第2話 犯人は犯行場所に戻る?

 ミケランジェロ・ヴェッルーティ警部は国家警察POLIZIA DI STATOと書かれた立入禁止のテープをくぐった。


 急な指令だった。翌日からフィレンツェの中央警察署で勤務だと上長に言われたのだ。


 異動先は、機動捜査部スクアドラ・モービレの殺人捜査課。


 何かの間違いではないかと思った。緊張と興奮に胸が高鳴った。機動捜査部は殺人や麻薬取引、組織犯罪、テロ活動などの捜査にあたる国家警察の特殊部署だ。多くの警察官の憧れで、希望しても入れない人がたくさんいる。なのに、警察学校を出てまだ1年、書類作成しかやったことのない自分が抜擢されたのだ。


 救急車の横に中年男がひとりいた。薄汚れた黒のダウンジャケットに、折り目が消えたよれよれのズボン。だらしない風体で、何をするでもなく眠そうな顔で突っ立っている。

 人相を覚えておくべきだろうか、とミケランジェロは思った。科学捜査班のバンがあるからには殺人事件だ。あの不審な男は犯人かもしれない。犯人は犯行場所に戻るという話を聞いたことがある。


「すみません、ジャンニ・モレッリ警部はどちらですか?」


 立哨の警官に尋ねたとき、背中をつつかれた。振り返ると、救急車の横にいた男だった。


「来てくれ。通報したやつに話を聞かなけりゃいけないんだ」

「でも、ぼくはモレッリ警部の指示に従わないといけないんです」

「おれがそのモレッリだよ」

「えっ?」


 雑に撫でつけた白髪交じりの短い髪、無精髭が目立つ顎、垂れ下がったまぶたに怠そうな声。殺人課の主任と聞いてパリッとした格好の敏腕刑事を想像したのだが、その期待は一瞬で裏切られた。


「そう、おれが今から残業しなけりゃならない、気の毒なモレッリ警部だ。見なかったふりをしてくれりゃいいのに、通報なんかするやつがいるせいで」


 首にだらっと巻いた薄いストールをなびかせ、警部は階段を登っていった。


 現場はプラスチックの足場で保護されていた。そこを科学捜査員が歩いてきて床の上の血痕を示した。


「足跡は寝室に続いている」


 ひょいと首を突っ込んで警部は鑑識作業を眺めた。

「発見した子の足跡かな?」


「いや、男の靴だよ。左足で、サイズは43程度」

「なるほど、おれたちは足の大きさ43の男を捜し出せばいいわけだ。ありがたいよ、容疑者をざっと5万人くらいに絞り込んでくれて」


 灰色のパーカーに警察のベストを着た若い男が、パスポートを開いてモレッリ警部に見せた。


「ジャンニ、死体の身元がわかった。フランコ・ディ・カプア、55歳。大家によれば2年前からこのアパートに一人暮らしだった」

「レンツォ、ミケランジェロだ。今日からチームに入ってもらう」


 同じく殺人捜査課のレンツォ・ジュスティーニはミケランジェロを見て、なんだよこいつ、ガキだなと思ったらしいが口には出さなかった。


「よろしく」

「で、あちらさんに家族は?」

「離婚していて、子供はいない。通報したのは上の住人だ。その上にも4人家族が住んでるけど、先週から旅行で留守だってさ」


 郵便物は市内の大学から届いたものが多かった。宛名にフランコ・ディ・カプア教授とある。部屋の住人は大学教授の職に就いていたらしい。


 ジャンニは茶色の封筒を手にとった。

「大学教授ってのはこんな安っぽいアパートじゃなく、湖畔のロッジかなんかで優雅に暮らすもんだと思ってたよ」


 宛名も送り主の名前もない。逆さにすると、共和国が発行する身分証明書が出てきた。貼ってある顔写真は、床に横たわっている男のものではない。


 氏名の欄にはアントニオ・ビアンキとある。


「他人の身分証明書だな。名前が違うし、顔もどうみたって別人だもの。調べてといてくれ」


 死んだ男は、転倒して頭をぶつけたのでなければ何者かに襲われたと考えてよさそうだった。その何者かは金目のものを持ち去らなかった。現金とクレジットカードが入った財布、ノートパソコンは無事だ。携帯電話は見つからない。

 寝室のクローゼットから衣類が引っ張り出され、書類といっしょに床に散らばっている。

 書架には本がぎっしり詰まっていた。2つある本棚では収まりきらず、キッチンの食器棚にも本が並んでいる。


「よし、ミケランジェロ君、ついてきな。通報したお節介焼きと話してみよう」

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