第17話 梨澄妃という名の災厄

「淋珂様、失礼します」




泉喬が部屋に入ってきた。


その後ろには大きな箱を持った女官や衣掛けを引く女官が付いてきている。


泉喬達が部屋に入ってきてから、服はどうだのと女官達があたふたしているのを淋珂は唯見ていた。


自分も動かないと、そう思って入るのだが、たとえ動いたとしても一切役には立たないのだという事を知っている。


それどころかむしろ気を使わせて邪魔になってしまう。


淋珂自身、自分が何もしないことが彼女らへの最大の手伝いなのだ。




「準備は終わった?」


「一応、終わりましたよ。ですが、此方がいくら頑張ったところで淋珂様がキチンとしてくれなければ意味がありませんからね」




それを言われれば何も言い返せない。


しかし、此方だってわざと失態を犯しているわけではない。


いくら気をつけていても失敗する事はある。




「一度くらい失敗をしても良いの?」


「その一度が命取りになるんです」




間髪いれず突っ込んできた泉喬に、淋珂はそれ以上歯向かう気力も無く腰を下ろした。




「もう出発の時間ですよ、お立ちになって下さい」


「あと1分・・・」




泉喬が無理矢理淋珂を椅子から引きはがす。


やがて淋珂も抵抗を辞め、嫌々ではあるものの腰を上げた。




「いちいち面倒臭い人ですね」


「泉喬、前よりも口が悪くなってない?」


「はい、主に景躁様が淋珂様を嫌っているってわかった時からは特に」




淋珂は諦めたように前へと歩き出す。


景躁という人間に嫌われているという事は、あえて聞かないことにした。


それがさらに泉喬の機嫌を損ねることになることを危惧したからだ。


女官、宦官を連れて梅花宮を出る。


蘭花宮に行く時よりはすれ違う人間が少ないことに、淋珂は少し肩の力を抜く。


それは泉喬や他の女官、宦官も同じだった。




「蓮花宮に入る前に一つ、もしも梨澄妃の言動に腹が立っても、絶対に表に出さないでください。あとで特別に愚痴を聞きますから」




今まで言われなかった事をいきなり言われ、慌てて意味を問う。


しかし、「着きました」と泉喬に無理矢理話を切り上げられもやもやとした気持ちのまま蓮花宮へと足を踏み入れた。


宮内は異国の物であふれている。


彫刻を施してある塔のようなものが池の中心に置かれていたり、屋敷自体木造ではなく長方形の岩や円柱の柱で作られている。


女官は見たことのないような衣装を着ており、異質な雰囲気がにじみ出ている。


門をくぐった瞬間に、まったく違う文明に入ってしまったのかと思ってしまうほどだ。




「泉喬、ここは・・・」


「梨澄妃は、西方の国々から送られてきた方なのです」


「西方の?」


「はい、当初は瞭国に住んでいた梨澄妃の汀家ですが三百年ほど前に西方の国に脱出されて今や西方の大国、フリィジアの第三王妃を輩出するほどの名門。西方の人間の東国嫌いをなくすなど、普通の者にはできませんよ」




