episode.5


 ふと目を覚ますと、部屋中が暗闇で満たされていた。

 日中は黒いレースの天蓋カーテンでベッドの周りを覆い、日が沈むまで眠りに付くのがシーヴァの日課だ。上体を起こして両手を上に伸ばしながら、大きな欠伸をひとつ。


 夢を見ていた気がする。

 途方もない悲しみが、熱となってシーヴァの手を濡らす。悲痛な記憶の夢。


「フィンのやつ……また呼ばなきゃいつまでも来ないつもりね」


 元人間であるフィンは、シーヴァと交わした血の契りによって長い時を生きる存在へと変化した。シーヴァの従僕であり、餌であり、シーヴァ無しでは存在することもできない、愛おしいものでもある。


 血を吸わなければ飢えと渇きを癒せない。


 嫌というほど分かっているくせに、フィンはシーヴァ以外の生き血を口にしない。

 飢えと渇きに苦しめば、血と快楽を求めるだけの獣になるというのに。人間の生き血を啜ることが、飢えよりも苦しいことだと言わんばかりの態度でいるのだ。


 幾つもの歳月を共にしても、シーヴァにはフィンの心が一向に理解できない。


 生まれながらに純粋な獣であるシーヴァとは、混じり合うことのできない隔たりが確かに存在する。


 どうしたら、フィンのすべてを自分のものにできるのか。


 シーヴァは考え込みながら親指の爪を噛み、自身の体に視線を落とした。

 膨らみきっていない幼さの残る乳房と、細く華奢な肢体。まだ不完全な10代少女の体がそこにある。


 こういうものがフィンの好みなのかと思っていたが、どうやら違うようだった。


 フィンの首に掛けられたふたつのシルバーリングを思い出し、シーヴァは妖しく口元を歪めた。



 ◇



「遅い」


 不満げな棘のある声が、どこからともなく部屋に現れたフィンへと向けられた。

 いつもと同じように漆黒のスーツに身を包んだフィンは、真っ暗な部屋でベッドに腰掛けるシーヴァを認め、機械的に頭を下げた。


「すみません、立て込んでいたもので」


「呼んだらすぐに来なさい。何を優先すべきか、お前には分かるでしょう」


「はい、シーヴァ様」


 感情の込もらないフィンの返事にシーヴァは深い溜め息を漏らすと、ベッドから立ち上がった。


「まぁいいわ。今日はお前を喜ばせてあげようと思って呼んだのよ」


「それは……随分と珍しいですね」


 声を弾ませたシーヴァを怪訝な顔で見つめ、フィンは普段より血色の好い顔で薄く笑った。

 シーヴァの血を飲んでから5日。我慢することに慣れたフィンにとって、このぐらいの期間であればシーヴァの戯言に付き合うだけの精神的余裕が存在する。


「きっと驚くわよ」


 フィンの表情を見てシーヴァは嬉しそうに言ったかと思うと、パチンと指を鳴らした。

 その音を合図に部屋の照明がひとりでに灯り、オレンジ色の温かい光が室内を照らし出す。


 ドアの前に立っていたフィンは照明の光に目を細め、霞む視界からシーヴァのいる方へ視線を向ける。

 ベッド以外の家具がほとんど置かれていないこの寝室で、真っ先に目に入るベッドを背にして立つシーヴァの姿を確認し、フィンは言葉を失った。


「どう? お前好みになっている?」


 首を傾けて悪戯に笑うシーヴァの姿は、見慣れた銀髪でも10代の少女でもなかった。

 栗色の髪をゆるくシニヨンにまとめ、はっきりとした目鼻立ちに垂れた目尻が穏やかな印象を与える、すらりとした体型の大人の女性。

 身に付けている白いリネンのシフトドレスが、懐かしさすら感じさせる。


 シーヴァが姿を変えることは、過去に何度かあった。


 黒猫であったり少女であったり、彼女の気まぐれと状況に応じた姿形は様々だったが、フィンにとっては大した問題ではなかった。


 どんな姿をしていようとシーヴァはシーヴァであり、他の何者でもないからだ。



「記憶を探るのに苦労したのよ。お前の隣にいた女を思い出して似せてみたつもりだけど……」


 そこまで言ってシーヴァは呆然と立ち尽くしているフィンの青ざめた顔を見て、満足げに柔らかく微笑んだ。


「正解だったみたいね。この姿が気に入った? フィン」


