第56話 オレンジ色の路線バス

 停留所は大学教授が殺害されたアパートメントの斜め向かいにある。建物が映っていないので出入りは確認できないが、ひょっとしたら……。


「事件が起きた時間帯、ここで乗り降りした客がいたかい? ニコラスは犯行現場までバスで来たかもしれない。この停留所を使った可能性がある」


 セバスティアーノが腕組みして考えた。


「街頭監視カメラでは十数人の利用客がいたけど、その中に彼はいなかった気がします。問題のアパートに近づこうとする人間が映っていたら覚えてるはずだから。でも全員を確認できたわけじゃない。顔が映っていない人もいたし」

「よし、じゃあ、ちょっと見てみようじゃないか」


 再びジャンニはテレビの前に陣取った。今日は仕事を切り上げようと言ったことはもう頭から消えている。

 ビデオデッキのボタンが押され、映像が数時間巻き戻った。画面右から路線バスが現れ、客を降ろし、走り去る。ジャンニも見覚えのある場面だった。


「いちばん人が多いのはこの時間でした。このあともう1本くる。降りる人が何人かいます。でも、ニコラスじゃない」


 学生の集団が降りたり、検札員が乗り込んだりする場面が続く。ニコラスはおろか、不審な動きをする者もいない。ジャンニは飽きてきた。おれは何を期待したんだ? 大学院生が血のついた鈍器を持って路線バスに乗り込む決定的場面か?


「小さな停留所なんで、利用客はそう多くないんです。明日もういちど精査します」

「その必要はない。悪かった、手間を取らせちまって」


 バスが発車した。ふと見えたものが気になったが、目で追おうとしたときにはすでに画面から消えていた。ジャンニは巻き戻しボタンを押した。オレンジ色のバスが後ろ向きに戻ってきて再び停止する。中ほどの座席にひとりで座っている女性客がいる。車内はすいているが、顔が見えない。表示時刻は午後3時15分。


「これを別の方向から見たい。別の映像にも同じ場面が映ってるはずだよな?」


 ノートパソコンが立ち上げられ、街頭監視カメラのビデオが再生がされた。同じ道路を反対側から捉えた映像だ。お馴染みのオレンジ色の車体がやってきた。


「おれが何を見落としてるのか教えてほしいですね」

「いや、あんたが何かを見落としたわけじゃない。おれだって今の今まで気づかなかった」


 ジャンニはキーを叩いて映像を一時停止させ、車内にいる人物を指さした。


「これは彼女だ」


 道路の反対側に設置されたカメラは、最初のビデオには映っていなかった容貌をとらえていた。窓際の席に座り、外を見つめる女性。フラヴィア・リッチだった。


 ミケランジェロがいつの間にか戻ってきて、映像を覗き込んでいた。

「彼女は旧市街のイベントスペースに向かうところだと思います。この日はそこで学校の作品展があって……」


 周囲がざわつき、彼の声はかき消された。死体で発見された女が映像に残っているのを見て皆が口々に意見を言い出したので、アントニーノが手を叩いて注目を促した。


「皆さん、静粛に。上院議員のご子息殿のご意見だ、ありがたく拝聴しなきゃ」


 ミケランジェロがむっとして彼を睨んだ。


「トニーノ、新入りをからかうな」

 ジャンニは言い、映像を注視した。


「この日に作品展があったんです。そこへ行くところだとすれば、別に不自然ではありません。乗ったバスが偶然ここを通ったんでしょう」


 ミケランジェロの言うとおりだと思われた。フラヴィアは連れがいる様子はなく、ひとりで後部ドアのそばの席に座っていた。窓の外に気をとられているようだ。周囲に不審な人物はいない。


 ジャンニは疲労困憊で帰宅した。


 冷蔵庫からりんごジュースを出してコップに注ぎ、ひといきに飲み干した。郵便受けから出した郵便物がテーブルの上に散らばっている。封を開けた1通に目が行った。市警が送ってよこした交通違反の通知書だ。ジャンニの所有するトヨタ・アイゴが前年の12月に車輌通行禁止エリアに侵入したので指定の罰金を払えと書いてある。


 手紙を放り投げた。テレビの白黒映画を眺めたが、頭を占めているのはオレンジ色の路線バスだった。


 窓際に座って外を見つめるフラヴィア・リッチの姿。


 彼女がバスで通りかかったとき、そこで殺人事件が起きていた。フラヴィアはその3日後、首を絞められて殺された。そのことの意味を考えようとした。


 そういえば、部屋のブザーを押した女が誰だったのか、まだつかめてないな。


 そんなことを思ったときにはもうソファの上で眠りに落ちていた。




――〈金曜日〉 了――

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