第5話 人質事変

俺の退学騒動から早四日。高校二年生になって初めての週末を迎えていたが、生活費を捻出しなくてはならない俺達孤児にとっては金を稼ぐ絶好の機会に過ぎない。それにカフェ〝雄大な原っぱ〟にしても書入れ時だ。俺はしっかりとオープンからラストまでシフトを入れていたし、バリバリ働くつもりでいたのだが、そうは問屋が卸さなかった。二年生になってからの俺は、どうやら巻き込まれ体質が目覚めてきているらしい。


 出勤するやいなや、原さんが俺をらんらんとした目で見てくるので、何事かと思い問う。


「おはようございます。なにかありましたか?」「おはよう!あのね、鉄郎ちゃんに最高にハッピーなお知らせがあるのよ」


そう言って原さんは休憩室に向かって手招きをする。俺は連日のこともあり、かなり警戒していた。傾向と対策…俺の最も得意とする所だが、それに照らして考えると、ろくなことではないだろう、そんな気がしていた。


「あ、あの…こんにちは」


低い所から気の抜けた挨拶をされ、吐こうとしていた俺の毒気も抜けてしまう。


「おお…久しぶり、でもないよな。」


秋風さんは笑顔とも言えないような、わずかに口の端を吊り上げた表情で応えた。俺は原さんに向き直り、あえて仏頂面になるよう意識して言う。


「なんで…いや、理由を聞いても仕方ないですよね…。どうして急に従業員を募集したんですか。僕だけでも十分だったじゃないですか。」


原さんはますます嬉しそうに、人差し指をピンと立てて短く告げる。


「だって女の子も欲しかったんだもの。」


「……そうですか……」


単純かつ明朗な回答。もとより、好意で雇ってもらっている俺に反論の余地は一切なかった。行き場を失った言葉を秋風さんに向ける。


「なんでここにしたんだ?」


秋風さんも心なしか仏頂面で答える。


「前に通りかかった時、すごく素敵なお店だと思って…丁度バイトも探してましたし。」


 「そうか…」


 そういう俺の表情は、すでに浮かべていた仏頂面のまま。しかし秋風さんが不機嫌そうなのは少し気がかりだった。好かれているとは微塵も思っちゃいないが、俺がいるというだけでここまで表情に出す人間では無かったような。少なくとも先週までは。 


 「なんでそんなに嫌そうなんだ。先週の件で、あんなに交流を深めたじゃないか。」


 そうおどけて聞いてみると、秋風さんは露骨にぎくりとした顔になる。


 「わ、私、不機嫌そうな顔してました⁉」「ああ、この前とは別人みたいだぞ」


 言われて秋風さんは顔を両手で覆い、何かぼそぼそと呟いた後に「すみません!先輩が嫌いなワケじゃないんです!」と言い残して休憩室に戻ってしまった。


 俺はそれに面食らう様なことはなく、むしろ秋風さんらしい奇行がやっと見れたことで安心した。気を取り直してオープン前の準備に取り掛かる。秋風さんの相手をするのもそれはそれで愉快ではあるが、土日は平日と打って変わって非常に忙しいのだ。コーヒーだけではなくサンドイッチやパスタ等の軽食もこのカフェでは販売しているので、食材の仕込みが日々欠かせない。それに抹茶ラテやカフェモカ等のデザートドリンクもメニューにあるので、そちらもある程度の準備をしておかねばならない。カフェ店員の朝は早いのである。


 原さんも俺の隣で仕込みを始めたが、しばらくすると顔を寄せてきてささやく。


 「鉄郎ちゃんも、隅に置けないわね♪ただ、女の子にあんまりデリカシー無い発言はNGだから気をつけてね!」


 「何を意味の分からないことを…もう七時ですよ。看板出してきて下さい。レジは僕が開けておきますから。」


 「は~い。ありがと!」原さんがベルを鳴らして、入り口に立てかけてあった看板兼メニュー表を出しに行く。そして俺は考える。


 今のわずかな間で俺はデリカシーの無い発言をしたのだろうか?女の子という発言から該当者は秋風さん一人だ。原さんはとても女性的だが、性別は男を自称している。俺がイマジナリーフレンドの女の子と喋っている可能性もわずかにあるが、覚えはない。ということは秋風さんとの会話の中で配慮を欠いた物言いがあったことになるが、本当に、間違いなく心あたりはなかった。


 レジをしながらそんな内省をしていると、当該者の秋風さんが先ほどはしていなかったサロンをしてカウンターに入ってきた。手をキッチンペーパーで拭いているのを見るに、洗い物をしてくれていたらしい。俺はそれを見て言う。


 「洗い物、ありがとう。制服似合ってるよ。今日からよろしくな。」


 それを聞いて秋風さんはまたしても顔を覆ってしまうし、中に戻ってきた原さんも少し非難めいた眼差しを向けてくる。


 なんなんだ。職場での円滑な人間関係が、理由も分からないまま崩壊の危機じゃないか。俺は確かに会話が得手とは言えないが、こうもマイナスの影響が出ると流石に自らの能力の無さを憂いてしまう。先週は非常に冴えていた節があったので、反動かもしれない。






 言い訳するんじゃないけど、〝雄大な原っぱ〟に亜門先輩が勤めているなんて知らなかった。本当に知らなかった!


