第50話 サファイア色の記憶
お前さんが責任を感じる必要はない、とジャンニは病院で言った。
――発見がもうちょい早けりゃニコラスが飛び降りるのを防げたかどうかは、怪しいもんだ。釈放を決めたのはおれだし、責任があるとしたらおれだよ。
とはいっても、レンツォは自分が悪いと思った。置き去りのリュックサックはずっと気になっていたのだ。すぐに中身を検めていれば、大学院生が今頃いたのは警察署であって救急治療室ではなかったはずである。
家の前にスクーターを駐めたとき、暗がりに立っている人影に気づいた。他の住人の知り合いかと思ったが、玄関に近づいたところで誰だか分かった。
女が煙草を捨てて踏み消した。
「元気だった?」
「……ステフィ?」
驚きと戸惑いですぐに声が出せなかった。5カ月会っていなかった恋人のステファニアだ。足元に吸い殻がいくつも落ちている。
「もしかして、待ってたの?」
「そうよ」
「電話してくれればよかったのに」
細身の黒いパンツに、着崩した白いシャツ。首を傾げると、肩まで伸ばした黒い髪が揺れる。
「来たらまずかった?」
「そうじゃないけどさ……」
ワインぐらい買っておけばよかったと思った。長い一日が続いて買い出しに行けず、戸棚も冷蔵庫もほとんどからっぽだ。冷凍のパスタソースくらいしかない。とりあえずお茶を淹れようとケトルに水を注ぎ、コンロの火を最強にした。
ステファニアはローマのエステサロンで働いている。フィレンツェにいるということは、今日は休みなのだろう。ソファの上にバッグを置き、座ろうとはせずに部屋の中を見まわしている。
「仕事はどう? 今は機動捜査部なんでしょ?」
「うまくいってる」
「なんだか疲れてるように見えるけど」
「そんなことないよ。こっちには今日来たの?」
「そうよ」
「えっと……休暇で?」
「いいから、私のことは気にしないで。やっぱり疲れてるでしょ。ほら、肩が凝ってる」
肌が触れると、記憶にある濃厚なバニラの香りが鼻をくすぐった。優しくリラックスをうながす手つきに緊張がほどけていくのがわかる。
「来るなら、どうして言ってくれなかった?」
「来ないほうがよかったってこと?」
「そうじゃなくて、食事に誘えたかもしれないと思って」
「この時間まで仕事だったのに? 大事なのはこうして会うこと。私たち、ちょっと険悪な感じで終わってたじゃない? どうしてるかなと思って。会えて嬉しい?」
「すごく嬉しいよ」
本心だった。半年近く離れていたのが嘘のようだ。責められると思っていたが、そのつもりはないらしいので安堵した。ステファニアも微笑んで首に抱きついてきた。
「よかった」
民族調のモチーフを彫った木彫りのチョーカーは、付き合いはじめた頃に買ってプレゼントしたものだ。何も考えず、互いの存在を感じるだけでどんなに幸せだったか思い出した。
「私を愛してる?」
心を見透かすようなサファイア色の瞳。
ステファニアとは友達を通じて知り合った。バカンスで彼の地元の島に遊びに来ていたのだ。いちばん景色がいい丘に連れて行き、観光客が来ない浅瀬を教えてやり、手をつないで波打ち際を散歩した。楽しくて仕方がなかった。千年でもこうしていたいと思ったものだ。
だんだん彼女の機嫌が悪くなるまでは。
「分からない」
「あ、そう。分からないの」
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