episode.4


 やけに静かな夜だった。


 街灯の明かりが足元を照らし、建ち並ぶいくつかの家々からもれる淡い光が、家路へと向かう足を急がせる。

 友人とパブで酒を飲みながら過ごす時間はあっという間に終わりを告げ、静寂に包まれた夜の街で、コツコツと石畳を鳴らす靴音だけが響き渡る。


 十月三十一日ハロウィンが近い。

 幽世かくりよ現世うつしよの境界が最も薄くなるその日、先祖の霊だけではなく異界の妖精や悪魔までもが自由にあの世とこの世を行き来する。


 昔からそういった類のものを目にすることが多かったフィンにとって、この時期の闇の深い不気味なほどに静かな夜は、何かの前触れのような薄気味悪さを感じずにはいられなかった。


 ぞわぞわとした寒気がするのは、冷たい風が前髪を揺らしたからだけではないだろう。


 フィンは風に誘われるように俯いていた顔を上げ、全身に緊張を走らせた。


 思わずその場で足を止め、目を凝らす。


 街灯の下に、誰かがいる。


 フィンの視線の先には、黒の外套に身を包んだ銀色の長い髪をした女が一人、明かりに照らされて静かに佇んでいた。


 女はフィンに気が付いたようにこちらに視線を向けると、待っていたとばかりに一歩足を動かした。


 夜の闇を背負って浮かび上がる女の姿は、今にも消えてしまいそうな儚げな雰囲気を全身に纏いながらも、異様なまでに妖しく艶めかしい美貌でフィンに微笑みかけた。



 フィンとシーヴァが出逢ったその日。


 二人の始まりの日。



 ◆



「──……なぜ、私に付きまとうのですか?」


 警戒心を剥き出しにフィンが低い声で訊ねると、女は紅い唇で弧を描いたまま、蒼く澄んだサファイアブルーの瞳を細めるだけにとどめた。


「貴女ですよね……最近私のあとを付け回しているのは……」


 そう、女を見るのは、今日が初めてではない。まるで狙いすましたかのように、フィンが一人で行動する時に度々視界の片隅に現れ、じっとこちらを見つめてくるのだ。

 銀色の艶めく長い髪も、恐ろしく整った人形のように美しい顔立ちも、一目見れば簡単には忘れることなどできない。


 触れてはいけないもの。そう、本能が告げている。


「……私は、リァノーン・シーに好かれるような、芸術家や詩人ではないのですが」


 皮肉めいた物言いで口元に薄い笑みを浮かべると、女は驚いたように一瞬目を見開き、くすくすと愉快そうに笑い出した。

 リァノーン・シーはこの地に伝承として伝わる妖精だ。人間の男に愛を求め、受け入れれば芸術の才能を与える代わりに、生命を吸われてしまう。


「──……貴方の答えは、近くて……遠い」


 妖艶な笑みと共に潤った唇を動かした女は、ねっとりと頭にこびり付くような艶気のある声で言う。体の深いところまで入り込む魅惑的な声につられて女と視線を絡ませれば、フィンはたちまち金縛りにあったかのように指先ひとつ動かすこともできなくなり、その場で体を硬直させた。


 女の魔性がフィンを縛り付けたのだと気付いた時には、すべてが遅かった。

 女が人ではない“何か”であると悟ったところで、もうどうしようもない。


「私は貴方にひとつ……忠告をしに来てあげたのよ」


 静かな足取りで一歩一歩近付いて来る女の笑みを見つめ、フィンの手にじわりと汗が滲む。恐怖そのものが、形を成して迫って来る。

 今にも魂を吸い取られてしまいそうな神秘的なサファイアブルーの瞳が、フィンを見据えたまますぐ目の前まで近付いて来た瞬間、突如としてその姿が消えてなくなった。


 何もない街灯に照らされた石畳の道だけが眼前に広がり、フィンは目を見張る。


「──……今夜、貴方の家に嘆きの妖精バンシーが来るわ」


 突然背後から耳元で囁かれ、ぞわりと背筋が粟立った。

 眼前から消えたはずの女が、フィンの肩にそっと両手を置いて、尚も囁く。


「早く帰りなさい。……フィン・オブライエン」


 その一言で纏わりつくような女の気配がふっと消え去り、フィンは詰めていた息を思い切り吐き出して呼吸を荒げた。たった数分の間に嫌な汗がびっしょりとシャツに染み込んでいる。