 白木さんと入学式をサボった次の日は、学校に行くのが少し怖かった。何しろ初日からサボり、しかも最初のHRの最中に出ていってしまったのだ。絶対ヘンな人扱いされるだろうし、友達作りのハードルはかつてないほど上がっているだろうと思った。


 結局白木さんの家に泊まったので、彼女と一緒に登校した。そのことが私をとても勇気付けてくれたので、よし!と覚悟を決めて教室に入ると、私の不安は全部杞憂だということが分かった。クラスのみんなは、自らを省みず友達を助けに行った私を総出で称賛してくれたし、教師も特に何も言ってこなかった。もしかしたら、あの人にも後ろめたさがあったのかもしれない。


白木さんに至っては現人類を撃退したヒーロー扱いだった。彼女はずっと「私じゃなくて亜門先輩が…」と言ってたけど、皆は亜門先輩と比較して明らかにスペックの高い白木さんの、見上げた謙遜だと解釈してしまったみたい。


 彼女が修行で疲れていてあまり事件のことを自ら言わなかったのもあり、彼女は一年生にしてあの生徒指導部の上級生に勝利し、先生の圧力にも屈しない、前評判に違わぬ超優秀な人物なんだ!という認識が、もう次の日には学年中に広まっているらしかった。


 当の白木さんは、皆の評判なんか全然気になってなくて、お昼ご飯のたびに、「秋風さん、私、第七感の扱いも天才かも」と言って、私と、もう一人仲良くなって一緒にご飯を食べる冬木さんというクラスメイトに修行の成果を見せてくれた。自信たっぷりで超然としている彼女はとてもかっこよくて、私、ますます白木さんという人間の沼にはまっちゃいそう。


 冗談はさておいても、彼女の第七感は目覚ましい成長を遂げていた。どれ位かというと、てんで素人の私にも、成長が分かるレベル、っていったらいいのかな。亜門先輩に見てもらわないの?と聞くと、「驚かせてやるんだ」と言って悪戯っぽい笑みを浮かべていてとても可愛かった。と、まあこんな感じで、今週の白木さんはずっと第七感の修行に夢中。


 私はというと、恥ずかしいことに、亜門先輩のことが少し気になっていた。というかそのことを、自覚してしまったことが恥ずかしかった。


 事件のあった日、天音崎先輩ともお話することができたんだけど、その時に亜門先輩との空気感が独特なことに気づいた私は、(ちなみに白木さんは全く気付いていないみたいだった)少し不躾な質問を二人にしてしまった。そしたらすごくキュンとする答えが返ってきて、ちょっと前まで中学でお遊びの様な恋愛話をしていた私にとって、なんだか大人の恋愛みたいに感じられてすごくテンションがあがったんだ。


 問題はその翌日から。授業中にも、休み時間にも、白木さんを助けて、私達にすごく優しく接してくれた亜門先輩の姿がフラッシュバックするようになってしまった。もともとあまり良い印象を持ってなかったことも手伝ってか、本当は理知的で、冷静な先輩が見せるギャップに正直ときめいていた。背も高いし、顔も地味だけど整ってるし。


 でもそれは、あの表情を見せてくれた天音崎先輩にすごく悪いことをしてると自分でも分かっていた。そう、それに、天音崎先輩と亜門先輩は幼馴染だっていうし、そんな関係のお二人に私みたいな部外者の感情は邪魔だってことは重々分かってる!


 けど、はっきりと亜門先輩が〝まだそういうんじゃない〟って言ってたし、天音崎先輩も頷いてたしなぁ…別に遠慮する必要はないのかも…


 いやいや!ありえない!大体優秀ですっごく美人な天音崎先輩に、私が張り合おうとする時点で間違ってるよ!おこがましいにも程があるし、亜門先輩の気持ちも全然考えてないよぉ…


 と、こんな調子で思い悩んでいたから、新入生テストの成績はあんまりよくなかったし、部活にも全然興味が持てずにいた。けどそれじゃ良くないと思って、かねて挑戦してみようと思っていたアルバイトに応募してみたんだ。前から気になってたカフェの、素敵なオーナーと金曜に面接をして、「明日からよろしくね!」って言われて喜んで来てみたら…


 私の悩みの種である亜門先輩ご本人のまさかの登場だった。私は複雑な気持ももちろんあったけどやっぱり嬉しくて、顔がにやけない様に表情に力を入れていたんだけど、亜門先輩にそれを指摘されて滅茶苦茶恥ずかしかった。心の中で飛び上がっているのを見透かされたみたいだったから。亜門先輩なら、何でもお見通しな気がするし。


 先輩は相変わらず優しい。制服も似合ってるって誉めてくれたし、仕事も丁寧に教えてくれる。この土日は結構忙しかったけど、私の教育もしながらテキパキと仕事をこなしている姿は、とてもカッコよかった。


 そんなこんなで、私史上最も濃かったこの一週間を思い返しながら、今私は帰路についている。最初はいろいろ不安だったけど、良い出会いもいっぱいあって、ちょっと気になる人もできて、最高の高校生活のスタートを切れた気がする!バイトも頑張ったし、自分へのご褒美にコンビニでおやつでも買って帰ろうかなぁ~。


 上機嫌で角を曲がった瞬間、視界が闇で覆われた。






 待ちに待った月曜がやってきたのが分かった。私は、道場に差し込む朝日で目を覚ます。どうやら、修行をしながら寝落ちしてしまったらしい。けど私の体は多少無理をしても平気な特別性。絶好調とは言わないまでも、体は十分に軽かった。


 膝を叩いて勢いよく立ち上がり、準備をする。道場の二階にシャワー室とちょっとしたキッチン、冷蔵庫が備え付けられているので、身支度や食事はここで済ませ、家屋に戻らないまま家を出ることもままある。我ながらずぼらな性格だ。


先週から、秋風さんと一緒に登校している。学校の最寄りで八時に待ち合わせだ。今日はちょっと寝坊しちゃったから、それには間に合うように出ないと。


 確認も兼ねて、100%のジュースを飲むためのグラスを乾燥機から第七感で引き寄せることにする。手をその方向へ伸ばし、軽く手の先に集中をこらす。するとグラスはほとんど震えず浮遊してきて、ゆっくりと手の中に納まった。


