第32話 15センチの隙間
ジャンニが事件のあった建物をもう一度見たいと言った。
道は静かだった。2日前は警察や報道関係者の車でいっぱいだったのに、今は殺人事件が起きたことを窺わせるものは何もない。
「昨日、ぼくに話すことがあると言ってませんでしたか?」
ジャンニは質問に答えず、通りの向かいの店を指さした。
「あそこの防犯カメラは確認したのかな?」
古書店だった。金網のシャッターが下ろされ、奥にアンティークの書籍が並んでいる。防犯カメラの映像の閲覧には経営者の承諾が必要なので、店主と連絡をとろうとしているところだ。
「まだです。連絡先を調べているところだったと思います」
経営者の行方がつかめないことは昨日の朝に報告されたのに、モレッリ警部の記憶力は2日と保たないらしい。
「ところで、
ミケランジェロは去年のクリスマスにローマで父親と会っていた。
ゆくゆくは警視の階級になりたい。警視の昇進試験を受けるには修士号が必要なので、働きながら勉強しなければいけない。その件を相談すると、父親は警察を辞めるなら学費を出してやると言った。親戚一同の前で激しい口論になり、それから連絡をとっていない。
「よくは思ってないでしょうね」
「その言い方だと、まだ話してもいないだろ」
ジャンニは吸いかけの煙草でまたフロントガラスの先を示した。事件のあった建物の前に郵便配達員がいて、インターホンを押している。
「集合ポストが中にあるんだよ。ディ・カプアは死んでるし、上の一家は旅行中だ。誰もドアを開けなかったら、あの配達員は郵便物をどうするかな?」
さっきまで防犯カメラの話をしていたのに、もう関心が他に移っているようだ。この人はひとつのことに集中できないのだろうか。
「持って帰るんじゃないでしょうか」
「おれはゴミ箱にぶち込むほうに賭ける」
配達員はすべての部屋のインターホンを押し、応答がないとみるや封筒の束をドアの隙間にねじ込んだ。
「ふん、ありゃうちの近所を担当してるやつじゃないな。そいつ、先週おれが留守のときに郵便物をどうしたと思う? 生ゴミのコンテナに入れやがった。その中にはおれが定期購読してる雑誌も入ってた」
「へえ、ちゃんと分別するように言ったほうがいいですね」
ジャンニは車のドアを開けた。また別のことを思いついたらしい。
「科捜の主任がドアの呼び鈴から指紋が出たって言ってたんだよ。身に覚えがあるかどうか、あの配達員に聞いてくる」
*
郵便配達員はジャンニの質問に、事件当日もその翌日も配達には来なかったと答えた。ならば、呼び鈴を触ったのはやはりマヤだろう。ジャンニは古本屋を指さした。
「あそこはいつもシャッターが下りてるけど、休業中かい?」
「ああ、店主が入院してるらしいよ」
「もうずいぶん前から閉まってるもんな」
店主には息子がいるが、自分の会社をもっていて、父親の店の経営には関わっていないとのことだった。遠からず、この店も他の多くの本屋と同じく廃業という道を辿りそうだ。
事件現場の部屋の鍵は大家から借りてあった。ジャンニは立入禁止の張り紙を剥がしてドアを開けた。室内は初動捜査を終えたときのままだ。殺人があった場所を訪れるといつも感じる、あの不思議な感覚に襲われた。空気が凍りつき、時間の流れが止まったかのように思える。
通りに面した窓は侵入経路ではないことで科学捜査課と意見が一致している。訪問者はドアから迎え入れられた。しかし歓待された形跡がない。食洗機の皿はひとりぶんだし、使ったコーヒーカップもひとつしかない。特に親しい間柄ではなかったのか、あるいは、もてなしにあずかる間もなく凶行に及んだのだろうか。
立ったまま両手をポケットに突っ込み、閃きが訪れないかと期待した。近頃はその閃きに従って進んだ結果カスをつかむことが多いのだが。
凶器は、科学捜査課によれば青銅製だ。何を見るべきか分からないまま寝室に行った。クローゼットは調べた。棚には封筒や書類が入っている。ここも調べ尽くしたはずだ。今さら何かが見つかるとも思えない。
書類の間に小冊子が挟まっていた。学会の会報らしい。研究プロジェクトの受賞を報じる記事が載っている。見覚えのある写真が目に留まった。研究室の壁にも貼ってあった写真だ。ディ・カプアが背広姿で学生に囲まれ、片手にトロフィーを持っている。トロフィーは細い円筒形で、先端が枝や葉の形に彫刻されている。
ジャンニは家の中を見まわした。大学教授は書籍の保管場所に困っていたらしく、キッチンにある扉のない棚にも本が詰まっている。
その本と本の間で一箇所だけ、もとは何かが収まっていたかのように幅15センチほどのスペースが空いていた。
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