第2話 他害のあるお子さんを預ったら、うちの娘が良い子になる?


「健輔くんをうちで預るってどういうこと……?」

 夫は仕事から帰ってくるなり、食事も着替えもせずにおかしなことを言うので、私も夕飯を温める手をとめて、夫を問いただしました。

「鏑木部長から相談されたんだ。このままでは奧さんが健輔くんを殺してしまうんじゃないかって」

 奥様は会うたびに「息子が可愛くない」「息子がいなくなればいい」と口にしていました。

「でも殺すなんて大げさなんじゃ……」

 そこまでひどいとはちょっと想像できませんでした。

「健輔くん、すごく痩せてるだろ。きっと食事も満足にもらってないんだと思う」

「……確かに痩せてるのは心配だよね……」

 それに、ただ痩せているだけでなく背が低いのも気になりました。まるで長期にわたって食事を与えてもらっていないかのよう……。

「それに部長がいないときに叩かれたりしているみたいでさ」

 健輔くんをうちに連れてきたときの奥様の手加減なしのビンタを思い出し、たしかに第三者が介入したほうが良いケースなのかもしれないなとは思いました。

「だったら、うちより児童相談所とかに相談したほうがよくないかな」

「いや、そんな大ごとにしたら、かえって親子の仲がこじれるだけだよ。昼だけでいいんだ。奧さんが子供と離れられる時間を作ってあげられないか? 母親にちょっと息抜きさせてあげるだけで親子関係が改善するってこともあると思うし。部長がいない昼の時間帯だけでいいから預かってやろうよ」

「そんな簡単に言わないでよ。お子さんを預るって大変なことなのに」

 よそ様のお子さんを預って万が一のことがあったらと思うと不安です。しかも上司のお子さんだなんて! お互い様ですよねーで済むような気安い関係ではないのです。怪我でもさせたらシャレにならない……。渋る私に対して、夫は、

「でも、健輔くんを預るのは美樹のためにもなると思うんだ。美樹はひとりっ子で甘やかされているから、ほかの子と一緒に育つのは社会性を育てるためにも良いことだと思う。兄弟けんかの一つも知らずに育つほうが可哀想だ」と言うのでした。

 それも一理あるかもと悩む私に、夫はだめ押ししてきました。

「もう預るって部長と約束したし、いまさら断るなんてできないよ。鏑木部長との関係が悪くなったら職場で居場所がなくなる。最悪クビだってあり得る。俺がクビになったら、美樹の生活だって立ち行かなくなる」

「もう、なんでそんな約束したの!」

 そう怒っても、今さら手遅れなのでした。



 それから、健輔くんをうちに預かることになりました。

 すると、どういう風の吹き回しか、いままで登園拒否をしていた健輔くんが急に幼稚園に通い始めたのです。娘が楽しそうに幼稚園バスに乗るのを見て、何か思うところがあったのでしょうか。健輔くんは娘と一緒に幼稚園に行って、二人で昼過ぎに帰ってくると、そのまま夜までうちで過ごすという生活が始まりました。

 娘は何もしてないのに叩かれ、噛まれ、おもちゃをとられて泣いてばかりです。健輔くんの暴力は娘にとって一方的かつ理不尽なものでした。私が間に入って健輔くんを叱っても、健輔くんはぎゃーと叫びながら私に掴みかかってきたり噛みついてきたりするだけで、まるで効果がありません。「叩いたらダメだよ」と言って聞かせても、全然違うところを見ているか、もしくはヘラヘラするばかりでちゃんと聞いているのかどうかもわかりません。5歳ならもうちょっと話を聞いてくれるはずといいますか、反抗するにしてももうちょっとコミュニケーションが取れると思うのですが、健輔くんは私の存在を認識しているのかどうかすら怪しいところもありました。

 あと、健輔くんが痩せている理由もわかってきました。偏食がひどい上に、かなりの少食なのです。幼稚園で昼食が出ない日、私がオムライスやうどんなんかを作って出しても全然食べてくれません。美樹が言うには、健輔くんは幼稚園で出る食事にも手をつけないそうです。それでいてよく動くし大きな声も出すので、消費カロリーは普通の子以上だろうと思えました。痩せて当然であって、少なくとも親が食事を与えていないということはなさそうです。ただ、体にはアザがたくさんありました。きっと奥様に叩かれたのだろうと思います。小さな体にいくつもアザを抱えている健輔くんは、しかしアザのことを聞いても何も言いませんでした。ただ、お母さんのことを聞くと「お母さんは鬼ババア」とだけ繰り返し何度も言っていました。そして、何か思い出したのか、突発的に美樹を叩くのです。

