第4話 退学事変

私はアルバイト先のアパレルショップから帰る途中、急に衝動に駆られて鉄君の妹の楓に電話をかけた。今は午後七時。部活も終えて帰ってきているはずだ。鉄君はきっとまだバイト中だけど。


いつも通り、楓は二コールほどで電話に出る。どうして兄妹でこうも対人的社会性に差が出るのかしら。鉄君がこんなすぐに応答したことはおそらく一度もない。


「もしもし。怜さん。どうかしたの?」


と聞いてくる。この時間に私が電話をかける用事といったら一つだし、何ならしょっちゅう行われていることなのに、楓はどこか鈍くて全然気づいた様子もない。衣着せず言うとちょっとおバカなのだ。


「うん、いきなりごめんね。今日あんたの家、泊まりに行っていい?」


と聞く。私が〝あんた〟なんて偉そうな呼び方する同性は、たぶん楓だけだ。いかに普段私が猫を被っているか、分かったでしょ?


「いいよぉ~。お兄ちゃんまだ帰ってきてないけど。」


「大丈夫よ。ありがとう。悪いわね」


形式ばった謝罪をしておく。楓は全く気にしてないと分かっているけど、親しき中にも、ってね。


「おっけー。あ、じゃあさ、ごめんだけどついでに買い物してきてくれないかな。怜さんのお任せで!」


お安い御用だった。というかかなり高確率で、泊まりに行く時はそうしている気がする。改まってお願いしてくるのが楓らしい。


「分かったわ。ならいつも通り、晩御飯は私が作っていいのよね?」


「もっちろん!じゃあ、よろしくね~。」


可愛らしい声と共に、電話が切れる。う~む。そうは言ったものの、どうしようかな。正直、高校生である私達の財力は乏しいという他なく、孤児院の寮で暮らしている葵や私と違って妹と二人暮らしをしている鉄君はなおさらそうだ。


いや、今日はそんなこと気にしなくていいか。新学期初日だし、そこまでケチ臭い思考になっていては、芯から貧乏性になってしまう。狂人のふりとて、ってやつね。


しかも、彼、今日は大活躍だった。労いの一つや二つ、あってもいいはず。


 亜門家は、練馬区にある。京王線で新宿まで一本という好アクセスにしては、家賃が抑えめで住むには良い所だ。本音をいうと、いつかもっと広いマンションに住みたいけど。


もちろん、鉄君と二人で。


 「お邪魔します。」


 駅から徒歩で約十分、アパート〝八受館ややうけかん〟の201号室の鍵は、いつも通り開いていた。私が連絡したすぐ後、開け放しにしておいたのだろう。


 「は~い。」


 という呑気な声が奥から聞こえてきて、私は思わず呆れる。まったく、この危機管理意識の低さは…女子中学生が一人で家にいるという状況を軽んじているとしか思えない。


 「ちょっと楓。来ていきなりで悪いけど、開けっ放しはやめなさい。何度も言ってるでしょう」


 なんと楓は、お風呂に入っていたようだった。タオルを頭に巻き、下着姿で出迎えてくれる。


 「あ~。忘れてた、開けてたの。でも、誰も来なかったよ。」


 とニコニコしているものだから、私も勢いを削がれてしまう。確かに、楓の感応なら人が来ているかどうかはすぐに分かるだろう。玄関先どころか、半径何十ⅿくらいは分かるかもしれない。しかし、言わなきゃ気が済まない。私はきっと、心配性なんだろう。


 「あんたの感応がすごいのは知ってるわよ。それとこれは別なの。いい?普段からそういう意識だといつか痛い目に合うわよ。私は何度も忠告してるんだからね。自己責任よ。」


 少しキツめの口調で説教すると、楓は流石に私が本気だと理解したのか、


 「ごめんなさい。次から気をつけるね。」


 殊勝にそう言う。が、すぐに気を取り直したように、


「買い物、ありがとう!お金払うね。レシートちょうだい。」


 そう手を差し出してくるけど、これも楓の鈍さ故なのか。もう幾度口にしたか分からない台詞を、優しい口調になるよう少し注意しながら言う。


 「いらないわ。宿泊料として受け取って頂戴。」


 「え、でも」


 「いいから。いつもそうしてるでしょ。今更いいわよ。それに、こっちが勝手に押しかけてるんだから、ね。」


 首を一瞬捻るが、すぐに縦に振る楓。この仕草も毎回見てる気がする。


 「じゃあ、お言葉に甘えて!ありがとね!」


 さっき親しき中にも礼儀ありって言ったけど、やっぱり取り消し。この一連のやりとりはそろそろスキップさせてほしいと思った。


 「どういたしまして。楓、髪乾かしたら?風邪ひいちゃうわよ。それとも、昔みたいにやったげようか」


 楓は恥ずかしがって脱衣所に逃げ込んでしまう。


 「そんなのいいよ~。子供扱いしないでってば」


 その言い方がいかにも子供っぽくて、私は笑った。ごめん楓。私があんたの髪をやたら乾かそうとするのは、あんたの髪質が好きなだけ。子供扱いしてるわけじゃない。


楓の髪は、兄と一緒で色素薄目の黒髪。肩甲骨あたりまで伸ばしていて、大和撫子さながらだ。私は地毛が茶色でちょっと癖っ毛なので、サラサラのストレートヘアーがちょっぴりうらやましい。


