盛りだくさんの一夜のせいで、すっかり忘れていた。


「ああ、オスカーか。どんな怪我だい? 借金取りに歯をぜんぶ引っこ抜かれてなけりゃいいけど。歯がない男から話を聞き出すのは大変だろうから」

「怪我はありません。道で倒れていたところを搬送されてきました。飲まず食わずだったみたいです。回復傾向にあるんで、話していただいて大丈夫ですよ」

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