 サファイアブルーの瞳だけをそのままに、銀髪の少女とはまったくの別人の姿でシーヴァは一歩ずつフィンに近付いた。


「っ……来ないでください」


 動揺して後退ったフィンにはいつもの冷静さはなく、強張った顔からは恐怖の色が滲んでいる。

 フィンの様子にシーヴァは不思議そうに目を丸くして立ち止まり、自分の体に視線を落とした。


「なぁに? どこか違った? 気に入らないところがあるなら言ってみなさい。今日は特別に、お前の望むようにしてあげる」


「シーヴァ……っ、貴女は狂ってる……」


 喉から絞り出すように発せられたフィンの言葉に、シーヴァはきょとんとした顔で一度瞬いた。何を言われたのか考える素振りを見せ、ぷっと小さく吹き出す。心底おかしい話を聞いたと言わんばかりに肩を震わせ、くすくすと笑いだした。


「フィン……本当にお前は、可愛い子ね」


 シーヴァは笑いを堪えて子どもをあやすような穏やかな口調でそう言うと、笑みを浮かべたまま再びフィンの方へと足を進めた。

 慈愛に満ちた微笑は普段とは違う外見がそうさせるのか、フィンの古い記憶が錯覚させるのか、どちらにしろいつものシーヴァとは違うものだ。


「来ないでください……シーヴァ」


 シーヴァが一歩近付けば、フィンも一歩後退る。追い詰められたフィンの背中はあっという間にドアにぴたりとくっつき、逃げ道を失った。

 シーヴァの精神的な支配が、フィンを縛り付けて逃がさない。


「ふふ、フィンったら、余程この姿が好きなのね。血も飲んでいないのに、すごいわよ……心臓の音」


 フィンの胸板に両手で触れたシーヴァは顔を上げて嬉しそうに目を細める。その姿がフィンの記憶の中に存在する一人の女性を思わせ、堪らずシーヴァから目を逸らした。


「シーヴァ……死者を冒涜するのはやめてください……。なんでもいい……今すぐ姿を変えてください……」


「……嘘つきね。人間みたいな綺麗事はやめなさい。この体が欲しいって……顔に書いてあるわよ」


 囁き声と共に背伸びをしたシーヴァの顔が近付き、フィンは息を呑んだ。ほんの僅かな隙さえも見逃さなかったシーヴァは、柔らかな唇を彼の閉ざされた薄い唇へそっと重ねる。


「っ……」


 優しく唇が重なったのも束の間、シーヴァはフィンの下唇に鋭い牙を立て、痛みに眉を寄せるフィンを見つめながらぺろりと滲み出る血液を舐めとった。


「シーヴァ……っ」


 フィンは胸板に添えられたシーヴァの細腕を掴んでささやかな拒絶の意思を示すが、力の込もらない抵抗は何の意味ももたない。

 嘲笑うようにくすりと笑みを溢し、シーヴァは血の沸き出るフィンの唇に吸い付き、やんわりと舌を口内に差し入れた。

 混ざり合う唾液と血液を味わい、フィンの舌を捕らえて血を絡ませる。

 キスか吸血行為か分からない二人の繋がりは、この先に進む前の甘美な誘惑に他ならない。


「ねぇ……早く素直になりなさいよ」


 シーヴァの熱をもった吐息が、お互いの唇が触れ合う距離で紡がれる。

 消極的な口付けが気に入らないシーヴァは、長い睫毛を伏せるフィンの首へと腕を伸ばした。


「お前の早鐘のような鼓動が、今日はとっても心地良いわ」


 赤く染まり始めた瞳が爛々と輝きを放つと、シーヴァは自身の舌をフィンに見せつけ、剥き出しとなった牙を躊躇いなくぷつっと突き立てた。


 じわりと溢れ出した魅惑的な血液の香りがフィンの本能を刺激し、脈打つ鼓動が激しく警鐘を鳴らす。


「……舐めて、フィン」


 最早抗うこともできない甘すぎる誘引は、記憶の中でしか生きられない最愛のひとの幻と共に、欲望だけを求める獣の本能へと引きずり込む。


 吸血鬼の美しい容貌は、獲物を惹き付けるための恐ろしく狡猾な罠だ。


 自分の従僕ものであるフィンを完全に掌握する術を本能で見極めたシーヴァは、既にこの世に存在しない彼の妻を模した姿で微笑みかける。


 二度と逢うことはできないはずの人物が、目の前にいる。


 フィンはシーヴァの細腰に腕を回して引き寄せると、彼女の舌から溢れる真っ赤な鮮血を舐め取るように舌を重ね、潤った唇に食い付いた。

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