 性別の違いもあってあまり似ていると言われたことはないらしいが、実は亜門兄妹は色んな所が結構似ている。例を挙げると、二人共猫目。楓はぱっちりしてて、鉄君はちょっと切れ長で細いって違いはあるけど、近くで見たらそっくりだ。


 「れ、怜さん?どうしたのそんな近くで見つめてきて…」


 おっと。知らず知らず凝視してしまっていたらしい。亜門の血筋は、どうも私の好みを的確に突いてくる。いや、逆かも。私が鉄君を好きだから、鉄君の持ってるパーツが好きになって、それは当然楓も持ってるわけで…ううん、難しいことになってきたわね。卵が先か鶏が先か…。


 「怜さ~ん。おーい。」


 似ているところもあるけど、楓は童顔で鉄君は意外とはっきりした顔立ちなのよね。鼻がかなり高いし、輪郭もかなりシュッとしてるもの。楓は丸顔で、楚々とした顔立ちだし、まるで対照的。髪質も鉄君は天パだしね。これは興味深いわ。


 「ちょっと⁉どうしちゃったのいきなり⁉」


 肩の感覚で現実に帰った。楓がしっかりとつかんで揺さぶっている。どうやら、彼女の顔を見ている内に自分の世界に入り込んでしまったらしい。まあ、この兄妹二人の前ではよくあることだ。


 「ごめんなさい。DNA、人体の神秘についてちょっと考えてて。ご飯つくるわね。」


 そう嘯くと、楓が尊敬の眼差しを向けてきているのが面白い。素直すぎて、いつか詐欺にでも合いそうでとても心配だ。


 手際よくチキンライスを作りながら、手元を覗き込んでくる楓に言う。


 「やってみる?」


 すると頬をかきながら、困ったような顔をしてはにかむ。


 「いやあ。何度かチャレンジしたことあるんだけどさ。毎回大失敗しちゃって、お兄ちゃんに迷惑かけちゃって…それからはずっとお兄ちゃんが〝俺がやる〟って作ってくれるんだ。甘えてばっかじゃだめだってわかってるんだけど…」


 これでも、私は料理に自信がある。一家言持っているといってもいい。なんせ、孤児院時代から大人数のご飯を作り続けてきたのだ。


この私が教えるとあっては、そんな大失敗をさせるつもりはない。それに楓も中学二年生。そろそろ料理位出来ても良い齢だ。意気込んで教える旨を伝えようとしたところ、いつのまに帰ってきていたのか、後ろから聞き慣れた声がした。


 「教えてもらえよ、楓。」


「お兄ちゃん!いつの間に帰ってきたの⁉」


 楓はいつものように鉄君に飛びついていく。大型犬を彷彿とさせる動きだ。主人の帰りを玄関で尻尾を振りながら待ち、帰宅するやいなやスキンシップをせびる忠犬。


 ……いや、私はやらないわよ。………やりたくないわけじゃないけど、流石に。


 鉄君が鬱陶しそうに妹をかわすのを見ながら、私も、完全なポーカーフェイスで鉄君に言う。


 「あら鉄君。お帰りなさい。お邪魔してるわよ。」


 鉄君は学ランをハンガーにかけ、消臭剤を振りながら笑う。


「怜、また来たのか。朝も来ただろう。もう自分んちだな」


 「いけなかった?」


 と悪戯っぽく笑いながら答えると、鉄君はそっぽを向いてぶっきらぼうに言う。


 「今更だ。晩飯は本当に助かるが、たまには払わせろよ。俺がこんな時間まで何をしてきたか分かるだろう?金を稼いできたんだぜ。」


 私はため息をつき、ますますテキパキと卵を割り、溶きほぐしていく。


 「だから宿泊料よ。ホントに気にしないで良いから。」


 「…ならありがたく受け取っておくか。サンキュー。」


 …?


 一見いつもと変わらないように見える鉄君だが、彼がお礼を言った瞬間、視線を不自然な空にやったのを私は見逃さなかった。意外といっては何だが、鉄君は目を見てお礼とかを言える人だから、すこし違和感があった。


 まさか浮気じゃないでしょうね。……そう考えて、別に私達は付き合っているわけじゃないと思い直す。それは思い上がりだ。


 後で楓が寝た後に、この件は問い詰めてみるとして、料理を教える話の途中だった。


「…楓、さっきの続きだけど、オムライス包むのやってみたら?教えてあげるから。」


楓は露骨に尻込みしていて、私の隣に中腰で立ってシンクで手と顔を洗う鉄君の方を見ながらもじもじしている。


「で、でも…またお兄ちゃんに迷惑かけちゃうし…私、不器用だから…」


タオルで顔を拭きながら、そのお兄ちゃんが学校では考えられない程優しい声色で言う。


「怜に教えてもらえるんだったら平気だよ。俺も怜に教わったしな」


「ほんと?」


「ああ、もし失敗しても俺と怜で絶対食べてやるから、心配するな。やってみろよ」


 はぁ………カッコイイ…。私は鉄君の容姿も好きだけど、こういうところが一番好きだ。


 楓はその言葉に少し照れたようにしていたが、すぐに決意を固めたようだ。


 「うん…ありがとお兄ちゃん。やってみるよ」


 「おう、お前が料理できるようになれば俺も楽できるしなあ。怜、一刻も早くこいつを一人前にしてくれ。」


 「……鉄君、それは蛇足だったわ。」


 「え?なにが」


 せっかく惚れ直したのに。でも、鉄君らしい。


 楓はおそらく相当慎重になっていたんだろう、大きな失敗もなく、オムライスが完成した。


 風呂から上がった鉄君と三人で食卓を囲む。鉄君は割と貧乏舌なところがあるので、大雑把な楓の味付けも「うまいうまい」と言いながらペロリと平らげてしまった。


結局失敗しても一緒だったかもね、と視線を送ると、楓も軽い苦笑いを浮かべていた。少し臆病な節があるから、いつも一歩目を踏み出すのに苦労してるけど、楓はやればできる子。きっとすぐ上達するだろう。


