episode.6


「んっ……」


 溢れ出した互いの血液を味わうように唇を合わせた二人は、息を荒げながら舌を絡ませ、キスという名の吸血行為に及ぶ。


 合間に漏れる熱を帯びた吐息が興奮を煽り、夢中になって角度を変えては何度も深く唇を重ねていく。


 貪るように繰り返し求め合っていた二人の唇が離れた時には、血の滲んだ赤い糸が名残惜しそうにぷつりと途絶え、欲望に染まる深紅の瞳がお互いを映し出した。


 何者も寄せ付けない閉鎖的なこの空間で、ふたつの息遣いと心臓の鼓動だけが微かに耳に届く。


 眉を寄せた険しい表情のフィンを見上げたまま、シーヴァは嬉しそうに目尻を垂れ下げた。

 見慣れた愛想のない顔に浮かぶ、微細な感情の動き。今まで獣の本能だけを色濃く宿していたフィンの虚ろな瞳が、今日はシーヴァの姿をはっきりと映している。


「フィン……」


 愛おしいものを呼ぶように自然と声が零れ出ると、腰に回っていたフィンの腕にぐっと力が込められ、思考が動くよりも先にシーヴァの体はきつく抱き締められていた。

 思いもよらないフィンの行動に、シーヴァは驚いて目を見開く。華奢な体を包み込む痛いくらいの締め付けが、ほんの一瞬、息をするのも忘れさせた。


 何度となく体を重ねて繋がり合ってきたというのに、シーヴァは初めてフィンの体温を知ったかのような錯覚に襲われ、頭が混乱した。隙間なく埋まる体から聞こえるフィンの心音が自分の音と重なり、同じ速さで鼓動していることに全身が熱くなる。


「フィン……っ」


 金色の髪が動揺するシーヴァのうなじを擽ると、細い首にフィンの唇が触れる。それが吸血行為とは別に、ただのキスによる愛撫だと気付いた時には、シーヴァの頬は一気に紅潮した。


 慣れない感覚に無意識のうちにフィンの背中に腕を回してしがみつき、優しく吸い付きながら首を這い上がった唇が耳に触れると、シーヴァはぴくりと体を反応させた。



「──……キアラっ……」


 吐息混じりに耳元で囁く掠れた低い声が、突然シーヴァからすべての音を奪い去った。


 ──キアラ。


 消え入りそうな声でも、はっきりと聞こえた。自分とは別の名前。


 キアラ。

 確かにフィンは、そう口にした。


 恋人を抱くようにシーヴァを腕の中に閉じ込めながら、悲哀に満ちた声音で他の女の名前を呼ぶ。


 優しく肌に触れる唇も、力強い抱擁も。

 フィンの赤い瞳が見つめていたものが自分ではないことに気が付いたシーヴァは、味わったことのない虚無感とともに、フィンの体を強引に押しのけた。


「フィン……お前は本当に、悪い子ね……」


 フィンの腕の中から逃れてふらりと後退ったシーヴァは、顔を伏せて静かな声でそう呟き、自嘲気味に唇を歪めた。


 別の女の姿を模したところで、シーヴァはシーヴァでしかない。姿形を変えたのは獲物フィンを誘惑するためであり、別人として認識されるためではない。シーヴァにとって自分の外見とは、狩りをする為の手段でしかないのだ。


 フィンが好む姿になっただけ。

 別の女と混同されることが、どうしてこんなにも腹立たしいのか──……。


「シーヴァ……」


 唐突なシーヴァの態度に理解できない様子で立ち尽くしていたフィンは、怪訝な顔で眉を顰めたあと、ハッと目を見張った。


 目の前に佇むシーヴァの姿が、みるみるうちに変化していく。

 背丈は15センチ程縮まり、栗色の髪は艶めく銀色の長い髪へと変わる。身に付けているシフトドレスは14、5歳の少女には少し大きいようだが、服以外のすべてが人形のように美しいいつものシーヴァの姿に戻っていた。


「ご主人様を他の女の名前で呼ぶなんて、お仕置きが必要なのかしら? フィン」


 唇に付着していた血液をぺろりと舐め取り、シーヴァは威圧的な笑みをフィンに向けた。


「名前……名前は、無意識でした……すみません」


「謝れば許してもらえるとでも思っているの?」


 互いの熱が冷めきったことは、瞳の色が証明していた。

 伏せた長い睫毛で赤みがかった灰色の瞳を覆い隠し、フィンは僅かに乱れたスーツの襟を正しながら小さく息を吐き出す。


「なぜ……苛立っているんですか? これは、貴女が望んだことではないのですか? キアラの姿になるということは、そういうことです。彼女の姿を借りるのならば、私は貴女とキアラを切り離して考えることはできません」


「……私が悪いって言いたいの?」


「姿を変えてくださいと……言ったはずです」


 聞き慣れた無機質な声に、感情を見せない仮面のような表情。

 それでも『キアラ』と名前を口にする瞬間だけは、フィンの表情が微かに陰るということを、シーヴァは見逃さない。


 なぜ──とっくの昔に死んだ人間のことをいつまでも忘れないのか。

 なぜ──フィンの心はいつまでもシーヴァだけのものにならないのか。


 なぜ──……



「キアラ……お前の心を占める、憎悪の根源……」


 シーヴァは反芻するように小さくそう呟くと、俯きがちに顔を両手で覆った。閉じた瞼の裏側で広がる闇が、シーヴァを冷静な悪魔へと変貌させていく。


「ふふ、そうか……そうなのね。なんて簡単なことだったの」


 妖しげにくつくつと喉を鳴らし、シーヴァはゆっくりと顔を上げた。垂れ落ちた髪の隙間から赤い瞳を覗かせ、憐れむような視線をフィンへと向ける。


「フィン……お前が知りたかったことを、教えてあげる」


 天井に取り付けられたオレンジ色の照明が、ぱちぱちと小さな火花を散らして不気味に点滅し始めた。


 シーヴァの纏う空気が変わったことに気付いたフィンは、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。出逢った時と同じ妖艶で美しい微笑が、フィンの体を凍り付かせる。


「なんの、ことでしょうか……」


 自分より強大なものを嗅ぎ分ける本能が、無意識にフィンを緊張させている。分かっているからこそ、シーヴァは瞳を三日月型に細めた。


「フィン。お前の大事なものを奪ったのは……私よ」


 シーヴァの穏やかな声が、静寂した室内に響いた。


「なにを……言っているんですか……?」


「お前の家族を殺したのは、私だと言っているのよ。フィン」


 恐ろしい言葉とは裏腹にシーヴァは優しげな口調でそう言うと、今だに意味を理解できずに眉を動かすフィンへと、薄く微笑みかける。


「お前の両親も、キアラも……はらの子も……。あの日、全部私が奪ってあげたのよ。お前がずーっと探していた憎い相手は、私だったということよ」


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