第47話 今まで見逃していたもの
休憩室のソファに身を投げ出し、ジャンニは病院での出来事を思い返した。
疲れてげっそりした顔の医療スタッフをつかまえて質問したが、ニコラスの容態は分からず、助かる見込みも不明だった。
その間にも別の患者が到着し、慌ただしく運ばれていく。廊下の電球は明滅し、交換が必要だったが、病院のスタッフは誰もそんなことに気を配る余裕がなさそうだった。
通路の椅子に座っていると、考えても仕方のないことが次々と頭に浮かんでは消えた。
自分で飛び降りたと思いたくなかった。誤って転落したと思いたかった。しかし、だとすると工場跡地に侵入した理由が分からない。罪悪感から自殺を企てたということ以外に思いあたらない。
ジャンニは罵り言葉を自分に向かって吐いた。この、超弩級の大間抜けのすっとこどっこい。殺人の凶器が自分のデスクの横にあったのに気づかず、真犯人に自殺未遂を許してしまうとは。
未遂ではなくなるかもしれないが。
ラプッチからは電話がきた。ジャンニがまったく連絡を入れなかったので口調に苛立ちを滲ませていた。経緯を聞くと、ラプッチは監視要員を病院に送ると言った。ニコラス・ロマーノは意識不明の重体だが、今や最重要参考人だ。
送り込まれてきたのは、その後も夜勤についていたノリス巡査部長とコッポラ巡査だった。2人はモレッリ警部が疲れているのを見てとり、帰宅を勧めた。その言葉に甘え、いったんは家に向かったものの、ジャンニは途中で考えを変えた。
あの大学院生が殺人犯なら、それを示すヒントがなかったものか。映像の中に見逃していたものがあるかもしれない。
そこで方向転換して署に戻ってきたのだ。
休憩室は誰もいなかった。湯沸かし器に水を入れてコンロの火にかけ、古書店の防犯カメラのビデオを早送りした。事件発生時の映像はまだ見ていない。確認しようとしたときにトロフィー発見の報告が入ったのだ。
画面を睨んでいると、目蓋がひとりでに閉じてきた。ろくに寝ていないせいだ。
1分だけ休むつもりでソファの背もたれに頭を預けたとき、休憩室のドアが開く音がした。
入ってきたのは大学教授の元妻、ヴェロニカだった。
ジャンニと膝を突き合わせるように座り、ふっと笑みを浮かべる。
「お疲れなのね」
「そうなんだ」
「ここ、暑くない?」
女はジャケットを脱いだ。次に白いシャツの裾をたくしあげて一気に脱ぎ去り、プラチナ・ブロンドの髪を振った。
「あなたも脱いだほうがいいわよ」
「確かに、暑いかもな」
見ている前で女は立ち上がった。ファスナーを下ろしてタイトスカートから足を抜き、白いレースの下着姿になった。そして屈んでジャンニの手を取った。
「向こうへ行きましょうよ」
「あんたがそこまで言うなら」
いきなり携帯の呼出音が鳴り響いた。ジャンニは寝ぼけ声で言った。
「取り込み中だ。5分したらかけなおせ。いや、10分……30分かな。おれのスタミナは結構なもんだから」
「はあ?」
ヴェロニカの姿は霞のように消え、湯沸かしがゴトゴト音をたてて沸騰していた。テレビ画面には不鮮明な映像が流れている。表示時刻からして、寝ていたのは5分程度。
ミケランジェロが電話の向こうで言った。
「マヤが午後3時に自宅を出たというのは嘘です」
誰がなんだって? ジャンニはよたよた歩いてコンロの火を止め、紅茶のティーパックを探した。
「もう一回言ってくれ」
「確認したところ、磁気回数券に記録されている乗車時間は2時半過ぎでした。3時に家を出たという供述とつじつまが合いません。彼女は嘘をついています」
マヤの話を確かめるために、ミケランジェロが路線バスの運営会社に行っていたことを思い出した。寝起きの頭では細かい内容をさっぱり把握できなかったが、ジャンニは労をねぎらうために言った。
「分かった。ごくろうさん」
「もうひとつ分かったことがあります。彼女はその2時間後にも……」
「いや、ミケランジェロ、マヤはもういいんだ。犯人はニコラスだったんだよ」
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