食後に鉄君が淹れたコーヒーを飲みながら配信サービスでバラエティー番組を見ていたら、楓がうつらうつらと舟をこぎ始めたので、鉄君が第七感で寝室へ運んだ。


基本的に三人で過ごす時は楓がよく話す。学校や部活であったこととか、他愛無いことだ。私と鉄君はそんなにお喋りな方でもないので、現在、部屋には静寂が訪れる。


芸能人がくだらないことをするのを眺めながら、静かに切り出す。


「そういえば、今日、秋風さんに……なんていうか、おかしな情報を与えちゃったけど」


自分でも意味不明なことを言っていると思う。適切な表現をするなら「私があなたを好きなことがバレちゃったけど」になるけど、そんなの言えるはずもない。


鉄君はなんてことない、というような顔でコーヒーを飲みほした。というか


「別になんてことないだろ。間違ったことは言ってないからな。無問題だ」


と実際に言った。


私には分かる。これは恥ずかしがっている。何か変わった点があるわけじゃないが、長年の付き合いからくるカン。


〝じゃあ私達の関係ってそれ止まりなの?〟と聞きたいのはやまやまだが、彼がそういうのは受け付けないというニュアンスを強く出しているのを感じる。


問題しかないのは鉄君だって分かっているだろう。あえて気にしないフリをすることによって、この件を保留にしようという魂胆ね。


私も、直接〝付き合わないんですか?〟と言われたわけでもないし、自分のペースで関係を深めていきたいと思っているから、延長案に乗っかることにした。告白するにしても、今日じゃないわ。もっと……ロマンティックに、がいい。というか彼からしてほしい。


「…そうね。もう忘れましょ。」


そう気を取り直して私は液晶の電源を切り、スーパーの袋を取り出す。


「ところで鉄君。もう遅いけど、茶菓子買ってきたのよ。食べない?」


彼は笑って、


「俺は是非頂きたいが、お前はいいのか?もう十時だぞ。こんな時間にお菓子なんて」


と気遣ってくれる。彼は外では手放しの笑顔、というのはあまり見せないが、家ではよく歯をみせて笑ってくれる。素敵な笑顔。私的には鉄君が他の女子に人気になってほしくないから、そのスタンスは大歓迎だ。


「今日はいいの。新学期初日だし、鉄君によく頑張ったで賞よ。」


と私がドヤ顔で言い、袋から草餅を取り出すと、鉄君は、はは、と声まで出して笑う。


「どうしたの。我ながらそんなに面白くないと思ったんだけど」


と私が不思議に思って聞くと、


「ああ、全然面白くなかったけど。そうじゃなくてさ、これ見てくれよ。」


と一蹴されてしまった。全然面白くないは言いすぎじゃない?ちょっとムッとした顔を作るが、彼は気づいていないみたいだった。


スクールバックから、コンビニの袋を取り出している。ん?まさか……


「同じことを考えてたらしい。俺も、誰かさんが店に来たせいで新学期初日を祝ってみようと思い立ってな、菓子買ってきたんだ。しかも…」


私も鉄君が手に持ったものを見て、吹き出す。


「桜餅かぁ。」


「ほとんど被ってるだろ。」


二人で穏やかに笑い合う。私は、この時間に、冬の朝の布団に包まっている時のまどろみのような、ふわふわとした幸せを感じていた。


それに、まだ膨らみを残したコンビニの袋を見て予感が走る。もしかして、さっき鉄君の様子がちょっとおかしかったのって。


「ねえ、さっき宿泊料云々のこと話してた時、様子がちょっと変じゃなかった?」


鉄君は、目を少し開いてそれを受け、頭の後ろに手をやる。照れているときの彼の癖だ。


「楓には言うなよ。あいつには買ってないんだ………これ。」


そう小さな声で言って、コンビニの季節限定スイーツを手渡してくれる。いちごのプリンだ。私の最も好きな類の甘味。たぶん楓が、私が泊ることを知らせて、それを聞いて帰りに買ってきてくれたもの。


「お前が泊りに来るとき、いつも材料費とか料理とか、世話になるからな。そのお礼だと思って…まあ、明日にでも食べてくれ」


あの場では楓がいたから渡せなかっただけだったんだ。浮気とか馬鹿な事言ってた自分の頬を張ってやりたい気持ちになる。


もう私は、こんな些細なことでも、鉄君のやさしさと、彼への暖かい感情で胸がいっぱいだった。たまらなかった。


「ううん……いま食べる。」


そう言って蓋を開けてすぐ食べ始める私を見て、鉄君が少し焦っている。


「お、おい。無理していま食わなくても…」


「だめ。いま食べるの。……鉄君……ありがと。」


彼はやれやれとばかりに息をつき、


「……いいよ。お茶でも飲みながらにしようぜ。」


とキッチンに立つ。


私はその時、真っ赤に潤んだ目を見られまいと必死だったのだ。こみ上げてくる想いが、涙に変わってしまって止められなかった。折角先延ばしにしたのに、早くも気持ちを伝えてしまいそうになった。