 「ふふ…」と私は思わず声を出して笑う。


 完璧だ。この程度なら全神経を注がなくても出来ている。その証拠に、今私は冷蔵庫からジュースを取り出しながらその動作を行ったのだ。


 根を詰めて新しいことを習得しようとする際、専心しすぎるあまり、まるで夢見心地のように実感を得られないことが私にはよくあった。だが、こうして丁寧に反復作業を行うことで、不安を自信にいつも変えてきたのだ。今回も、しっかりと血肉になってくれたみたいね。ぶっちゃけ、あんな屑に負ける未来が見えない。


 家政婦さんが洗っておいてくれた制服に腕を通し、学校指定のスクールバックを肩に引っ提げて、意気揚々と学校に向かった。しかし、秋風さんが最寄り駅に現れない。メッセージを送ってみても、無反応。なにかあったのかな。先週、随分ハードだったから、精神的な疲れで風邪をひいちゃったのかもしれない。


 しばらく待ってみたけど、秋風さんは来なかった。まずい。私もそろそろ行かないと遅刻してしまう。申し訳ないけれど、彼女のことはひとまず置いて急いで学校に向かう。


 HRで秋風さんは風邪だと担任が告げたので、空き時間でお見舞いに行ってもいいかという旨のメッセージを送り、その後はもうそわそわしっぱなしで授業を受ける。冬木さんという、いつも三人でご飯を食べる友人も、秋風さんのメッセージに既読がつかないことを不審がっていた。そしていよいよ放課後。現人類校舎側のグラウンドで十五時三十分から試合は行われることになっていた。


 帰りのHRになっても既読がつかない秋風さんに私は結構な不安を覚えていたけど、体調が悪い時ってそんなにスマホは見ない。しんどくて見れないのだ。私もそうだし、秋風さんもきっとそうなんだろうと勝手に結論付けてあまり重くは捉えていなかった。勝利の報告を、お見舞いに持っていこう。そんなお気楽なことも考えていた。


 担任が出るやいなや席を立つ私に、クラスメイトから声援が送られる。


 「頑張って!白木さん!」「怪我には気をつけてね!」「現人類なんかに負けんな!」


 私も全力でそれに応える。


 「みんなありがとう!私、勝ってくる!」


 力強く拳を上げ、高らかに宣言する私の言葉に教室は湧く。こんなに団結している私達が負けるわけがない。隣のクラスの生徒が、廊下から物珍しそうに一年一組を見ているのが写った。


 グラウンドに出ると、生徒指導部と妻ヶ木ゼミの全メンバーが、顔を突き合わせているのが見える。


 「妻ヶ木。ヤキが回ったな。四月、新入生の注目も高まっているこの重要な時期に、一年坊とうちの二年生を試合わせるとは。白木真も気の毒にな。」


 ふんぞり返ってそう言っているのは、おそらく生徒指導部長の望月ってやつだ。ゼミ長も負けじと腕を組み言い放つ。


 「そっちこそ。望月先輩ともあろう人が、白木真のポテンシャルを測り損ねるとは思いませんでしたよ。評判は聞いてるでしょう?」


 「まあな。だがその風説は、我が生徒指導部を脅かすほどのものではないと判断したまでだ。先週の件で、力関係がはっきりしたとはまさか貴様も思っていまい?」


 ……なんか、会話がやたら芝居がかってない?どう入っていったら良いか分からないんだけど…それに、当事者とはいえ私の名前が登場しすぎていて、少々照れくさい。


 少し離れたところで佇んでいると、ゼミ長が私に気づいてくれ、


「今日、はっきりすることですよ。」と言いながら手招きをする。


 天音崎先輩はにっこり笑って、亜門先輩はなぜか少し張り詰めた表情で迎えてくれた。


 「ねえ、白木さん。さっき葵と話してたんだけど、これが終わったら皆で歓迎会をしようと思ってるのよ。よかったらどう?」


 と、この上なく魅力的な提案を天音崎先輩がしてくれる。私は前のめりで答える。


 「素晴らしい提案ありがとうございます。是非行かせてください!」


 「よし、決まりね!いいわね、鉄君。来るわよね。」


 そう圧力をかけられて亜門先輩は苦い顔をしている。


 「ああ……行くよ。行けばいいんだろ。」


 そう低い声で言うと、私の方を見て、さっきも浮かべていた、らしくもない真剣な面持ちで語り掛けてくる。まあ、私が亜門先輩の何を知ってるんだって話なんだけど。


 「感覚痛になってないか?もしなってたとしたら、治ってるか?」


 私はピースまでして元気よく答えて見せる。強がりではなく、本当に体の調子は良かった。


 「無問題ですよ!もしかして心配してくれてます?だとしたら、それはしまっといてください!修行はバッチリですから‼」


 意趣返しのような私の返答に、先輩は苦笑いしてポケットに手を突っ込んだ。


 「根に持ってるのか?悪かったよ。問題ないならそれでいいんだ。」


 少し様子のおかしな先輩にどうしたのか聞こうと口を開いたと同時に、審判と思しき鉢巻きをした男子生徒が笛を鳴らした。生徒指導部、妻ヶ木ゼミの面々が一気にそちらに注目する。今気づいたけど、さっき私が来た時点には姿の見えなかった勃起男がグラウンドに現れていた。相変わらず、ムカつく顔をしているので睨みつけてやると、向こうも私の視線に気付き、下品な顔でニヤついた。ふん、そんな表情してられるのももう終わり。ゼミ長も言ってたけど、どっちが強いかは今に分かることなので、特に心を波風立てることもない。


