第9話 フラッシュバック

 レンツォは病院のカフェテリアへ行き、エスプレッソをふたつ注文した。大学生の母親には席で待つよう頼み、そのあいだも写真の男が誰かを思い出そうとした。


 証人保護プログラム? なんだよそれ。


 ジャンニの考えは分かっている。死体を発見した子と2人だけで話したいから母親を引き離しておけってことだ。だったら率直に、しばらく席を外してほしいと言えばすむ話だ。ふざけてるんじゃないのか、あのおっさん。上手く追い払ったとでも思っているのだろうが、後始末は全部こっちにくるのである。


 病棟に併設されたカフェテリアは明るく、全面ガラスの向こうに広大な敷地が見渡せた。花壇の黄色いポピーの花を見ていると、5カ月会っていないステファニアのことを思い出した。地元のワイナリーを巡るツアーに一緒に参加したとき、この花が一面に咲いていたのを覚えている。


 ステファニアとは夏に知り合い、すぐお互いに夢中になった。しかし、関係は秋になると悪化した。どうすれば彼女を怒らせずにすんだのか、いまだに分からない。


 別れたいならはっきり言ったらどうなのよ。

 私のどこがいけないのか教えて、直すから。


 いけないところなど何もなかった。全部自分が悪い。ステファニアは浮気を疑っていたが、別にそういうわけではなかった。警察学校で3カ月間の特別研修がはじまり、それだけで精一杯で彼女のことを考える余裕がなくなったのだ。

 ステファニアからは日に20回も電話がかかってきた。電話に出なければ責められ、出れば口論ばかり。それが嫌で逃げ続けているうちに、関係を続けたいのかどうか分からなくなった。3カ月前、怒りの音声メッセージがきた。


「ねえ、私のこと覚えてる? もう忘れたんでしょ。私はずっとあなたのことを考えてたんだけど。遊びだったんだ、そうよね、よく分かった。この嘘つき、くそ野郎、裏切り者。顔も見たくない。声も聞きたくない。もらったものは全部燃やしたから。連絡先もチャットも消して二度とあなたの前に現れないようにするから。嬉しいでしょ? じゃ、さよなら。バーカ」


 大学生の母親はかっちりした服装で顔がきつく、どことなく小学校の先生を思わせた。小学校の先生には叱られた記憶のほうが多い。


「どういった同意書にサインすればよろしいのかしら?」


 証人保護プログラムは警部の作り話です、とは言いたくても言えない。レンツォはありもしない書類を捜すふりをして警察署に忘れてきたと言った。


「そうなんですか。じゃあサインはできないのね?」

「ええ、その件については警部から説明があるんじゃないかと……」

「あなたがたのお話、理解できないわ。書類があるって言ったり、ないって言ったり。わたくし朝6時の列車で来たんですよ。娘を連れて帰るのに警察の許可がいるなんて、まるで囚人じゃないですか。マヤは容疑者じゃないのよ、こんな目に遭って、被害者ですよ。被害者に警察署に行けとかサインしろとか言うのがあなたがたのやり方なのね。犯罪者の人権は大事にするくせに、そうじゃない善良な人の権利はどうでもいいのかしら。この国で警察に人並みに扱ってもらうには犯罪者にならないといけないってこと? そうなんですね、よく分かりました。この件は正式に苦情を申し立てさせてもらいます」


 頭の中でジャンニを射撃練習用の人型標的にしてやった。


「娘のところへ戻ってもいいかしら?」

「ええ、よかったらコーヒーを……」

「いいえ、結構」


 砂糖をぶち込んだエスプレッソを喉に流し込んだ。


 機動捜査部モービレは自分には向いてないのかもしれない。だしぬけにそんな考えが浮かんだ。フラストレーションを感じるのはジャンニという人間が上司になったからだろうと思っていたが、違うのかもしれない。


 レンツォは半年前まではパトロール警官だった。家庭内暴力や銃撃や引ったくりの現場に急行する毎日で危険と隣り合わせだったが、今よりは人の役に立っていたような気がする。


 夜道で女性のハンドバッグを奪った男が頭に浮かぶ。あれは何年前だったか。被害者がすぐに通報してくれたおかげで、同僚とともに駆けつけてバッグを取り戻すことができたのだ。感謝されたから記憶に残っている。指令を受けて近辺をパトロールカーで流すと、男はまだ現場近くにいた。奪ったバッグを抱え、道を渡っているところだった。ヘッドライトに照らされ、怯えたように目を見張る。フードをかぶっていたが、顔の造作ははっきり見えた。濃い眉毛、深い眼窩、顔の中心を占める大きな鼻。髪は黒くて口元と顎に無精髭を生やしている。


 レンツォは椅子を後ろに跳ね飛ばす勢いで立ちあがった。

 身分証明書の写真の男をどこで見たか思い出したのだ。あのときの引ったくり野郎の顔だ。

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