俺が楓の声で目を覚ますと、怜はすでにいなかった。きっと学校に行く前に自分の家に荷物を取りに行ったのだろう。


少し満腹感があった。昨晩、結局餅を二つも食べたのがやっぱり良くなかった。怜はこれに加えてプリンまで食っていたが、果たして平気なのだろうか。長い目で見たら、昨日俺がしたことはあまり良いことじゃなかったのかもしれない。


「お兄ちゃん、早速朝ごはん作ってみたよ!食べて!」


楓は俺と違って寝起きが良い。朝からよくそんな大きい声が出るな…


「おう…食べるわ…」


何を出されてもこの腹具合には厳しいだろう。俺は覚悟を決めて布団から這い出て、のろのろとリビングへのドアを開ける。さて、鬼が出るか蛇が出るか…


「まじか…」


炬燵机の上に座していたのは、あまりにも見覚えのある料理だった。ホカホカと立ち上る湯気が、出来立てであることを雄弁に語る。


「昨日、怜さんが作ってるのずっと見てたからね!もう覚えちゃったよ。私って天才かも?」


と薄っぺらい胸を張る妹に、どう反応したらいいか分からない。すごいなと誉めるべきなのか?


「…………楓。タッパーってウチにあったっけか。」


「ん?あるけど、何に使うの?というか、美味しい。私ほんとに才能あるかもしれない!」


オムライスを頬張り、ますます元気を増すブレザー姿の中学生を見て、俺の妹は、いや、分かり切っていたことではあるんだが、改めて馬鹿なのだということを再認識する。


「ああ……あるなら良いんだ…いただきます…」


 そう手を合わせる俺は、戦場に赴く兵士の様な面構えだったに違いない。


 そんなこんなで今俺は、二年一組の教室で食器棚の奥から引っ張り出してきたタッパーを広げている。いうまでもなく中身は朝の残りのオムライスだ。


 ふう…と息を吐く。二十四時間経たない内に三度もオムライスに向き合わなければならないとは、俺は知らない内に鶏に何か悪事でも働いたのだろうか?何かしたなら謝るから許してほしい。向こう…そうだな、最低でも三ヶ月は、この料理は御免こうむりたいものだ。


 普段だったら五分で食べ終えて、読書でもして昼休みを有効に使いたいところだが、今日ばかりは草食動物のようなペースでじっくりとスプーンを口に運ぶ。


 これまたいうまでもないが一人だ。クラスの連中は、新学期二日目だというのにもう仲の好い数名で机を合わせているようだった。そうか、一年生からの知り合いって線もあるか。


 俺はというと登校してから朝礼が始まるまでずっと、名も知らぬクラスメイト達の好奇の視線にさらされ、居心地が悪いどころの騒ぎではなかった。昨日の事件がもう噂として広まっているのが原因らしい。それについて誰かが話しているのが聞こえてきたのだ。


 去年はクラスでつるんでいる奴が数名いたし、その内の二人ほどは今年も同じクラスなのだが、わざわざ虐げられているやつのところへは来ない。そこまで深い関係を持ったわけでもないし、当然のことだった。


 だが、春休み前とは違ってものが飛んできたり、罵声を浴びせられることは無くなった。一応、昨日の一件が、現人類を撃退し後輩を守ったという印象の良さそうなエピソードだったこともあるのかもしれない。もっとも、正確に伝わっているとは端から思ってはいないが。噂話なんてそんなものだ。


 俺はどっちでもよかったのだが、いざ、直接的な被害が無くなってみると、随分気が楽だと感じる。いちいち対処しなくて良いからかもしれん。


 久しぶりの平穏なランチタイムを噛みしめていると、突然校内放送がかかる。どうして校内放送っていうのはこう音が大きいのだろうか。聞こえなきゃ意味がないからか。当たり前のことだ。この校内放送もその一般例に違わず、しっかりと耳に残った。


 「二年一組、亜門鉄郎君、至急、職員室まで来なさい。繰り返す。二年一組の亜門鉄郎君、職員室まで、来なさい。」


 ……ご丁寧に二回も言いやがって…


視線が一斉に集まるのを肌で感じる。教室は打ち合わせでもしたのかと思うほど突然静かになった。目線は上げられない。誰かと目が合ってしまうと思ったからだ。それは流石に嫌だった。


 口の中のオムライスを水筒の水で流し込むと、立ち上がって教室の後方のドアへ最短距離で向かう。目の焦点を緩め、誰の顔も映らないようにしながら、できるだけ早足で。


 後ろ手にドアを閉めると、クラス中の視線が背中に突き刺さって血が流れているような気さえした。直接的な被害、結局無くなってないのなら最初から期待させないでほしい。


 だが、そんなことは序の口だった。俺はまだまだ甘かった。実際、昨日の段階で考えておかねばならないことではあったのだが、まさか本当にそう(、、)なるとは思っていなかったのだ。まったく、白木さんに偉そうに説教を垂れておきながら、このざまとは。甘々だ。


職員室にて、俺を呼び出した学年主任を自称する中年男性はその、とんでもないことを言い放った。


 「亜門鉄郎君、君は、退学だ。残念だけどね」


 「…………は?仰っていることが、よく……」


 「規則に則り、君に対して退学措置をとると言ったんだ。急のことで、受け入れ難いのは分かるがね。もう決定したことだ。」


 こういう展開の際にありがちな高圧的な態度の教師ではなく、物腰柔らかな物言いのおかげで、一言一句損なわれずに頭に入ってきた。が、理解は追いつかない。いきなり退学だと?滅茶苦茶にも程があるぞ。