 審判がルールを説明するためだろうか、紙を内ポケットから取り出している。事前にゼミ長から、尋常高校において正式に試合う際にはいくつか規定があると聞かされていたので、きっとそのことだ。ゼミ長が言うには、私に不利になるようなルールは無いらしい。いや、そもそも、旧人類と現人類でフェアな勝負が出来るからこそ、リベンジの機会として試合を設けてくれたんだろうな。じゃないと亜門先輩があんな回りくどい方法でこれをセッティングした理由が分からないもんね。


 「試合は非公式ですが、双方の希望により学校指定のルールに則り行います。我々試合審判部が執り行うので、よろしくお願いします。」


 そう審判部の人が頭を下げるので、ついつい私達も頭を下げる。生徒指導部も真面目に礼をしているのが少し意外だった。


 「まず、試合をする者は武器を絶対に持ち込んではいけません。制服で構いませんが、部の者が後でチェックだけさせていただきます。また、事前届け出のあった関係者のみ見学を可能とします。見学者は、試合の公平性を期す為、電子機器を我々にお預けいただきます。」


 えー、そうなんだ。当事者が武器の有無をチェックされるのは想定してたけど、見学者のそういう所も結構厳しく取り締まるんだ。


 確かに、今の時代、スマホやスマートウォッチでいくらでも不正を働けるもんね。


 先輩方は素直にスマホを審判部に預けている。生徒指導部を盗み見ると、これまた意外にもすんなりスマホを預けていた。あの勃起野郎がおかしいだけで、生徒指導部自体は結構まともな人たちの集まりなのかもしれない。


 審判部が勃起糞野郎と私の身体チェックを済ませると、時計を確認しひと際大きな、良く通る声で告げる。


 「では、十五時半になりましたので、試合を開始します。両者、この白い線の内側へお入りください」


 よし。気合を入れて丸の形で引かれた白い線の内に足を踏み入れる。視界が広がったのか分からないが、校舎のロビーあたりにかなりの見知ったギャラリーが集まっているのに気が付いた。


 一年一組のクラスメイトだけではなく、他クラスの一年生も来てくれているようだ。生徒指導部や妻ヶ木ゼミを見に来ていると思われる、ギャラリーの現人類に委縮していて声こそかけてくれないものの、その姿だけで勇気が無限に湧いてくる気がした。


 「白木さん、落ち着いていつもの力を出せば絶対負けないぜ!頑張ってな!」


 「怪我にだけは気を付けて!やばそうだったら、すぐに降参してもいいからね!」


 まるでお父さんお母さんのような声かけをしてくれる先輩二人。私は、力強く首を縦に振ることでそれに反応を返した。


 亜門先輩は、何も言わなかった。何かが気になっているみたいだったが、それ抜きにしても張り切って応援する様な性格でもないだろうし、特に気にしない。それよりも手足のストレッチをやっておかなきゃ。


 足の腱を伸ばしていると、三メートルほど前にいるゴミ男が、生徒指導部長だと思われる上級生に「負けはないぞ、いいな」という声かけをされていたが、無視している様子が見えた。ひょっとして、あんまり関係は良くない?私にはどうでもいいことだけど。


 「いいですか?では、試合開始!」


 審判が笛を高らかに鳴らす。


その後すぐ先週と同じように、足下に感覚の光が見え、勃起男が飛び掛かってきた。


 けど、先週の私とは違う。慣れ親しんだ白木流の型ではなく、両手を伸ばし、感覚を尖らせる。


 第七感が昂ぶり、脳が熱を持ったのが分かった。瞬間、手の先に大きな輪郭が伝わる。感覚量をそれに向けて飛ばした。


 「ん…?」


 勃起男が自分の動きに一瞬違和感を持つ。それは刹那だが、何度も頭でシミュレーションを重ねてきた刹那だ。私はその瞬間を逃さず、一気に間合いを詰め、懐に入り、袖口と襟元を掴む。右足を振上げ、掴んでいる体を後ろに倒す。


 「ッ!」


 重い音が響く。大外刈りが決まったが、私は古武術家。残心を忘れず、すぐに距離をとる。


 いきなりの大技に、ギャラリーがどよめくのが聞こえるが、集中しているせいか、そのざわめきははるか遠くに感じられた。


 男はよろよろと起き上がり、馬鹿の一つ覚えで距離を詰めてくる。けど私は、この先の手


まで予測を立てていた。ここで冷静に様子を伺うようならとっておきを使うプランⅠ。けど、こうやって猪突猛進に攻めてくるとしたら…


 右足を振上げる単純なキックが飛ぶ。私は半身で左手を地面と、右手を空に垂直にして肘から先を伸ばし、腰を落とす構えをすでに取っている。胸の辺りに来る相手のふくらはぎを撫でる様に掌で撃ち、体をそのスピードに合わせて回転させる。腰は落としたままだ。


 プランⅡ、盆船流しが見事に決まり相手は吹っ飛んでいく。利き手か利き足で勝負を焦って決めにくる相手には絶好の技だ。第七感を使う必要はない。まだまだ集中力は温存しておいた方がいいしね。


 やっぱり今日は調子がいいみたいだ。この前はギリギリでついていった動きに、余裕をもって合わせられる。まだ、とっておきを使う必要もない。


 残心。距離をとり息をつく私に、すでにフラフラとしている男がじっとりと告げた。


 「白木真、随分調子づいているが、秋風薫の命が惜しくねぇのか?」






 驚いた。白木さん、すっかり第七感を使いこなしているじゃないか。鉄郎は体術がからきしだから、ああいう使い方で旧人類第七感をみるのは新鮮だなあ。


 正直なところ、彼女が負けるとは微塵も思っていない。


この一週間、何度か休み時間の合間を縫って教室に様子を伺いに行ったが、疲れを隠せてはいないもののとても楽しそうに友人と話していているのが見えた。もし修行が上手くいっていない雰囲気であれば鉄郎に相談し、方針を変えてもらうか、万が一の場合は俺がことにケリをつけようとも考えていたのだ。でもそれは完全に思い過ごし。彼女の器は、俺ですら正確に量れないほどだった。休日にコンディションを整えてくる精神性においても、常人ならざるものがあるだろう。鉄郎がふざけて言ってたけど、まさに次代の旗手だ。


