第30話 今回は挨拶だと思え

 知る限り、オスカー・ポッジはこれまでに二度、警察の世話になった。もう20年以上前で、ジャンニがまだパトロール警邏隊の巡査部長だった時代だ。


 一度目は路上の喧嘩だった。ジャンニが同僚と駆けつけると、アフリカ系の娼婦がハンドバッグを振り回して小柄な男を殴っていた。相手の男がオスカーだった。喧嘩というよりは一方的に殴られているだけだったが。

 二度目は深夜、泥酔して路線バスの座席で眠りこけ、困った運転手が通報してきた。叩き起こして降ろし、その場に置き去りにすればよかったのだが、つい情け心が湧いてパトロールカーに乗せてやったのがいけなかった。お礼のつもりか、オスカーはジャンニの制服にゲロを引っかけてきやがった。


 そう、娼婦と揉めたり酔っ払って警察を呼ばれたりする情けない男だった。しかし悪党だったわけではない。雑貨屋を営んで地味に暮らしていた。ジャンニは思った――それがどうしてまた、偽造ビジネスなんかに手を出しちまったのやら。


 店は安ホテルや小さな商店が軒を連ねる通りに佇んでいる。ショーウィンドウを覗くと、売り物のポストカードは埃だらけで色褪せていた。照明が消えていて、店主の姿はない。


 ジャンニは署に戻ってシトロエンに乗り込んだ。気温が上がり、蒸し暑かったので上着を脱いだ。オスカーの自宅住所は郊外のアパートメントだった。呼び鈴を押し、次にドアを叩いた。戸に傷がついていた。硬いものを何度もぶつけた跡に見える。ジャンニはなんとなく胸騒ぎに襲われた。誰も見ていないのを確かめ、財布からカードを取り出してドアの隙間に差し込んだ。ドアは施錠されておらず、すんなり開いた。


 部屋の中は嵐が通り過ぎたあとのように見えた。椅子が倒され、強化ガラスのテーブル板が粉砕され、皿の破片といっしょに床に散らばっている。液晶テレビにもヒビが入っている。

 郵便物が落ちていた。公共料金やクレジットカード会社からの督促状だ。


「金に困ってたのかな?」


 ジャンニは廊下に出て、向かいの部屋の呼び鈴を押した。出てきた中年の女は首を伸ばし、荒らされた隣人の部屋を見た。興味津々だ。


「きっとあの男がやったのよ」

「男? 誰です?」

「知るもんですか。ゴリラみたいにでかい男。いつも夜中にやってきて、そこのドアをバットで叩いたり蹴ったりするの。もう怖くて眠れなかったんだから」


 着信音が聞こえた。見まわすと、倒れた椅子のそばに携帯電話が落ちていた。登録にない番号だ。ジャンニは応答をタップし、なるべく打ちひしがれた声を出した。


「おれだけど?」


 外国語訛りがある男の声が言った。

「今回は挨拶だと思え。てめえもそのソファーみたいになりたくなけりゃ、今すぐ耳をそろえて返すこった」


「わかった、金は返すよ。どこで会える?」


 通話は切られた。ソファーの表面はナイフで切り裂かれている。ジャンニは携帯電話をそこに放り、何が起きたのか考えた。


 隣人が見たゴリラは電話してきた男と同一人物だ。ここを荒らしたのもその男だろう。恐らく、借金があることを部屋の主に思い出させるために。オスカーは室内の惨状に驚き、恐怖にかられて逃げ出した――そんなところだろうか。


 今度はジャンニの電話が鳴った。ミケランジェロからだった。


「誰に会ったと思います?」

「知るか、クイズやってる場合じゃないんだ。被害者と付き合いのあった男の家がしっちゃかめっちゃかになってて、本人は行方不明だ」

「その人は事件に関係があるんですか?」

「教授といっしょに身分証明書の偽造に関わってたんだよ。歯を折られたり舌を引っこ抜かれたりする前に見つけないといけないな。少なくと喋れる状態でいてもらいたいから」

「ベリンさんに会いました」

「誰だ、そりゃ?」

「事件現場の上に住んでいる男性ですよ」

「で? スケベ教授を自分が殺しましたって自白したとか?」

「いいえ。でも、聞いてもらったほうがいい話があります。できたらこっちに来ていただきたいんです」

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