 「……正当な理由を教えていただかないと、納得は、ちょっと出来かねますね。」


 中年教師はモニターから目を離さず答える。


 「昨日、現人類の生活指導の生徒と諍いを起こしただろう?凶器を遂行していたそうじゃないか。その生徒は、大きくはないものの、頭に怪我をして、流血までしたと聞いているよ。一応、こんな世の中とはいえ、わが校では校内暴力にはかなり厳しい規定を設けていてね。素手ならまだ停学で済んだんだが、得物有ではもう退学は免れないなあ。」


 思わず反論せざるを得ない。


 「いえ、それには間違った点があります。確かにいざこざは起こしましたが、凶器なんて使ってませんし、そこまでの怪我も負わせていません。」


 教師はため息をついて、これで話を終わりにしようとばかりに背もたれに寄りかかる。


「もうね、現場にも証拠が残ってるし、被害者が具体的な証言をしてるんだ。君の意見が通る段階は過ぎてしまったんだよ。まあ、学校に未練があるのはよく分かる。だがウチは進学校なんだ。若者なら誰でも囲っているわけじゃない。慈善事業じゃないんだ。」


教師はここで言葉を切り、立ち上がって俺の肩に手を置きますます優しく言う。


「一年生の時からだがね、君からは、情熱を感じないんだよ。そんな君がここに残っても、得る物はないはずだよ。今時、旧人類が中卒で働くことなど珍しくない。お互い、大人の対応をしようじゃないか。君は賢い生徒だと思ってるからこんな話をしてるんだよ。」


 大人の対応と、どの口が言ったものか。権力のある現人類に逆らえず、自分の意思を二の次に保身に走る情けない姿を見せてよくそんなことが言えるものだ。


 俺が何も言わないのをどう受け取ったのか、さらに教師は饒舌に続ける。


 「大丈夫。なにも今すぐにってわけではなくて、今月末までは通ってもらうことになってる。色々手続きもあるからね。君も今後の準備があろう?」


 成程。昨日涼さんが言ってた何某君は本当に結構な権力者らしい。単純に、白木さんがやったことは全部俺がやったことになっているが、そのすり替えが容易く、スピードで言うと一晩でできるほどの。


確かに、経営者の立場で学校の未来を考えたら、同じ旧人類でも正当な手段、実力で妻ヶ木ゼミの座を勝ち取った有望株の白木真よりは、排除して波風立たないのは亜門鉄郎だろうな。


 俺は正直に言うと、この話にほとんど納得していた。高校なんてあいつらが一緒にというから進学したに過ぎず、中卒で働くことにも何の抵抗もなかった。猶予がもらえるなら職探しも出来るし。


 現人類の横暴でそうなってしまうのが多少腹立たしいが……こうなっては仕方あるまい。


 それに、もし俺がここで粘ろうものなら矛先はあっさりと白木さんに向くと予想される。このタイミングで俺が素直に学校を去るのが、もはや正解といえるのではないだろうか。


 一瞬でそう考え、俺が


「そういう事情なら、分かり……」


 と言いかけた刹那、職員室のドアの前に昨日から何かと馴染みのある感覚を覚える。俺はため息をつきたい気分になった。折角守ろうと腐心していたのに、その対象が現れてしまってはまるで意味がない。なのでドアに第七感を走らせて、引き戸を押さえつけるようにする。すると、職員室中に轟くほど大きい声が響いた。


 「亜門先輩⁉開けてください‼お願いです‼」


「私のせいなんです、先輩が罪を被るなんて…そんなの‼」


 教師は全く気にした様子もなく、すでに自分のデスクに腰を落ち着けていた。さも迷惑そうに手を振りながら、言葉を切った俺に続きを促してくる。


 「そういう事情なら、どうするの?」


少し虚を突かれはしたが、俺も、せいぜい迷惑そうな風を装って、 


 「ええ。そういう事情なら、僕は退学するしかありませんよね。分かりました。」


 と答える。教師は満足そうだ。高校生活も二年目に突入したが、初めて教師を喜ばせるようなことをした気がする。そんなことを考えると、目の前の冴えない教師が俺にとっての恩師なのでは、という気さえしてくるから不思議だ。うむ、俺のろくでもない学校生活も、そう捨てたものではなかったな。


 そう自己完結し、会釈して教室に戻ろうとした時、第七感で押さえつけていた引き戸が力づくでガラリとこじ開けられた。


 白木さん、まさか。一晩で俺の力をこうもあっさり破るか。得難い才能、たゆまぬ努力、これからの日本を牽引していくにふさわしい、優れた人物。俺と葵の目に狂いはなかったのだ。彼女こそが、次代の旗手、現代に舞い降りた戦姫なのだ…


 と歓喜していると、むさくるしい面々が並んで俺を睥睨していた。禁煙の職員室に、たばこの不快なにおいがうっすら漂う。いや、そもそも、なんでこの人が学校にいるんだ。露骨にうんざりした顔を作り、言う。