残心し、すぐに次の手を考える戦い方も参考になる。俺はわりと力押ししてしまうタイプなので、彼女の武術家らしい姿勢にも感銘を受けていた。 


大技を次々と繰り出す白木さんに、委縮気味だった彼女のクラスメイトも思わずといった感じで声援を送っている。自らへの揺るぎない自信と確固たる信念、そして舌を巻く行動力からくるカリスマ性、これも本当に見事だ。


つくづく最高の後輩、もとい部下が入ってきてくれた。しみじみとしていると、白木さんの動きが急に精彩を欠き始めた。大味な臼井翔の暴力を、なんとか技を用いていなしている。


 ただ事じゃない。さっきまでとは明らかに様子がおかしい。組んでいた腕を解き、怜に尋ねる。


 「白木さん、どうしたんだ?」


 俺を見た怜は、怒っていた。久々に見せる怜の心からの怒気に、少し面食らうが、そのことが事態の深刻さを物語っていた。


 「葵、まずいわ。断片的に聞こえただけだけど、おそらく秋風さんを人質に取られた。」


 俺は瞬時に判断を下す。


 「鉄郎。感応を」「もうやってる。少し待て」


 こういうときの鉄郎の判断は俺と同じ位早い。怜は審判に、


 「審判、不正があるわ。試合を今すぐ中止して!」


 と呼びかけるが、審判をまるで聞こえていないかのように動かない。成程。買収したか、権力で脅したか。なら直接動くまでだ。


 「待て。どこに行くんだ?妻ヶ木よ」


 臼井と白木さんの方へ向かおうとした俺の前に、望月、加藤、松本の生徒指導部の残り全員が立ちふさがった。


 鉄郎が大声で俺に告げる。


 「葵、学校内に秋風さんはいない!そいつらに手をだすな!秋風さんに危害が及んだらすぐに助けられないぞ!」


 それと同時に容赦なく飛んでくる加藤と松本の拳をかわしながら、俺は舌打ちする。くそっ、こいつら、さらに仕込んでやがった…!


 望月が少し離れたところから見下すようにして宣言するが、なぜだろう、顔がはっきりと強張っていた。


 「その通りだ!俺達がやられたら、すぐに連絡がいくぞ!秋風薫がその後どうなるかは想像に難くあるまい!」


 学ランを脱ぎ捨てる望月を、睨みつけながら必死で手を考える。畜生…どうにかしねえと一年生二人が…!


 「貴様も今日で終わりだ!妻ヶ木!」


 ギャラリーがざわめくのが、やたら耳障りに聞こえた。






「随分調子づいているが、秋風薫の命が惜しくねぇのか?」


 そう口にした時の白木真の絶望した顔に、俺は凄まじいエクスタシーを感じた。最高だ、その表情。それが見たかった。てめえは先週、一生懸命第七感を鍛えてたみたいだが、俺も一生懸命、てめえに恥をかかす為の案を練ったんだ。


 人質作戦は、望月の、学外の力を振るうという発言から着想を得た。


はじめに黒髪の女の名前を知ることが必要だったが、それは旧人類の教師のタブレットから容易に分かること。次に住所だ。流石にそこまでの情報は開示されていないので、面倒な張り込み、追跡を行うことにした。


対象の女、秋風薫はあの憎き白木真と毎朝一緒に登校しているようだった。もうまとめて物陰でブチ犯してしまおうかという衝動に駆られるが、人前で恥をかかす方が良いだろう。プライドの高い女の、高く飾った鼻を人前でへし折るあの得難い快感を得るには、今は我慢しなくては。俺にはそれが出来るはずだ。


 都合のいいことに、会話から断片的に白木真の情報も得ることが出来た。あいつの父親は仕事人間で家にはほとんど居らず、兄妹も家を出ているらしい。


 白木真の家も突き止めて置いた。見たところ、家は家屋と道場の二つの建物がある。そして、この一週間、白木真は学校から帰ると道場らしき建物に入ったまま、次の朝まででてこないことがほとんどだということに気が付いた。


 おそらく第七感か、武術の修行でもしているのだろう。いかにも脳筋、運動馬鹿の単純な生活動作だ。この手のバカは、試合当日もギリギリまで練習に励む傾向がある。


そんな風に考えていた俺の頭に、閃きが起きた。


 前日の日曜、白木真が帰宅し道場から出てこないようなら、バイト帰りの秋風薫を拘束し、そのまま白木邸の家屋で監禁することができる。さらに教師に圧力をかけ、秋風薫は当日体調不良で休みだとホームルームで伝えさせる。完璧だ。


この人質作戦に足りなかった、人質を確保しておく場所の問題が解決された。学校が最も監禁には適しているし楽なのだが、時間を稼ぐことができない。その点、白木真の家に監禁しておくという案は、正に灯台下暗し。自分の知恵を末恐ろしく感じたものだ。


 望月の言う学外の人間を使う案は、具体的には学校理事望月敏弘のボディーガードを当日二人校門の前に配置しておき、下校時に油断した妻ヶ木ゼミの面々を一網打尽にしてしまおうというものだったが、俺はそれに進言する。


 「学校外の刃、振るうのなら二振りはどうでしょうか?」


 「どういうことだ?」


 「可能性は低いでしょうが、万一妻ヶ木が対処してきた場合の保険として、もう一つ案を用意するんです。もう、内容は考えてあります。」


 「……ふむ。念には念を、か。聞かせろ。」


 人質作戦を説明する。ぬるく、日和見主義の望月は、渋い顔をしてそれを突っぱねてくるが、それは想定済みだ。


 「…………スマホは審判部に預けるルールなので、あいつらは救援を呼ぶことも出来ません。加えて審判部を権力で買収、脅迫しておくことで、成功率は100%に限りなく近くなります。」


