第6話 泥棒の流儀じゃない②

 紙でできた身分証明書は複製が簡単なので偽造が横行している。偽造された身分証明書は詐欺や、犯罪者が他人になりすまして逃亡するために使われる。


「そうだろうと思ったよ。見なかったふりして便所に流しちまいたいけど、そうもいかない。偽物の身分証明書を持ってたなら、被害者は違法行為に関与してたのかもしれない。それを踏まえて聞き込みにあたってほしい」


 ジャンニは椅子から腰を上げた。死体発見者の大学生に話を聞かなければいけない。


「そうそう、重要なことを忘れてた。知ってるやつもいると思うけど、〈フローレンス〉の特製ビーフバーガーがしばらく食べられない。どこかのあほうがケイシーをサンドバッグ代わりにしちまったから。あほうを見つけたらジャンニ・モレッリ警部に顔を貸せと言っておくように」


 *


「あの男、見覚えがないか?」


 レンツォの声にジャンニは周囲を見まわした。病院の駐車場を歩いていたときのことだった。


「どの男だい?」

「さっきの写真の男」


 偽造品の身分証明書には短い髭を生やした男が写っていたが、ジャンニには心あたりがなかった。


「いいや。見たことのない顔だったな」

「おれはある。何かの軽犯罪の前科があるんじゃないかな。人の顔を覚えるのは得意なんだ。一度見たら忘れない」

「ここ最近の逮捕者じゃないか? もっとも、その中にいるならおれが知ってると思うけどな」


 日差しが強かった。こんな日は病院じゃなく、海辺にいられればよかったのに。事件なんか放り出し、デッキチェアに寝転がって……欲を言えば隣にビキニのお姉ちゃんがいてくれると……

 豊かな乳をたわわに弾ませるモニカ・ベルッチ似の美女がジャンニの肩を優しく撫でたところでエレベーターのドアが開き、妄想は霧散した。スーツを着た年配の女が同僚の刑事にくってかかるところが見えたからだった。


 *


「今すぐ退院させていただきますわ」


 死体を発見した大学生の母親だった。きびきびした態度は会社の重役を思わせる。


「娘は真面目で、問題を起こしたこともないんです。なのにこんなところで警察に監視されて、まるで犯人扱いじゃありませんか」


 麻薬取締課のアンナ・メルカード警部がジャンニを見て、ほっとした表情になった。警護のために送り込まれたのだが、ずっとこんな調子で文句を浴びせられていたにちがいない。


「病院側はもう退院していいって言ってる。早くベッドを空けさせたいみたい」

「わかった。あんたがいてくれて助かったよ、アンナ。あとはおれたちが引き受ける」


 大学生は名前をマヤ・フリゾーニといった。まっすぐな黒髪を背中まで伸ばし、Tシャツにホットパンツ姿でベンチに腰掛けている。潰れたリュックサックが脇に置いてある。


「マヤ、昨日のことを刑事さんに話してあげなさい」


 母親に促され、マヤは青ざめた顔を上げた。


「教授の家に行ってインターホンを押しました。応答がないので電話しようとしたとき、ちょうど郵便配達の人が出てきたんです。それで中に入りました」


 正面玄関の扉はオートロックだが、タイミングよく誰かが出てくれば入れ違いで入れる。


「インターホンに出ないのは、中にいるけど聞こえてないからだろうと思いました。でも、違ったんです。だって……」


 現場の有様を思い出したか、唇がふるえる。


「もう充分でしょう。娘は恐ろしい経験をしたんです。これで終わりにしてもらえるかしら、家に連れて帰るんですから」

「供述調書をとりたいんで、いちど警察署に来ていただく必要があります。その後なら市外に出ても構いませんよ」

「警察署なんて! 今話した内容で作成するわけにはいきませんの? この子にはもう辛い思いをさせたくないんです」

「ママ、あたしなら大丈夫。フラヴィアに一緒にきてもらうこともできるから」

「失礼。フラヴィアってのは?」

「いっしょに住んでる友達です」

「教授の家に着いたとき、部屋のドアは閉まってたかい?」

「開いてました。入口から中をのぞいたら、彼が倒れていたんです」

「家に行った理由を教えてくれるかな」


 マヤは目をそらし、剥げかかった爪のマニキュアを見つめた。


「勉強会の予定だったから。友達が来られなくなったんでひとりで行ったんです」

「お分かりでしょ? 娘は勉強熱心なんです。なのに事件に巻き込まれるなんて……いいですか、今回のことにマヤは一切いっさい関係ないんですからね」

「ええ、分かりますよ。もう退院いただいて構いません。ここにいるおれの同僚が、今から手続きについてご説明しますんで」


 ここにいる同僚といえばひとりしかいないので、レンツォがぽかんとしてジャンニを見た。


「手続きってなんですの? 病院の支払いなら済ませましたけど」

「いや、証人保護プログラムの適用にあたって同意書にサインを頂かないと」

「証人保護プログラム?」

「マヤは殺人事件の証人です。犯人に命を狙われる可能性がある」


 もっともらしく見えるよう、ジャンニは神妙な顔をこしらえた。


「彼女を危険にさらすわけにはいきません。法律第なんちゃら号により、マヤは政府の保護下に入ることになりました。娘さんには新たな身分が与えられます。移転先ではミサイル攻撃にも耐える丈夫な家が提供されます。詳しいことはあちらで……おい、きみ、何をぼけっとしてんだ、奥様をお連れしろ。ご説明するんだぞ」


 ふたりを廊下に押し出し、ジャンニは大学生に向き直った。


「さて、今のうちに話しておきたいことは?」

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