 「小島のおっさん……なんでここに。」


 するとむさくるしい体に乗っかった爽やかな顔で葵が自慢げに答える。


 「俺が昨日話をつけたんだよ。こうなるって予測してたからな!」


 「お前には聞いてない」


 相変わらず薄汚れたベージュのトレンチコートを着た育ての親がふんぞり返って言う。


 「鉄郎、お前、俺が無理矢理行かせた高校とはいえ、そんな勝手が許されると思ってんのか?やめさせねぇぞ」


 俺の恩師たる中年教師は、流石にここまでの急展開にどっしり座っていることはできなかったのか、立ち上がって警戒している。だが直接対話する根性は当然持ち合わせていない臆病者に変わりはないので、代わりに俺に聞いてくる。


 「あ、亜門君。この方は?」


 俺は演技でなく本当に迷惑そうに答える。


 「僕の、まあ親代わりの人間ですね。先生からしたら保護者の方ってやつです。」


 その答えに泡を喰って、小島さんに向き直って反射的に頭を下げる恩師。職業病だな。


 「そ、それは失礼いたしました。いつもお世話になっております。学年主任の田中と申します。」


 小島さんは、ただでさえいるだけで煙草臭さを放っているというのに、ポケットから煙草を取り出した。が、葵に手で制されている。


 「おい鉄郎。お前からしても俺は立派な保護者だろうが。……ああ、こちらこそお世話になりますね。なに、近くを仕事で通りかかったもので顔をチラッと出すだけのつもりでしたが、何やらえらいことになってるってんで来てみたんですわ。」


 チンピラのような話し方や、やたらデカい体躯、ドスの効いた声などがあわさりとてもカタギとは思えない雰囲気を醸す小島さんに、目の前の教師だけではなく職員室全体に張り詰めた空気が流れだしたのが分かった。後ろから遅れて、状況にいまいち乗り切れていない様子の白木さんもちょこんと顔をのぞかせている。


 「は、はあ。そうでしたか。いえ、なに、亜門君がちょっとしたトラブルに関係しておりまして……その処置を」


 小島さんは煙草を至極残念そうに内ポケットにしまい、


 「そこで話が聞こえてきましてね。なんでも、うちの鉄郎を退学にするとか」


 とニヤついている。俺はこんな保護者の相手を時にはしなければならないというなら、絶対に教師にだけはなりたくないな、と思った。


 教師はせっかく濁していた部分をいきなり明言されて、ぎょっとしている。


 「い、いえ、そうなる可能性が非常に高いという話で、確定したわけでは…」


 なおも謎のいやらしい笑みをたたえながら小島さんが畳み掛ける。


 「規定に則って、ってことでしたが、よろしければ、その規定ってやつを私にも拝見させてもらえませんかね。」


 いよいよ顔色が悪くなり始めた教師が面食らう。


 「は⁉そ、それは…」


 「いや、流石に息子が退学ってなったら、なんでそうなったのかを親として把握せにゃならんでしょう?ご安心を。その手のルールとか規則の斜め読みは専門分野なもんで、すぐ終わりますよ。さあ。」


 小島さんはいつの間にか教師の目の前まで迫ってきていた。なぜかさっきよりも小さく見える俺の愛すべき恩師は、消え入るような声で最後の抵抗を試みる。


 「あの、失礼ですがご職業は……」


 「しがない刑事ですよ。おっと、名刺交換がまだでしたね。」


 有無を言わせない名刺交換に応じた教師は、さらに顔を青ざめる。


 「は、はは。これは。素晴らしい肩書をお持ちですね」


 小島さんは、一見まだ冷静さを保っているようだが、おそらく煙草が吸えなくて少しイライラしている。腿の側面に指を打ち付けているのが見えたのだ。それに気づいた俺が葵に視線を送ると、葵は両手を上に向けて首を左右に軽く振った。


 「とんでもない。そんなことよりも、さ、早くお願いしますよ。仕事に戻りたいですし。」


 その言葉のすぐあと、職員室の一番奥のデスクから少し立場が上だと思われる壮年の教師が小走りで恩師に駆け寄り、何か耳打ちする。それを受けてほんの少し安心したような表情を浮かべたが、すぐにそれを消してやっと教員然とした態度で、またしても小島さんではなく俺に向かって言う。


 「亜門君、すまない。さっきの話は保留ということになった。こちらとしても、少し確認作業に時間が必要だと考え直したよ。またこの件についてはお知らせするから。驚かせて申し訳なかったね」


 俺は小島さんが登場した時からこうなることは分かっていたので、特に反応も示さない。


 「そうですか。良かったです。ただ、もう校内放送は勘弁してください。」


 壮年教師がとってつけたように言う。


 「本当に悪いことをしたよ。ごめんな。これからも学業に励んでくれ」


 もうそれを言ってしまうのか?なら、もういちいち呼び出しせずに退学は取り消しだとこの場で伝えてもよくないか。


 俺は今度こそ軽く会釈して職員室を出ていく。いつの間にか小島さんの姿は無かった。相変わらず清々しいまでに要件人間だ。さっさと出ていく俺に、葵と白木さんが慌ててついてくる。


 「……一応、礼は言っとく。」


 「お前なぁ。ツメがあめぇよ。こうなることは容易に考えられただろうが」


 尋常高校は上から見ると「H」の形になっていて、左側が旧人類校舎。右側が現人類校舎になっている。その間のスペースの旧人類側がピロティになっており、現人類側がグラウンドになっている。真ん中の校舎は共用の教室があり、渡り廊下にはゼミ室がある。


 俺達は、そのピロティの中心にある噴水を取り囲むように設置されているベンチの一角に腰かけていた。周りで昼食を取っていた生徒たちが小島さんを恐ろしいものでも見るかの様な視線で見ているが、どこに行ってもそうなので俺たち二人は今更気にしない。白木さんは少し気になっているようだ。気の毒に。


