懺悔~虐待ママ友と他人優先の夫に挟まれて

ゴオルド

第1話 引っ越したら隣家が夫の上司でした

 5歳年上の夫とは職場結婚でした。

 夫は優しい人で、たとえばお客様が勘違いして怒鳴りこんできても、「誰だって勘違いすることはあるから」と笑って受け流せる人で、そういう平和主義なところがいいなと思ったのが結婚の決め手となりました。

 デートしているときも迷子を見かければ声をかけるし、ベビーカーを押す女性にエレベーターを譲ったりして、そういうところも素敵だと思ったんです。


 そんな夫の優しさが、のちに私と娘を苦しめることになるなんて思ってもみませんでした。




 結婚して2年ほどして、私たち夫婦の間に娘が誕生しました。夫の名と私の名から1文字ずつとって「美樹」と名づけました。

 5歳になった美樹はよく笑う、いつも機嫌のいい子で、ちょっとトロいところさえ可愛い子です。通わせている幼稚園では小さい子の面倒を見るなど優しい面もあるけれど、意地悪な子からやられっぱなしという、夫の平和主義をそのまま受け継いだかのような性格でした。

 夫は「美樹はひとりっ子だから人付き合いがうまくできないかもしれない」と心配しているのですが、私はそんなことはないと思っていました。保育園では仲良しのお友だちが何人かいるし、意地悪な子さえいなければ問題ないのですから。



 12月のある日、夫は転勤を命じられ、私たち一家は1週間という急なスケジュールで引っ越しを余儀なくされました。それも年の瀬という時期ですから、かなり無茶な転勤です。しかし、これは会社側の一方的な都合ということで、転勤先の新上司がなにかと世話を焼いてくださったようです。新居については、夫の新上司が紹介してくれたマンションに住むということで夫と上司の間で既に話が決まっておりました。何せ急なことでしたから、紹介していただけるのならありがたいと私は安易に考えてしまいました。時間の余裕がなく、引っ越し業者を決めたり、近隣に挨拶に行ったり役所に行ったり、もちろんその合間にも家事や育児はあるわけでてんてこ舞いでしたから、新居探しをしなくていいのは確かに助かったのです。



 引っ越し先は、5階建てマンションの最上階でしたがエレベーターはなく、正直がっかりしました。でもまあ、ここに住むことは決定しているわけですから、今さら文句を言っても仕方ありません。早く慣れるしかないなと腹をくくって引っ越し作業をしていると、うちの隣の方が挨拶に見えました。私たちより一回りぐらい年上のご夫婦(30代後半ぐらいでしょうか)で、男性は細身で神経質そうな感じ、女性はよく言えば清楚、悪く言えばちょっと暗い感じの方でした。髪はぼさぼさだし、服も毛玉が目立ちました。心なしか顔色もくすんでいるような印象です。

「急な転勤で、それも年末に大変でしたね」

 男性のほうからそう挨拶されて、私はギョッとしました。

 夫はにこやかに、

「こちらから挨拶に伺わないといけないところでしたのにご足労いただいてしまって。部長には住まいを紹介していただいて本当に助かりました」と挨拶しています。

 まさか上司が隣に住んでいるとは……。反射的に嫌だなと思ったのですが、それを顔に出してはいけないと思い、私も精いっぱいにこやかに「大変お世話になりました。今後もどうぞよろしくお願いいたします」と少々つっかえながら挨拶しました。

 すると、奥様が、「5歳の娘さんがいらっしゃるんでしょう? 今どちらに?」とおっしゃいました。

「あ、娘は引っ越しの間は実家のほうに預かってもらっているんです」

「そうなんですか。うちの息子も5歳なんです。どうぞママ友になってください」

「わあ、そうなんですね。こちらこそよろしくお願いいたします。このあたりに知り合いもなく不安だったので、そう言っていただけて嬉しいです」

 それは割と本心でした。ママ友になれたらいいなと、本当にこのときは思ったのです。


 部長夫妻が帰るなり、表札を買いに行くと夫が言い出しました。

「ひ、表札? マンションって表札は出さないのが一般的だと思うけど……」

「でも、隣の部長はちゃんと表札を出しているし」と言います。

 確かにお隣は、「鏑木かぶらぎ」と彫られた立派な木製の表札が出ています。

「だからって、うちまで立派な表札を出したら、鈴木部長さんのところと張り合ってるみたいにならない?」と私が言うと、

「それもそうか」と夫は納得し、「じゃあ、プラスチックの板にでも名前を書いて張っておくか」と言い出しました。なんだかとってもどうでもいい……。でも、お隣が上司ってのは、こんなふうに小さなことにも気を遣うものなのでしょうね。

