第3話 チョコをあげない女子は暴力を振るわれても仕方がない!?
それから、美樹が受ける暴力はより一層ひどいものとなりました。私がガードすることが減ったからです。
健輔くんは、どういうときに暴力をふるうのか、大人の私が見ていてもまるで予想がつかない子でした。強いて言うなら、美樹が急に立ち上がったから殴ったとか、健輔くんがおもちゃのピアノを弾いたときに美樹がお人形を触ったから噛んだとか、そんなふうにしか見えないのです。おそらく美樹が思い通りに動かないとカッとなって暴力を振るうようなのですが、美樹にどうしてほしいと思っているのかが見ていて全然わからない子でした。
「嫌なことをされたら、やめてって言おうね」と美樹に教えて、美樹がその通りにしても、健輔くんが取り合わないので、まるで意味がありませんでした。
美樹は「やめて、やめて」と言いながら健輔くんから追い回される、そんな日々が続きました。健輔くんは美樹をすっかり気に入ったようで、逃げても逃げてもしつこく追い回すのでした。
そのうち美樹まで癇癪を起すようになってしまいました。おなかがすいたとか眠いとか、そんなことでイライラし、私に八つ当たりしてきます。また、以前まではできていた「待つ」ということができなくなり、「今すぐ」を要求するようになりました。お母さんこれ見て、ちょっと待ってね、そんなことが不可能になってきたのです。待たせると大泣きしてしまいます。
美樹の変化について夫に相談すると「ひとりっ子で自由だった生活が奪われてストレスがたまってるのかもしれないけど、でも成長のためには必要なことだよ。小学校に行く前に集団生活の練習になって良かったじゃないか」と軽く言うのでした。本当にそうだろうかと疑問に思いました。でも、確かに約2年後には小学校に入学することになって人間関係もいろいろあるだろうから、いまは辛くてもこれで美樹が強くなってくれるのならそれは良いことなのかもしれないと思いました。本当に馬鹿でした。
ある午後のことです。偶然、鏑木部長の奥様と街中で再会しました。
健輔くんを預かるようになってから、奥様はひんぱんに外出しているようで、私とは滅多に会わなくなっていました。毎日のように毒親のことを愚痴りに来ていたのが嘘のように、うちに寄りつかなくなったのです。
奥様は初めて会ったときとは別人のように綺麗におしゃれして、メイクもヘアスタイルも気合いが入っていました。
「今日は、昔の男友達とランチしてきたんですよ」とにこやかに言う奥様に、わざわざ「男」友達って言うの何……と思いつつも、「そうですか……」良かったですねと言おうとしたけれど、なぜか言葉が途中で詰まって出てきません。
どうして奥様はこんなにニコニコとランチした話を私にできるんだろうって、不愉快な気持ちになりました。それに、今の私の格好は、くたびれたトレーナーとジャージのズボンだし、美容室にもしばらく行っていません。エコバッグにネギをさし、噛まれ痕のついた腕で特売の米5キロを抱えた私と、小さなハンドバッグ一つでパンプスを履いた奥様は対照的でした。私がぼろぼろになって健輔くんを預かっているのに、奥様が綺麗になっているいるのがとても理不尽に思えました。
いくら部下とはいえ、正直、お礼の一言ぐらいあってもいいんじゃないのって思いました。それならまだ多少は気の持ちようもあったと思うんです。
奥様に対してさらに疑問に思うことがありました。それは2月15日の朝のことでした。
美樹は登園のための幼稚園バスの中で、健輔くんから腕をかなり激しく噛まれ、早退して泣いて帰ってきたのです。内出血して青くなった娘のやわらかな細い腕を見ていると、私は涙と怒りがわいてきました。今までずっと我慢してきたけれど、もう限界です。鏑木部長の奧さんに苦情を言いにいきました。
「健輔くんにうちの美樹がひどい暴力を振るわれたんです!」
私の抗議に対して、ばっちりメイクで出てきた奥様は「それは美樹ちゃんが悪いんだと思いますよ」と思いもよらないことを口にしました。
「み、美樹が……? え、は? はい?」
どんなに謝罪されても許さない、ぐらいに思って突撃した私は、まさかの展開に言葉を失いました。
「バレンタインデーに美樹ちゃんは健輔にチョコをくれなかったでしょう? だから健輔が怒っているんです」