 「それはそうだが……小島さんが出張るような案件か?」


 「俺もそうは思ったがよ。葵が直接頼んできたんだよ。」


 抗議の意味も込めて葵を睨むと、


 「鉄郎が退学の話を持ち掛けられたら、にべもなくそれを受け入れると思ったんだよ。だから一番効果的な人選にしたんだ。むしろ感謝してほしいくらいさ」


 と肩をすくめて笑う。ふん、よく分かってるじゃないか。だから気に食わないんだがな。


 「…………それはどうも。」


 腹立たし気に言うのを笑顔で流し葵はさっと立ち上がる。


 「どういたしまして。じゃ、もう戻るよ。小島さん、サンキュー。白木さんもありがとう」


 凄まじいスピードで現人類校舎に走って行ってしまった。せわしないやつだ。


 「あ……」


 と白木さんがぼそりと呟く。気持ちは分かる。知らない中年と俺とで取り残されるのはいささか不安だろうな。


 「よし、俺も仕事戻るわ。どうも学校ってのは居心地がわりいし、何より禁煙だ」


 とか言っておきながらすでに煙草をくわえている。校門を出た瞬間に火を着けるのだろう。どうしようもない程ニコチン依存症だ。


 ぼやけたベージュのトレンチコートを大げさにはおり直すと、白木さんに向き合って優しく語り掛ける。


 「初めまして白木真さん。俺は小島、君のゼミの三馬鹿トリオの、まあ保護者代わりのおっさんだ。こいつらの友達になってくれてありがとな。さっきは鉄郎を助けようとしてくれて感激したぜ」


 白木さんはピロティに来てからずっと茫然としていたが、ようやく話を振られて慌てて対応している。


 「こ、こちらこそ初めまして!お三方には、すごくお世話になってます!この件は、私の軽率さから招いたことで反省してます、すみません!」


 小島さんは職員室とは別人のような笑顔でそれに答える。足はもう校門の方に歩きだしていた。


 「気にしなくていいぜ。それに、その謝罪は隣の出不精に言ってやってくれ。じゃあまたな、二人共。」


 昔に比べてくたびれたように見える背中に心の中で感謝を述べながら、怒涛の展開から解放された脱力感でベンチに深くもたれかかる。白木さんも小島さんに話しかけられてはじかれたように立ち上がっていたが、気が抜けて俺の隣に座りなおした。


 「悪かったな。白木さん。変なことに巻き込んじまって」


 「いえ、こちらこそ…私のせいでこうなったのに…本当にすみません。かばってくれてありがとうございます。」


 沈んだ声で頭を下げられるが、昨日のイキイキとした白木さんが見られないのは俺としても心苦しい。


 「小島さんも言ってただろ。あんまり気にするな。こうなる予感はうっすらしてた。対策を怠った俺にも過失はある。」


 優しい声色になるように努めて言うが、白木さんは自分を許せないようで、なおも謝罪を重ねる。


 「それでも…もうちょっとで先輩が退学になるところでした…私、そうなってたら最低です。申し訳ないです…」


 行動に移すのは非常に躊躇われたが、これで無神経な後輩の理解不能な活発さが戻るなら、と全神経を集中させながらふわりと華奢な肩に手を置く。


 白木さんはそれに、目を丸くして俺の横顔を見ることで応えた。らしくない行為に硬直している顔に、無理矢理笑顔を浮かべゆっくりと言葉を探す。


 「あー…。その…あれだ。昨日言った、最悪のケースを想定して動く、ってやつ、あれの良い勉強になったな。これでお前も、レジスタンスとしての一歩目を踏み出したわけだ。だろ?」


 「……はい。痛い勉強代でした。尊敬する先輩を一人失うところでしたから。次は、もっとうまくやります。」


 この切り替えの早さ、前を向く力は、白木さんの特筆すべき長所だろう。少しではあるが、表情が明るくなっていた。


 そのことに素直に安堵を覚えた自分に戸惑う。ろくでもない高校生活を一年過ごしただけの俺にも、上級生然とした意識が無自覚に芽生えていたらしい。年齢を重ねるというのは不思議なものだ。


 「直情的に動かないようにするだけでいい。対処はあとからいくらでも考えられるからな。」


 「はい!先輩……昨日から、重ね重ねありがとうございます。いつかこの借りはきっと返します。」


 「ああ、今度飯でもおごってもらうかな。それより、もう昼休みも終わるし、教室に戻った方がいいんじゃないか?昨日のこともあるし、遅刻は印象が悪いぞ。」


 再び立ち上がって頭を下げている白木さんにそう言うと、彼女は顔を上げ一つ頷いて旧人類館へダッシュで戻っていった。ふう、これにて一件落着、といったところか。俺も、オムライスと格闘する作業を再開するとしよう。


 一つ、心から思ったことがある。この件が怜の耳に入らなくてよかった。そうなっていたら、どれだけ面倒な事態になっていたかしれない。その恐ろしさに身震いし、ゆっくりと教室へと戻る。満腹感はとうに失せていた。