「バンシー……」


 女の言葉を反芻するように消え入る声で呟き、フィンはハッとして顔を上げた。


 嘆きの妖精は、死を予見する──。



 ◆



 ゆっくりとした足取りでコツ、コツとレンガ調の地面を踏み鳴らし、住宅が立ち並ぶ一帯の中でもひと際大きい邸宅の前で足を止めた。

 明かりのない深夜の邸宅は静まり返り、辺り一面は闇に浸かっている。

 玄関ドアのすぐ横に、しゃがみ込んで灰色のマントを身にくるませた女が、しくしくと啜り泣いている姿が目に入った。


 シーヴァは蹲る女を一瞥し、玄関のドアノブを捻る。鍵の閉まっていないドアは静かに開き、招かれざる客をすんなりと受け入れた。


「ああ……すごい匂いね」


 室内へと足を踏み入れたシーヴァは、眉を顰めて呟いた。


 人気のない真っ暗な室内を見渡し、足元に視線を落とす。黒い点がぽつぽつと床に跡を残し、奥の部屋へと続いている。

 夜目がきくシーヴァにとって、暗闇は闇ではない。


 なんの躊躇もなく跡を辿るように奥の部屋に向かうと、リビングらしき広い一室で立ち止まった。


 室内はテーブルや椅子といった家具が散乱し、割れた窓ガラスから冷たい外気が流れ込んでいる。

 獣が暴れたのかと思うほどに荒れた室内で、シーヴァは力なく床に座り込んでいる男の背中を見つめた。


「……間に合わなかったのね」


 微かに息を漏らして発したシーヴァの言葉に男はぴくりと反応を示すと、腕に抱いているものをぐっと引き寄せた。


「知っていたのですか……こうなることを……」


 今にも消え入りそうな掠れた声が、非難の響きを含んでシーヴァに向けられた。


「知っていた……と言ったら、どうするの? 私を殺す?」


 含みのある笑みを浮かべたシーヴァの問い掛けに、男が答えることはなかった。

 シーヴァは男の様子に小さく息を吐き出すと、酷く荒れた室内を見回し、暖炉に目を止める。暖炉に向かってすっと人差し指を伸ばせば、火の気のなかった暖炉に突然火が灯り、ぱちぱちと薪の爆ぜる音が響き始めた。


「酷いわね……人間の仕業じゃないわ」


 憂いを帯びた声音で呟き、男の背中を見つめる。


 床や壁に飛び散った血はまだ真新しく、部屋中を満たす噎せ返るような血の匂いがシーヴァの鼻腔を刺激する。

 リビングには無惨に引き裂かれた2人の遺体が転がり、暖炉の火がその凄惨さをまざまざと照らし出している。

 男の腕に抱かれた女性と思われる3人目が、事切れた腕をだらりと垂らして血の海に沈んでいる姿を見て、シーヴァは目を細めた。


 女性の左手の薬指に嵌った指環が、血に塗れて本来の輝きを失っている。


「許せないわね……貴方の大事なものを奪った奴が……」


 言いながら動かない男の背後でしゃがみ込み、白く透き通った手を男の肩にそっと置いた。


「無能な人間では、貴方の望みを叶えることはできないわ。私が力を貸してあげる……貴方の大切なものを奪った奴を見つけ出し、葬る力を……」


 耳元で囁く甘い誘惑は、途切れた男の心の深くまで浸透し、死人のように色を無くした瞳にひとつの炎を灯した。

 血に染まった両手にのし掛かる、温もりを失い始めた重みが、悪魔の囁きに耳を貸す。


「フィン……私のものになりなさい。貴方の苦痛も悲哀も、全部私が受け止めてあげる」


 シーヴァは動くことも言葉を発することもしないフィンの首から顎へとしなやかな手を滑らせ、首筋に熱い吐息を当てがった。


 欲しかったものが、やっと手に入る。

 

 抵抗さえする気のないフィンを前に歓喜の笑みが溢れると、獲物を前にした獣のようにぎらぎらと瞳を光らせ、開いた口から覗く鋭い2本の牙を、フィンの首筋に深く食い込ませた。


 皮膚を突き破って溢れ出した極上の血を吸い上げれば、フィンの顎を掴んでいたシーヴァの手に、一筋の熱い雫が流れ落ちた。


 熱の込もった彼の悲しみを代弁するように、家の外では悲痛な嘆きの妖精バンシーの叫び声が、シーヴァの耳にいつまでも届き続けた。


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