そのような大事なことをなぜ今言うのか。


淋珂は泉喬に「言うのが遅い」とささやくと、「さっさと動き出さなかった淋珂様が悪いです」と言い返されてしまい黙った。


それにしても異国出身の妃か。




「梨澄様、淋珂様がいらっしゃいました」


「入れなさい!」




屋敷の中から声がする。


そして静かに木製の扉が開いた。


内部には絨毯が敷き詰められており、明香妃の屋敷よりも数倍の値段が掛かっているように見える。


ところどころに置かれている彫刻や、西方を匂わせる絵画、家具などは一切瞭国に伝わるものではない。


その空気自体も、異国の物に感じられる。




「いらっしゃい、淋珂さん」




黄金色に輝く髪を揺らし優雅に歩いてくる梨澄妃。


婚姻の儀の際に何故梨澄妃に目がいかなかったのか不思議になる。


しかし、そんなことは後で考えればいい。


淋珂は梨澄妃の女官に促されるままに、西方の花が刺繍された長椅子に座った。




「どう?私が実家から持ってきたソファーは」


「そ、そふぁ?」


「仕方がないわよね、庶民にはフリィジアと関わる機会なんて絶対にないし」




駄目だ、乗り切れる気がしない。


挨拶が終わるのが先か、自分の手が出るのが先か、淋珂は最初に交わした言葉だけで不安になった。


泉喬をそっと見ると、目で「だから言いましたよね」と訴えている。


泉喬が愚痴を聞くなんていうモノだから大したものなのだとは思っていたが、大したもの過ぎて泉喬も役に立たなくなりそうだ。




「お茶はいりますか?」


「いいえ、お気遣いなく」




少し強い口調で返すと、それを優雅に受け流し女官に「お茶を淹れて」と頼む。




「せっかくの機会ですもの、普段は高級すぎて飲む事の出来ない紅茶というものを、飲んでみたほうがいいですわよ?」


「は、はぁ」




言動がいちいち腹が立つ。


何なんだコイツの馬鹿にした言葉は。


相手を見下すことにしか脳がないのかこいつは。


淋珂の苛立ちは順調に蓄積する。


しかし少し視線を下に落として気が付く。




”コイツ、薄い”と




しかしその視線も梨澄妃には気付かれていたようで、




「それにしても暑いですわね、今の時期は」




ゆっくりと胸元をパタパタと羽扇うせんで仰ぐ。


その奥にちらりと見える”さらし”




「あら、はしたなかったですわね。それにしてもひどくわね、この国は。この胸がはしたないからさらしで押さえろなんて言われましたのよ。それに比べてあなたは巻かなくてもいいみたい。貴女が羨ましぃわ」




口を開けば自慢自慢。


淋珂は怒りを踏み越え、そして無となった。


無となった淋珂は強い。


相手の言動を、自分の感情無しにただ躱し続ける。




「どうです、紅茶の味は?」


「おいしいですね」


「でしょう、庶民のあなたには夢のような味ではなくて?」


「はい、そうですね」




そんな調子でしばらく時間が過ぎた。


やがて、梨澄妃は淋珂への自慢に疲れた様で「それじゃ、また会いましょ」と言って奥へ引っ込んで行った。




「それでは、淋珂様」


「ええ、とても”楽しい”時間をありがとうございました、とお伝えください」




淋珂と泉喬は、お互いに愚痴をこぼしながら梅花宮へ帰ってきた。


他の女官や宦官はそのまま通常業務に戻る。


しかし、梨澄妃の話を延々と聞いていた淋珂と泉喬は部屋に入った瞬間に崩れ落ちた。




「何、あの高慢そのものの化身みたいな女は!」


「あれが、梨澄妃の正常運転です。先に梨澄妃に挨拶に行ってよかったです。機嫌が悪いとあと三倍は話を聞かされましたよ」


「それは、恐ろしいな」




二人はとにかく無性に腹が立って、どうしようもなかった。


ただ耳に焼き付いた梨澄妃のあの笑い声が、まったくなくならない。


ずっと幻聴が聞こえる。




「挨拶が終わってからも、ここまで苦しむなんて・・・」


「はい、本当に恐ろしいです・・・」




やがて淋珂よりも先にアノ幻聴を克服したであろう泉喬は、「劉様への報告があるので・・・」と力なく言い、外へ出て行った。




「お疲れ様です、淋珂様」


「(陰)、あなたも聞いていたの?」




(陰)は「まさか」と言って首を横に振る。


その顔は笑顔ではあるのだが、少し口元が引きつっている。




「あっ、苦手なのか?」


「はい、危うく地仙から堕落するところでしたから」




梨澄妃は様々な方面から恨みを買っているらしい。




「よく梨澄妃のもとで働けるなぁ、あの女官とか宦官は」


「そうですね。恐ろしいですよ、蓮花宮の女官、宦官の詰め所は。地下室が用意してあって、その中で全員が麻でできた枕を殴ったり、急に泣く人間が現れたり。とにかく恐ろしいです」


「うん、そうだな」




淋珂は初めて同情のような気持ちを感じた。


(陰)には、少し愚痴を溢すだけで我慢した。


さすがにそれ以上言うと(陰)が堕落してしまう。




被害者、淋珂、泉喬、陰(もらい苛立ち)の3名。


彼女たちは悶々とその夜を過ごしたのだった。


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