「亜門鉄郎を退学にするのは、失敗だったそうだな。臼井。」


 俺は生徒指導室で、その長である望月弘人先輩に詰められていた。昨日天にも昇るような気持ちで同じ場所にいたのが嘘のように、暗い気持ちで佇んでいる。


 「はい…申し訳ございません。あいつの保護者が動いたという話がありましたので、向こうにもこちらの出方は予想されていたと考えられます。」


 しずしずと頭を下げてみせるが、なぜ俺が謝らなければならないんだ。内心、苛立っていた。ふざけやがって。望月さんが発案したことを、俺は旧人類の教師どもに働きかけただけに過ぎない。望月さんの方から、具体的な指示など何もなかった。それで失敗しても文句を言われる筋合いはない。


 「まあ、いい。金魚の糞の排除など、いつでもできる。最も考慮すべきなのは、生徒指導部の地位についてだ。その一年との試合はいつになった?」


 ふんと鼻を鳴らし、偉そうに望月さんは話題を変える。畜生、怒られていることより、使えないやつだと思われていそうなのがムカついてしょうがない。


 妻ヶ木の野郎、こちらに余地を残さないためか、一週間後というかなり近くにスケジュールを設定してきやがった。


 「一週間後です。」


 「ほう。随分早いな…その一年が出てくるんだろう?なにが変わるというんだ。」


 それには、副部長として望月さんの隣に座っていた二年の加藤先輩が答える。 


「十中八九何か仕掛けをしてくるでしょうね。流石に不自然ですし。」


 すると望月さんは、神経質そうな顔に薄ら笑いを浮かべて言う。


 「なら、こちらも何か仕掛けをすればいい。それも、今回と違って対処出来ないレベルのものをな。」


 俺は入ったばかりでいまいち望月さんの実力を掴めていないが、昨年度から共に仕事をこなす加藤先輩はそうではないらしい。望月さんの言葉に、待ってましたとばかりにニヤリとして質問をしている。


 「どうします?」


 望月さんは椅子から立ち上がり、大仰な仕草で手を広げる。


 「妻ヶ木は確かに腕も立つし頭も回る。しかし、所詮学校という籠に囚われた羽の無い鳥にすぎん。俺たちはそうしようと思えばどこまでも手を伸ばせるというのに。」


 加藤先輩は食い入るように聞いているし、望月さんと同じ三年の松本先輩もうっとりしているようだ。松本先輩は望月さんの彼女だから仕方ないとはいえ、その様子に俺はまたイライラする。


 「俺はそうじゃない。学校外にも伝手がある。完璧に見える妻ヶ木の、唯一の死角は、学校外からの切っ先だ!そしてその刃は、この尋常高校で俺にのみ振るうことが出来る!今回の件で、妻ヶ木を終わりにしてやるぞ!」


 広げた手をグッと握りしめ、空を仰ぐ。俺は、自分の視線が冷ややかになっているのを感じた。


 「そして我が生徒指導部が、学校の頂点に立つ!」


 拍手が巻き起こった。松本先輩に至っては、「素敵…」とまで呟いている。俺はというと、冷ややかを通り越して腹まで立っていた。そんなことより、白木真を早くぶちのめしてやらないと気が済まない。あのアマ、少しこっちが下手に出たからってなめやがって…力づくで滅茶苦茶にしてやってもよかったのに、調子に乗って反抗してきやがった。


だが、望月さんの学校外の力を使うという案には賛成だ。妻ヶ木も望月さんが学校理事会の一人である、望月敏弘の長男であることは知っているだろうが、たかが課外での非公式試合に何もそこまでするとは思っていないだろう。


それにやつは俺達生徒指導部の実行力の高さを知らない。生徒会や広報部、総務部等、生徒のみならず学校全体に影響を及ぼす組織は校内にいくつか存在するが、実際に現場に赴くことが多いのはダントツで生徒指導だ。つまり実力行使が最も多い部署であり、柔弱なやつには務まらない。俺だってもちろんそうだ。あんな女に負けたことは何かの間違いでしかない。


 そう考えていると、望月さんはそれに応えるようにこう言った。


 「それだけじゃない。俺達の刺客、もとい死角に妻ヶ木が万が一対応した場合でも、俺が直接やつをやってやろう。実力でもやつを上回らなければ意味がないし、なめられたままじゃ父にも顔向けできん。目指すは名実ともに学校のNo.1だ!」


 けっ。何を当然のことを。正直、妻ヶ木に日和っているようじゃ、生徒指導を見限るつもりだった。だが相変わらず周りは望月さんを持ち上げてばかりだ。


 俺は静かに生徒指導室から出た。とにかく、イライラしている。


 亜門鉄郎も白木真も、旧人類のくせに俺を見下しやがって。そんな劣等人種どもの肩を持つ妻ヶ木や天音崎もだ。全員、許さねぇ。生徒指導部も生徒指導部だ。妻ヶ木はともかく、なんで半分が旧人類のオワコンゼミにそこまでしなきゃならねぇんだ。劣等人種なんざ糞味噌だろうが!まともに戦うこと自体が馬鹿馬鹿しいんだ!あいつらは俺達の言いなりに動くしか価値のない生き物だろうが!


 感情が昂り、それに伴って昨日負った頭の傷が少し痛む。が、そのことが俺の脳内にある記憶を呼び起こした。


 白木真の友達が、あの場にはいた。思い出したぜ…黒髪の、まあまあ可愛い女。きっと、あいつが助けを呼んだに違いない。


その事実に俺は廊下で一人、笑った。見てやがれ、白木真。公衆の面前で、最高にみじめな思いをさせてやる。


 今は居心地の悪い教室には帰らない。だが、一週間後の今日は、教室の注目を一身に浴びていることだろう。


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