 これは大変な子を預ることになってしまいました。私は後悔しきりです。



 ある夜、夫に、「もうこれ以上、健輔くんを預かれない」と告げました。

「美樹は泣いてばかりだし、健輔くんは叱っても反省しないし、私は一日中美樹のボディーガードをやってもうクタクタだよ」

 すると夫は「ちょっと過保護なんじゃないの」と言い出しました。

「けんかのたびに親が割って入って止めてたんじゃ、美樹のためにならない」と言うのです。

「でも、そういうのって、普通の子が相手のときの話でしょ……」

 私がそう言うと、夫が「普通の子? それってどういう意味だよ」と険しい顔をしました。

「ここだけの話なんだけど、健輔くんって何か障害があるんじゃないのかな……」

「なんてひどいことを言うんだ!」と、夫は激昂しました。

「よそ様の子を、そんなふうに言うなんて、見損なったよ」

「だけど、健輔くん、やっぱりちょっと変だよ! 理由のない暴力がひどいし、もううちでは面倒みきれない」

「ちょっと変なだけで障害者扱いするなんて軽蔑するね! 医者でもないのに他人の障害の有無についてとやかく言うなんて、障害者を侮辱しているよ」

 夫はすっかり怒ってしまいました。そんなことを言う夫のほうが障害に偏見があるように私には思えます。私は健輔くんに障害があるかもしれないからといって見下したりするつもりもないし、付き合いたくないと言っているのではなくて、シロウトには荷が重いと言っているのです。健輔くんには適切な治療なり援助なりが必要なのではないかと言っているのです。そして、治療や援助は我が家では提供できないし、娘を犠牲にしてまで他人にしてやるべきでもないと思っているのです。しかし、夫は障害者差別反対! と言って聞く耳を持ってくれません。

「健輔くんね、体がアザだらけなんだよ。児童相談所に相談しようと私は思ってる」

 それさえ夫は反対しました。

「部長の奥様が虐待をしていると通報するだなんて、そんな失礼なことできるわけないだろう。俺はどんな顔して職場で部長と会えばいいんだよ」

「でも、このままじゃ健輔くんが可哀想だと思わないの!?」

「可哀想じゃないよ、むしろちゃんとしつけをしようと親として努力されてて立派じゃないか。やんちゃな男の子なんだから、親がちょっと叩くぐらい普通のことだし、子供は皮膚が弱いからアザができやすいだけだろう。痩せてるのだって少食が原因なんだろ? なら問題ないじゃないか。前から言っているけど、きみは過保護すぎ!」

 正直なところ私には夫の理屈がよくわかりませんでした。でも、「男の子なんだからそれぐらいの躾は普通」とか「通報したら今後の付き合いが」と言われると、私も強く言えなくなってしまいました。

「だいたい美樹もさ、嫌なことされそうになったらうまく逃げたり、やめろって言うようにトレーニングすべきだろう」

 その点についても強く反論できません。たしかに美樹は一方的にやられっぱなしが過ぎるのです。もうちょっと自力で抵抗できるようになって欲しいとは思っていました。

「美樹のためを思うなら、ここは我慢すべきなんじゃないの」

 そう言われて、私は夫の言うことも一理あると思ってしまいました。



 ある朝、ゴミ出しにいくと、ゴミ収集所で奥様と一緒になりました。

 奥様は「健輔の昼食のことなんですけど……」と言いにくそうに話しかけてきました。私はたまに作ってあげていたから、てっきりお礼を言われるのかなと思ったのですが、奥様は「ちゃんと食べさせてくれてますか」とおっしゃいました。

「え? あ、ええっと、お昼はですね、作っても健輔くんが食べてくれなくて……」

 戸惑いつつ、そう説明すると、奥様は眉をひそめて、「やっぱり」とため息をつきました。ええっ、これってまさか私が責められているんですか?

「健輔が食べられるのは、味つけ海苔で白いご飯を巻いて一口サイズにしたおにぎりとサッポロ一番の塩ラーメン、薄切りの牛肉に塩胡椒してさっと焼いたもの、それとお菓子だけですから。自分からは食べてくれませんので、食事は一口ずつスプーンに乗せて、口に入れてやってください」と私におっしゃいました。

「え? うん? ええ? えっと?」

「健輔は食事嫌いだから、無理に食べさせようとすると癇癪を起して手に噛みついてくることもあると思いますが、よろしくお願いしますね」

「えっ……」

「それじゃ」

 一方的に要求だけして、奥様はそそくさと御自宅に戻っていかれました。

 ……え? つまり、健輔くんが食べられる昼食を私が用意しろと、そして噛まれながら食べさせてやってくれと、そういうことでしょうか。

 モヤっとしましたが、上司だし、しょうがないのかな……それにしても……ちょっと図々しくないですか?


<つづく>

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