万年警部と殺しの流儀

橋本圭以

水曜日

第1話 殺人現場に残った足跡

 床には血の色の靴跡があった。観察しようと腰を屈めたとき、着信音が鳴った。


「通信指令室です。男性の死体が発見されました。場所は――」

「ボルゴ通りだろ?」


 フィレンツェの旧市街にあるアパートメント。俯せで倒れている男は50歳前後か。少量の血が床のタイルを鮮やかに染めている。


「そうです。もう現場ですか?」

「ああ、たまたま近くにいたんだよ。さぼろうと思って出てきたのに、このざまだ」


 最初のパトロールカーが到着したとき、殺人課の主任を務めるジャンニ・モレッリ警部は行きつけのバールで固いパンにかぶりついていた。まずいのは知っていたが、昼飯を食いそびれていたのでつい注文してしまったのだ。


「科学捜査課をよこしてくれ。あ、そうだ、うちの警視長がまだいたら繋いでくれるかい? さっきからしつこくかけてきやがるんだ。あいつ、普段はそっけないくせに、こっちが冷たくすると女みたいにぶうたれるから――」


 電話の向こうで雑音がして、警視長の冷ややかな声が割り込んだ。


「ジャンニ、私だ」


 くそ、すぐ横に居やがった。通信指令係のやつ、それならそうとどうして言ってくれないんだ。まさか通話をスピーカーフォンに切り替えてなかっただろうな? 


「おや、そこにいたのか。すまなかったな、さっきは出られなくて。なんか用かい」

「メルセデスの捜索はどうなっている?」


 ドアに侵入の形跡はない。玄関から入って左にダイニングを兼ねたキッチン。死体はそこにある。


「どうもこうも、他の盗難車と同じだろ。出てくるかもしれないし、出てこないかもしれない」

「なんだね、その、やる気のない口調は。所有者が代議士であることは伝えただろう。そのへんの車両盗難とは違うのだから、国家警察の威信にかけて取り組んでもらわなければ」


 ワイングラスが落ちて割れている。食洗機に皿とフォーク、カップが一揃い。流し台には鍋と油が固まったフライパン。


「そんな時間ないよ、死体が出たんだ。盗難車にかまってる暇なんかありゃしない」

「死体と言うが、きみは今どこにいるんだ。まさか現場に足を踏み入れていないだろうね。前回の事件で証拠物件を汚染したのを忘れたわけじゃ……」


 数カ月前、死体の上にうっかり煙草の灰を落として捜査に支障をきたしたことを言っているのだ。

 ジャンニは急いで2階の窓から身を乗り出し、短くなった煙草の火を外壁にこすりつけて消した。5月の夕暮れ。下の通りではパトロールカーが青い光を放ち、制服警官が道に立入禁止のテープを張り渡している。


「まさか、そんなわけないだろ。現場には手をつけてない。到着してもいない。ちんちんの先っぽさえ入れてない」

「何かあれば関係各所に言い訳しなければならない私の立場を考えてもらいたいものだ。現場は科学捜査課に任せ、きみは手を触れずに状況の把握に努めたまえ。それと昨日の報告書だが、なんだね、あれは。私は小学生の日記を提出しろと言ったのではない。決められた書式に従って記入したものを――」

「あれ、よく聞こえないな。申し訳ないけど一旦切るよ。じゃ、あとで」


 さっさと通話終了ボタンを押し、足跡を眺めていると電話がまた鳴った。警察署の受付デスクにいるアントニーノからだった。


「ジャンニ、あんたに会いたいっていうガキが来てる」

「ガキって誰だい?」


 ジャンニは不審に思った。まさか、おれが父親だとか言い出すんじゃないだろうな。


「ヴェッルーティとかいうやつなんだけど」


 それで分かった。新しい捜査員だ。警察に入ってまだ日が浅いが、なんでも上院議員のご子息なので、指導にあたってはくれぐれも失礼のないようにと仰せつかっている。


「あんたの課に配属されたから挨拶したいと言ってるんだが、なんかの間違いだと思う。どう見ても高校生みたいな子供だぜ。ここは警察学校じゃないし、研修もやってないって言ったんだけどさ」

「新しく配属された警部だよ。おれは外だから、明日また来いって伝えてくれ」


 昔は、機動捜査部スクアドラ・モービレに入りたければ少なくとも10年はパトカー勤務をこなし、辛抱強く異動願を出し続けたものだった。最近はどうなのか知らないが。


 電話を切ろうとして、ジャンニは考えた。どうせ明日入るなら、せっかくだからこき使ってやろう。


「いや、やっぱりこっちへよこしてくれ」

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