 「しかし…その手法は、父が喜ぶだろうか」


 「…去年のトーナメント、妻ヶ木に負けて敗退したそうですね。」


 「…………!」


 「学校の頂点を目指すと仰っていましたが、あれは嘘ですか?私の案を採用するだけで、確実に妻ヶ木に勝利できます。それとも、勝てるかも分からないトーナメントで名誉挽回するつもりですか?望月さんは、本当に頂点を目指す気があるんですか?」


 こいつもプライドの高いバカに過ぎない。痛い所をつついてやれば、ケツを叩くのはさほど難しくなかった。手間をかけさせやがったことにはイライラさせられたが。


 結局、今、生徒指導部は総出で妻ヶ木に襲い掛かっている。情けない連中だ。


 俺はそれを鼻で笑いながら、力一杯白木真に殴り掛かる。動揺した様子の白木真はガードを怠り、顔面に拳がモロに入った。


 「うっ!」


 さらに蹴りを叩き込む。


 「ぐ…!」


お得意の武術を使って必死に身を守る惨めな姿に、俺は笑いが止まらない。旧人類は、この泥だらけ、血だらけの姿がお似合いだ。このまま、裸にひん剥いて、二度と俺を馬鹿に出来ない様ズタズタにしてやる!


ギャラリーがざわめく声が、俺を益々興奮させる。






 くそ。生徒指導部…卑怯な連中だ。


 まずいな…白木さんに疲れが見え始めた。まだ決定打はもらっていないみたいだが、軽く口から血を流している。ダウンも時間の問題だろう。早急に対処しなくては…


 やられた。完全に主導権を向こうに握られた状態。葵や怜、もしくは俺が生徒指導部や審判を直接沈めて試合を止めようにも、あるいは白木さんが試合を決めようにも、秋風さんの居場所を特定して安全を確保しないことには俺達は動けない。連絡手段を断たれるからと、予め学校外の手を打っておいたことで生まれたこちらの油断を完全に突かれた形になる。


 試合のルールをうまく利用された。学校外に秋風さんの身柄を置いているのも周到だ。涼さんは学校外の介入を止めるのに手が離せないだろうし、連絡がとれない。俺の感応を広げるだけ広げてはいるが、方向やおおまかな位置が全く分からないのでは、流石にどうしようもない。都内全域まで、果たして俺の感応は届くだろうか?いやそもそも、県外の可能性もある。もし、そうだったら、打つ手がないかもしれない…


 試合開始前から嫌な予感はしていた。秋風さんは、あのギャラリーのクラスメイト達の中にいるのだろうと思い込んでいた。どうして予感がしていた時点で試合を辞めさせなかったんだ。俺は何をしているんだ。


