第46話 10メートルの漆黒
錆びた赤茶色の門を車のヘッドライトが照らした。
そこは堆肥工場の跡地だった。数十年前の火災で半壊し、再開発の目処も立たずに放置されている。ジャンニが路肩にシトロエンを停めると、金髪をポニーテールにした女性警官が近づいてきた。ルチーア・ノリス、パトロール警邏隊の巡査部長だ。
「目撃した人によると、あそこの2階から転落したようです」
懐中電灯を向けた先に建物がそびえていた。建築の途中で放棄されたらしく、外壁がない。工場が稼働していた時代の器具や鉄くずが周囲に散乱している。パトロールカーの点滅灯の光を受け、砂の上で何かがきらめいた。近づいてみると、落ちている黒縁の眼鏡だった。
「目撃者はどこだい?」
「あの人です」
猫背の男が少し離れたところに立っていた。痩せこけて頭髪がなく、何歳なのか判別がつかない。目は鋭い。
「やあ、警部。お久しぶりだね」
にかっと笑うと黄色い前歯がのぞいた。汚れたトレンチコートから剥き出しの膝が出ているところからして、ズボンは履いていないとみえる。
「なんだ、あんただったのかい、グリ。こんなとこで一体何やってた?」
男は名前をグリエルモといい、フィレンツェ警察にとっては顔なじみの人物だった。過去に何度もしょっぴいたことがあるからだ。トレンチコートの前をかきあわせたまま近づいてくる。
「その言い草はなんだよ、モレッリ警部。たまたま近くを歩いてただけだ。そうしたら目の前で人が飛び降りたんだよ。おれだって人助けのために救急車を呼ぶことはあるんだぞ」
「といっても、ここは外の通りからじゃ見えないだろうが。どうやって入った?」
「塀が崩れてるところから。おれが壊したんじゃないぞ、ずっと前に酔っ払いが蹴りを食らわせて穴を開けたんだ。で、ぶらぶら歩きながら見たら、あそこに人が立ってたんだよ」
汚れた指で外壁のない建物の2階をさす。
「ぞっとしたね。おれは言った――何してるんだい、危ないぞ、って。でも、こっちが通報しようとしてるうちに飛び降りちまったんだ。まだ若いのに、世の中は悲しいねえ」
転落した若い男は意識不明で搬送されたあとだった。身元を確かめるためにレンツォが病院に向かっている。
「ああ、この世に道理はありゃしないからな。飛び降りたってのは確かかい? ほかに不審な人間や、争うような物音や声は?」
「おれが見たのはその兄さんだけだ。何も聞こえなかったよ」
「そうか。じゃ、最初の質問に答えてもらおう。こんなところで何やってた? あんたが好んで出没するのは人通りのある道だろう。無人の工場にいる理由はないはずだ、自慢のお宝を見せる相手がいないんだから……馬鹿、おれをその相手に選ぶんじゃない。ホットドッグの残りが食えなくなるだろうが」
ジャンニは慌てた。男が両手をトレンチコートの合わせ目にやって、開くそぶりを見せていたからだった。
「いや、ひとけがないからカップルが忍び込んでるんじゃないかと思って。恋人とお楽しみ中の女の子に見せるのが一番興奮するんだよ。コートの下は自分も裸だと思うと、ただもうありのままを見てもらうことしか考えられなくなって……」
「分かった、分かったからその先はおれに聞かせるな。あっちで事情聴取に協力しろ」
グリエルモをパトロールカーのほうに向かわせたところでレンツォから電話がかかってきた。
「ジャンニ、ニコラスだ」
それを聞いたとたん、胃が締めつけられた。飛び降りた男は、やはりニコラス・ロマーノだった。
「確かか?」
「所持していた身分証明書を見せてもらった。ニコラスに間違いないよ」
「助かりそうかい?」
「分からない。治療を受けているところだとは思うけど」
「了解、そこにいろ。おれもすぐ行く」
ジャンニは電話を切り、ノリスと彼女の相棒のサンドロ・コッポラ巡査の後を追った。2人はすでに建物に入り、内部に懐中電灯を向けていた。光の輪が赤茶けた鋼鉄の手すりをなぞった。錆び付いた階段だ。2階に続いている。段は粉塵に覆われ、うっすらと足跡が残っている。
2階のフロアは風が吹き抜けていた。遠くの街灯が見えるが、足元は真っ暗だ。床の痕跡を消さないように照らしながら辿ると、後ろでコッポラ巡査の鋭い声があがった。
「警部、その先は危険です。下がって下さい」
砂塵が闇の中に落ちていった。足跡と床が途切れていた。ジャンニは柱につかまってバランスをとり、下をのぞいた。地面までの距離はざっと10メートル。黒縁の眼鏡はそこで砂に埋もれている。
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