ちょっともう何をおっしゃっているのかよくワカラナイです……。
「何ですかそれ……。奥様は、チョコをもらえないなら人に噛みついても仕方がないと思ってらっしゃるんですか」
「だって、美樹ちゃんは健輔のことを好きなわけでしょう。だから、バレンタインの日には美樹ちゃんがチョコをくれるよって私言ってたんです。それなのに期待させといて酷いじゃないですか」
「はあああ?」
私はもうこの人が上司の奥様だと思って遠慮するのをやめました。物の考え方があまりにも身勝手すぎます。子供を預ってもらっておいて、チョコをくれないなら噛まれてもしょうがないだなんて、どう考えてもおかしいと思います。これははっきり言ってやらないと気が済まない、そんな気持ちでした。
「チョコをあげるなんて私も美樹も約束していないのに、そういう話を健輔くんにするのは良くないと思います。子供に余計な期待をさせて傷つけたのは奥様自身です。それに、どんな理由があろうと暴力を正当化するのも間違いだと思います。あと、うちの娘は健輔くんのことは好きじゃないです、むしろ嫌ってると思います! わ、私もはっきり言って健輔くんを預るのは大変だし迷惑だって思っています!」
心臓ばくばくしながらも言いたいこと全部言ってやったと思わず息をつくと、奥様はキっと睨んできました。
「はあ? じゃあ、なんで健輔を預かりたいって頼んできたんですか?」
「な、何ですかそれ! 私は預りたいなんて思ってませんし頼んでませんから!」
「ああ、そう。じゃあ、もう預らせてあげません」
「預ってもらっておいて、随分な言いぐさですね。もう二度と息子さんをうちに預けないでください!」
私はそう啖呵を切ってやりました。私はもともとそんなにけんかっ早い人間ではないのですが、どうもこの鏑木部長の奥様は好きになれなくて、ふだん以上にきつい口調になっていたと思います。
帰宅した夫にこのことを話すと、娘に同情するより先に、「それは健輔くんが可哀想だ」と言い出しました。呆れました。
「可哀想だと思う相手を間違えてるよ。まず娘でしょ。腕が内出血してるんだよ!?」私がそう言っても、「小さくても男のメンツを潰されたんだから、健輔くんだってそりゃ怒るよ」と言うのです。
それに「預らせてあげてる」ってどういうことなのかと問い詰めると、夫は「ああ、なんだそんなことか」と言って、事情を説明してくれました。なんと部長は奥様に対して「部下夫妻が健輔をどうしても預りたいと言っている。きっと美樹ちゃんが健輔を好きなんだろう」と説明しているというのです。
うちが健輔くんを預りたいと思っているだなんて! 冗談じゃない、そう思いました。
「奧さんが健輔くんを殺しそうだから、それで部下に頼み込んで預ってもらうことにしたってちゃんと本当のことを言ってほしかったなあ。うちが健輔くんを預りたいと思ってるだなんてあり得ないでしょ。あの部長、随分と図々しいんだね」
思わず部長の陰口を言ってしまう私に、夫はそうじゃないんだと言い出しました。
「実は俺のほうから提案したんだ。美樹のために、うちから預らせてくれってお願いしたことにしてもらった」
私は呆然としました。
「なんで……?」
「だって、本当のことを言ったら恩着せがましくなるだろ。奧さんもうちに気を遣うだろうし。そんなの気の毒じゃないか。人助けって感謝されたいって思うのは間違いだと思うんだ。うちは感謝されなくてもいいから、鏑木部長の家庭が円満になってくれたらそれでいいじゃないか」
「それで、うちの娘が犠牲になってもいいっていうの?」
「犠牲とか大げさだって」
夫は笑いました。
「子供どうしの喧嘩で怪我なんてよくあることだよ。むしろ今までそういう経験をしたことがなかったのが温室育ち過ぎたんだ。良い経験ができて良かったじゃないか」
のれんに腕押し。そんな言葉が頭をよぎりました。内出血した娘の腕を見ても、夫は意見を変えませんでした。
「こうやって喧嘩したり、痛い思いをすることで、ひとりっ子のわがままがなくなって、思いやりのある子に育つんだよ」
夫は美樹ににっこり微笑みました。美樹は無表情で夫を見上げていました。
<つづく>
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