取り留めのない思考に、俺は自分の焦りを感じてますます焦る。


と、怜が背中に手を置き、穏やかな、しかししっかりと聞こえる声で話しかけてきた。それは不思議な力を帯びているかのように、耳に馴染む声色だった。


「鉄君。葵も、落ち着いて。私、こう見えても顔が広いの。」


「「え?」」


同時に驚く俺達に落ち着き払って怜は続ける。


「審判の人にさっき話をつけてきたわ。学校を辞めるようなことは絶対ない。学校理事には私が働きかけることが出来るって。望月敏弘さんとは私、知り合いだから」


そう言いきると怜は声を張り上げて望月に、


「生徒指導部長さん。あなたのこの姑息な振舞いを、お父様が見たら何ておっしゃるかしらね?」


と言うとともにポケットから取り出した名刺らしきものを投げる。望月は動きを完全に止めそれを受け取り、目を点にして名刺をじっと見ていたが、やがて


「…………貴様、なぜ…」


と絞り出した。怜はこともなげに答える。


「この前学校にいらした時、お話させてもらったのよ。」


 顔面蒼白になった望月はしばらく立ちすくんでいたが、やがて決意に満ちた顔で唾を飛ばした。


 「貴様ら、手を出すな!妻ヶ木とは、一対一サシでやることにした!」


 葵に仕掛けていた二人がピタリと攻撃をやめ、後ろに下がり言う。


 「望月さん…やっぱ、そうでなきゃですよね。」「ええ…それがあなたらしいわ。誇り高き生徒指導部長、そして、私の自慢の彼氏の、あなた。」


 葵は突然の展開に驚いていたが、すぐに不敵さを取り戻したようだ。


 「随分、信頼されている…お互い、応えなきゃいけないよな。」


 それを受け、望月もさっきとは違う、晴れやかな笑みを浮かべている。


 「ふっ…すまなかったな。学校の頂点。辿り着くには、貴様は正面から超えねばならん壁だ。それを思い出したまでのこと。」


 怜はそれを見て微笑み、背中に手を置いたまま、なおも言葉を続ける。


 「鉄君。行って。あなたが、答えに辿り着けなかったことなんてないわ。私は信じてる。白木さんを、秋風さんを、助けてあげて」


 俺も、冷静さを取り戻すことが出来た。そして、怜に心から感謝しながら地面を力強く蹴って走り出す。やれやれ、最近、アクティブが過ぎるぞ、亜門鉄郎。


 「怜、ありがとう!」


 走りながら葵に声をかける。


 「おい、行くぞ!」


 葵は、楽しそうだ。


 「ははっ。すみません、望月先輩!今度のトーナメントで、また真剣に、正々堂々とやりましょう!」


 「何!?ふざけるな!今始まったところだぞ!俺と貴様の決闘は!」


 俺の前にも、影が二つ。


 「待て!亜門!どこへ行く!」「彼の目的の邪魔はさせない!これは、学校の頂点への大きな一歩なのよ!」


 俺と葵の声が重なった。


「「邪魔!」」


 人差し指を立てて感覚を尖らせ、二人の体の自由を完全にコントロールする。第七感で対象の全てを覆ってしまえば、相手の意思などもはや関係ない。


 「なんだ!?体の自由がきかねえっ!」「う、うそ…!?」


 そのまま、生徒指導部の名前も分からない二人を宙に持ち上げ、適当に窓の開いていた教室に放り込んでおいた。


 「うわあああっ!」「きゃあああー!」


 「すまんが終わるまでそこにいてくれよ」


 葵は感覚を右拳に集めて放つようだ。グラウンドにまばゆい光が輝く。


 「バ、バカな…!なんだこの感覚量は…!」


 「死にたくなきゃ全感覚量でガードしてくださいよ!」 


 肌にチリチリとした振動が伝わる。閃光、そして衝撃音が走った。視界が開ける。


 「…あ…」


 望月の学ランが吹き飛び、ワイシャツがボロボロに破れていた。望月はその場で気絶しているようだが、そのうしろに巨大生物が通ったような畦が出来ており、砂煙が巻き上がる。


 「よし、今のうちだな」と葵があっけらかんとして言う。


「砂が目に入った。派手にやりすぎだろ」「でもこれで、お前の第七感の印象を上書き出来たろ?」「やり方がスマートじゃないな。とにかく行くぞ」


正門へ二人で走る。


すると、黒いスーツを着た男二人の襟首をつかんでいる、スラっとした人影が砂煙の中に浮かんできた。


「やあ。二人とも。なにか問題?」


「涼さん。そいつらは?」「ああ、片づけておいたよ。それより鉄郎、その慌て方は、もしかしてメモを見てくれてないのかな。」


道端で偶然会った様なテンションの涼さんに少し気が緩んだが、メモの存在、そしてその内容の可能性に、サッと血の気が引くのが分かった。


 メモのことまで知らない葵が、涼さんに尋ねている。


「なんですかそれ?」「ああ、この前、鉄郎に渡したんだ。今日起こりうる事態について、俺が想定したものなんだけどね。」


俺は滅多にかかない冷や汗をかきながらおそるおそる確認する。


「それって、秋風薫のことについてだったりするか…?」


涼さんは苦笑して首を振る。


「やっぱり読んでなかったね。当日、秋風薫を人質にとられる可能性があるから、身柄の安全を確保しておいてねって内容だったんだけど。クズにありがちな思考なのさ。その場にいた第三者を巻き込もうとするのはね」


葵が食って掛かってくるのも無理はない。俺も内心、「やっちまった」と思っていた。


「お、おい、鉄郎!ちゃんと読んどけよ!」「う、うるせー!今はそれどころじゃないだろ!」


あたふたする俺たち二人に、涼さんはクールに続ける。


「その様子じゃ学校内にはその子はいなかったみたいだね。鉄郎。なら、君は白木真さんの家の方角まで全力で感応を広げるんだ。葵、これが人質の子の住所だから、全速力でそっちに向かってくれ。どっちかにおそらくいるだろうから。葵の方に人質がいたらそのまま救出してあげて。鉄郎の方にいたら、葵に連絡を送ってすぐ向かわせて。」


俺たちも必死で指示を飲み込む。


「了解」「分かった!」


葵は、手渡された住所のメモをチラリとみると、感覚全開で走り出した。そのスピードは、自動車並みに早い。空気を切り裂く音と共に、両足の閃光が流れ星のように尾を引いて消え去った。


俺は人差し指を立てて目を閉じる。脳内にマッピングしてある白木さんの家の方角を捉え、捉えた意識をそのままに、感覚に身を委ねる。


「…すごいな。相変わらず。10キロ以上の感応なんて、前例がない。」


涼さんの呟きはその時の俺の耳には全く届かない。


第七感という海にダイブする。無数の第七感。街並み。そのすべてに俺の感覚を、浸透させるのだ。さながら水のように溶けていく。まるで、思い浮かべた場所に意識だけを飛ばすように、すべてを肌で感じとるイメージを持つのだ。


やがて、俺の感覚は白木さんの家にたどり着く。その中に、覚えのある感覚を微弱ながら掴み取った。


「………っぷは!!!」


第七感の深い底から一気に浮上し、感応を引っ込めた。あまりの集中に息が止まっていたようだ。息も絶え絶えで涼さんに報告する。


「い、いた……!葵に、連絡する…!」


「そうか。よかった。もう大丈夫そうだし、俺はお暇させてもらうよ、学校はなんだか居心地がわるくてね。」


そう言い残して去る背中はぼんやりとしか見えなかったが、それ所ではない俺は再び目を閉じる。葵の感覚は、デカいから楽だ。すぐに捉え、感覚を送り込み、葵の腕に干渉して白木さんの家の方角に動かしてやる。


よし、葵が方向転換した。これで秋風さんの安全は確保されるだろう。あいつが現場に急行してしまえば、こっちのものだ。俺の役目は終わった。


安堵と疲れから思わずその場に座り込むと、涼さんはすでに姿を消していた。次の仕事があったのかもしれない。何にせよ、来てくれて助かった。


さて…危機も去ったところで、生意気で早とちりな後輩の、試合を見届けるとしよう。


こうも後輩のことで力を使うとは、俺も、すっかり先輩になったものだ。そんな自分に、しかし決して不快ではない戸惑いを覚えながら、グラウンドへよろよろと歩き出した。






秋風さんが、人質に取られている。目の前の糞野郎は明言こそしなかったものの、そう匂わせてきた。言外に、この試合に勝てば秋風さんの身が危ないということを。


 私は、そのことに酷く動揺した。多分、最初に私と真面目に戦っていたのは、いきなり一方的な展開になる不自然さを衆目が感じないようにするためだ。実際、急に攻め気を失って距離を詰めない私に、見物客はそこまで疑問を抱いていない。白木真も流石に疲れたのだとでも思っているのだろう。


 糞野郎が感覚を発揮して容赦なく殴り掛かってくる。私は反射的に防御したが、秋風さんが頭をよぎり反応が遅れてしまった。衝撃が走り、気付いたら地面が平行に見えていた。頬が熱くなって、口元には血の味がする。


 すぐに立ち上がるが、そこに蹴りが降ってきていた。腰に痛みを感じ、息が詰まる。


 畜生。畜生。こいつ、絶対許さない。絶対、ぶちのめしてやる…。見てて、お母さん…!