「まあ、好きにしたら良いよ。それより早く家を片づけて、美樹を迎えにいってあげようよ」

「その前に表札をちゃんとしないと。部長に失礼があってはいけないから……」

 ちょっと部長に気を遣いすぎじゃないかなと思いましたが、社内での人付き合いのことに退職した私があれこれ言うのもどうかと思い、黙っていました。

 というわけで、夫は表札のためのプラスチック板の入手のためにホームセンターへ行き、私はひとりで段ボールの開梱作業をすることになってしまいました。そのため実家に美樹を迎えにいったときには、美樹はすでに寝てしまっていました。




 転居して1週間がたちました。

 美樹をつれて、あちこち出歩いて、だいたいの土地勘みたいなものも身についてきて、美樹も家にばかりいても良くないでしょうから、通わせる保育園か幼稚園を決めようと思いました。

 美樹ももう5歳ですし、聞き分けの良い子ですから、私もその気になればすぐにでも仕事に復帰できそうです。それなら保育園です。でも、引っ越しで環境が変わって、美樹も仲良しのお友だちと離ればなれになったストレスもあるでしょう。それなら小学生になるまでのあと2年間、このまま専業主婦として一緒にいてあげるのもいいかなという気持ちもありました。その場合は行かせるのは幼稚園という選択肢もあるわけです。以前通っていたのが幼稚園でしたから、慣れた環境に戻してやるのが良いような気持ちもありました。

 そんな矢先、鏑木部長の奥様が、息子さんを連れて我が家を訪ねてきました。息子さんはかなり痩せていて背も低く、とても5歳には見えないほど華奢でした。

「お邪魔してもいいですか?」

 上司の奥様にそんなことを言われて、断れるはずもありません。

 散らかってますがどうぞと二人をリビングに通すなり、息子さんは娘にむかって突進しました。びっくりして固まる娘の手から犬のぬいぐるみをひったくると、犬の目として縫い付けられたボタンを撫ではじめました。

健輔けんすけったら本当にもう……、済みません」

 そのときの奥様はとても暗い目をしていました。

「こらっ、健輔! 人の物を勝手にとったらダメでしょう!」

 そう怒鳴るように言うと、健輔くんの手からぬいぐるみを強引にもぎとりました。すると健輔くんは、ぎゃーっと声を上げて、奥様の手に噛みつきました。奥様は噛まれていないほうの手で健輔くんにビンタしました。

「え、ちょ、えっと、お、奥様、あの……」

 とっさのことに反応できず、おろおろする私に、奥様は、

「本当にごめんなさいね」と言って、健輔くんの肩を押すようにして突き飛ばしました。とても痩せた健輔くんは、押されて尻餅をつきました。娘はそんな健輔くんを目を見開いて凝視したまま固まっていました。奥様は美樹にぬいぐるみを返してくれたんですが、娘は呆然とした様子で受け取っていました。それもそうでしょう。大人の私だって今目の前で起きたことに衝撃を受けて呆然としているのですから。

 美樹はかたい表情で健輔くんの側にしゃがみ込むと、ぬいぐるみを差し出し、「遊んでいいよ」と言いました。健輔くんは何も言わずにぬいぐるみを受け取ると、また目を撫ではじめました。

「娘さん、優しいんですね」と、奥様はどこかうらやむような声で言いました。その声の暗さに、なんだかぞっとするものを感じました。

 私は何と答えればいいのか、いろいろ衝撃を受けて反応できませんでした。このことは夫には言わず、胸にしまっておくことにしました。夫は陰口を嫌う人ですし、それに夫に話したところで何にもならないでしょうし。





 美樹についてですが、夫婦で話し合った結果、幼稚園に通わせることとなりました。私はあと約2年、専業主婦を続けるわけです。幸い、通う幼稚園はすぐに決まりました。マンションの近くに幼稚園バスが来てくれるので、毎朝そこへ美樹を連れていくのが私の日課となりました。

 すると、娘がいない合間をぬって、鏑木部長の奥様がたびたび一人で訪ねてくるようになったのです。

「健輔くんはどうしたんですか?」と聞くと、「家にいますよ」とのこと。健輔くんも娘と同じ幼稚園に通っているそうですが、登園拒否をしていてしばらく行っていないとのことでした。

「健輔くんもつれていらっしゃったら……」と私が気を遣っても、「いえ、いいんです。私、あの子と一緒にいたくないから」とおっしゃるのです。そんなことをまだ知り合って間もない私に言う奥様に、私はちょっと違和感を抱き始めていました。

 そうして奥様は午前中の間ずっと、自分の親がいかに毒親だったかという愚痴を私にこぼすのでした。殴られたとか雪降る夜に裸にされて庭に立たされたとか。こちらが引いてしまうような話ばかりでした。正直いって健輔くんへのあの仕打ちを見た後では、御自分だって毒親なのでは? と思わずにはいられませんでした。それにこの奥様、ちょっと人との距離感がおかしいのでは……?

「初めてママ友ができて嬉しいです」とも言われましたが、うーん……という感じでした。



 それからしばらくしたある日、夫がとんでもないことを言い出しました。

「健輔くんを我が家で預かることにした」



<つづく>

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