 怒りに感情を支配されながら紙一重で攻撃をいなし続け、どれだけ経っただろうか。永遠にも思える苦しい時間は、透き通った声で打ち破られた。


 「白木さん。秋風さんのことは気にせず、全力で戦って。」


 ハッとして見ると、ゼミ長と亜門先輩の姿はなく、天音崎先輩が審判の腕を取ってグラウンドに押さえつけているのだけが視界に入ってきた。


 「で、でも、秋風さんが…それにゼミ長も戦って…」


 「こっちなら平気。」


そう言う天音崎先輩の顔には、揺るぎない信頼、自信が漲っていた。


「鉄君と葵が二人揃って解決できない問題なんか、この世にないわ。」


 微笑んで、力強く頷いてくれる。


 私は、その言葉を聞いて、全身に力が湧いてくるのを感じた。そうだ。あの妻ヶ木ゼミが全員揃って、できないことなんてない。秋風さんは、必ず無事に助かる!私には、出来たんだ。どんな時も信頼し合える、そんな仲間が!


 「ありがとうございます…!天音崎先輩!」


 目の前の汚い顔に、思いっきり裏拳を叩き込んだ。鈍い音を立てて、勃起男は吹っ飛んで行きグラウンドに体を転がす。


「ぐおあ!」


大したダメージは与えられなかったようで男はすぐに立ち上がったが、息を切らしていた。もはや人相の変わった、邪悪な顔で怒鳴り散らしてくる。


 「この糞アマがァ…!人質がどうなっても良いのか!」


 私は動じない。仲間に、力をもらったから。


 「私の知る限り最も強く、信頼できる先輩二人が、いま秋風さんを助けに行ってる。あんた、そのことより自分の心配をした方がいいんじゃない?」


 「くそ!くそ!どいつもこいつも俺を見下しやがって!生徒指導部もまるで役に立たねえゴミ共だしよ!」


 思い通りにならないことへの怒りで我を忘れた様子の男は、まともな話すら出来なくなったみたいだ。チャンス。私はここぞとばかりに容赦無く相手を責め立てる。


 「役に立ってないのはあんたじゃないの?望月先輩は妻ヶ木ゼミ長に果敢に挑んだし、あの二人も、乗りかかったあんたの作戦を反故にしないよう動いてた。あんたは?さっきから、子供みたいに喚くだけ。自分の力の無さを周りのせいにして、人質まで取らないと一年生で女の私に勝つ自信すらないただの臆病者じゃない。違う?」


 それを聞いて男は、乱暴にゆすっていた頭をピタリと止めた。そして、まるでスローモーションのように私を睥睨し、おぞましい声でつぶやく。


 「…殺してやるよ。白木真」


 その言葉がトリガーになったかのように、男が感覚全開フルバースト状態になる。全身が、ぼうっと鈍く光っているみたいだ。


 私は少し面食らった。これが、現人類の感覚全開状態。正面から対峙するのは初めてだ。


 でもこのシチュエーションこそ、とっておきを試すのにうってつけの、何度もイメージしたシチュエーション。亜門先輩の教え通り、相手に手を出させることによって成立する、一撃必殺。


 「できるものならね。」


 私はそう、不敵に笑った。


 次の瞬間、私は全感覚量を、まるで網のように四方に張り巡らせた。


 鈍い光が目の端に映り、男が姿を消す。早すぎて捉えられないが、視覚は使わない。使うのは、第七感覚セブンスセンスだ。


 張り巡らせた感覚に、何かが引っかかるのを感じ、その物体の動作に干渉する。その時私は、何の音も聞こえず、何も見えず、何の匂いもしなかった。全ての感覚が、第七感に収束したみたい。それはゾーンにも似た極度集中だった。


 体は、瞬間的に感覚に反応した方に自然と向き、眼前で動きの緩くなっている拳を、受け止める。腕を抱え込み、背負い投げの態勢を取る。そのまま、全感覚量を体に呼び戻し、背中の物体に集中させた。


 「どりゃああっ!」


 全身全霊での〝黄泉送り〟。けど地面に落とすんじゃない。


 力一杯男を放り投げる。と同時に、何度も何度も繰り返した動作を行う。修行ではクッションだったが、今はこの屑だ。感覚を全て乗せて、校舎の壁目がけて吹き飛ばした。


 白木流古武術の弱点。それは決定打に欠けることだった。一週間後前、痛感したことだ。でも今は、第七感という新たな武器がある。


 私の腕力ではありえない距離と速度で勃起男は飛び、爆発のようなドゴンという音を立てて壁にめり込んだ。パラパラと、めり込んだ周りに入ったヒビから壁の破片が落ちる。すぐそばのギャラリーは、何が起きたのかまだ理解していない。グラウンドは静まり返った。


 が、直ぐにウェーブのように歓声がわっとギャラリー中に伝わった。その盛り上がりは、試合が決したことを示している。私は息をつくと、応えるように腕を突き上げた。

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